一日の行動記録 9:15 バスで六本松地区を出発 | 11:50 バスに乗っている途中で休憩をはさみ、現地に到着。バスから降車。 築城の生産組合長である相川さんと連絡をとる。 | 12:00 相川さん宅を訪問。そこで、16:00頃まで四人の方のお話を聞く。 | 16:20 お話を聞き終えて、バスに乗車。 | 18:00 途中で休憩をはさみ、六本松地区に到着し、解散。 お話を聞かせてくれた方々 村田 時義さん 大正5年生まれ 中山 英樹さん 昭和20年頃生まれ 相川 源太郎さん 昭和26年生まれ 相川 恵美子さん 昭和30年生まれ <調査内容> ○しこ名について 以下にわかった田のしこ名の一覧を記す。 しこ名一覧 ニホングリ(弐本栗) コイチバル(小市原) コイチバルダ ホンデン(本田) シマダ(島田) タカイモリ(高井森) カネツキベン(鐘突免) サンザブロウ(山三郎) ヨシマツ(吉松) ジョウノマエ(城ノ前) ヤナギノセ(柳ノ瀬) カモンダ(掃部田) タカノス(鷹ノ巣) フルカワ(古川)ニシビラ(西平) ヨコババ(横馬場) ウラダ(浦田・裏田) カキノキワダ(柿ノ木和田) サンペイバル(三兵エ原) オオシゲ(大繁) カミヤマニタ(上山仁田) シモヤマニタ(下山仁田) ゴタンガク(五反角) ナガフカ(長深)(地元の人はナガフケと呼んでいる。)ウラコガ(浦古賀) ツジ(辻) ヤボタ(藪田) ハチリュウ(八竜) カルカスダ(傘田) ナガツカ(長塚) ミゾムコウ(溝向) イシゴモリ(石籠・石小森) コバンタ ヒワタシ オケミズ(桶水) ニシダ(西田) そして、しこ名の範囲は以下のようになる。 小字新替のうちに―ニシダ(西田) ミゾムコウ(溝向) ナガツカ(長塚) 小字二本杉のうちに―ハチリュウ(八竜) 小字五本松のうちに―ナガフカ(長深) ウラコガ(浦古賀) ゴタンガク(五反角) ツジ(辻) ヤボタ(藪田) ヨコババ(横馬場) カミヤマニタ(上山仁田) シモヤマニタ(下山仁田) 小字四本松のうちに―オケミズ(桶水) サンペイバル(三兵エ原) カキノキワダ(柿ノ木和田) ニシビラ(西平) ヨコババ(横馬場) 小字三本杉のうちに―カルカスダ(傘田) 小字五本杉のうちに―イシゴモリ(石籠) 小字二本栗のうちに―コイチバル(小市原) コイチバルダ コバンタ 小字四本栗のうちに―コイチバル(小市原) オオシゲ(大繁) シマダ(島田) ホンデン(本田) フルカワ(古川) 小字二本松のうちに―ジョウノマエ(城ノ前) カモンダ(掃部田) ヨシマツ(吉松) ヒワタシ ヤナギノセ(柳ノ瀬) フルカワ(古川) 小字五本栗のうちに―サンザブロウ(山三郎) カネツキベン(鐘突免) タカイモリ(高井森) ヨシマツ(吉松) フルカワ(古川) 地図にもしこ名の範囲が示してある。村田さんによると、しこ名は人によって呼び名が違うということだが、下宿区長である中山さんの協力により最も確かだと思われるしこ名を集めた。橋のしこ名は特に無く、鋸橋が石でできていたので石橋と呼ばれることもあったが、昔から鋸橋と呼ばれていたらしい。堤防は、新替のあたりにあったものがナカイデ、塩田川のもっと上流で温泉地区あたりにあった堤防はユノイデと呼ばれていた。水路は、これもまた特に呼ばれていた名前は無く、水を引くところや、水路のある場所にちなんで何々のミゾと呼ばれていた。たとえば、ナカイデから引いた水が通る水路はナカイデのミゾと呼ばれていた。そしてまた、ハチリュウというしこ名は下宿だけでなく今寺にも吉田にもあったという。また、しこ名だけでなく現在の地名についても教えて頂いた。地名には杉や、松などの名前がついているものが多いが、昔は杉、松、栗の順で水利や土地の質がよく、よい米がとれていた。そのため、この順で土地の値段が高かった。そして、国道34号より南で塩田川から水を引いている地域を総称して新替と呼んでいた。新替は水に困らず、下宿で一番米が取れるところであり、杉は新替に含まれていた。塩田川側に新替や杉の字のついた小字名が多く、反対の山側に松や栗の字がついた小字名が多いのはこのような理由による。新替については、お話によると、新替周辺の土地を鷹ノ巣堤の水をもらう代わりに温泉区の人にあげたので、代わり(替わり)の意味をこめてその地名がついたのではないかということである。昔は、このような地名は道路ではなく水の流れで分けていたという。また、国が決めた地名と現地の人々が呼んでいる地名には違いがある。「築城」は信号機などには「ちくじょう」という読みが書いてあるが、現地の人々は「つきじょう」と呼んでいる。 ○古賀(シュウジ)について このことを尋ねたとき、最初シュウジと言ってもわかっていただけなかったが、古賀と言ったらわかっていただけた。古賀には特に名前は無く、班という単位で分けているという。この班は、隣組ともいう。下宿は1〜15班に別れており、その範囲は地図に記してある。行事を行うときなどは班単位で仕事をしていて、班の構成は今でも生きており、毎月一回は班長の集まりがある。現在、生産組合単位で祭りを行っているところもあるが、築城周辺はこの班単位で祭りを行っている。昭和の始め頃は100ぐらいしか班が無かったが、最近は300ぐらいあるという。 ○村の水利について 昔、水は水路や川をせき止めて横に水を流し、ある程度田に流れたら上の田から下の田へ水を流していくというようにして水を流していた。下宿村の水利は次のようであった。二本松・四本栗あたりの田は焼山の道徳堤という所から水を引いていた。コバンタ、コイチバル、コイチバルダ、などの二本栗南部の田は餅の木堤から水を引いていた。国道より南の、新替と総称されていたところは、塩田川より水を引いていて、今、新替という小字になっているあたりの田はユノイデと呼ばれていた堤防から水を引いていた。塩田川の水は今寺と共有していた。四本松と五本松あたりの田は早水道という用水路から水を引いていて、鷹ノ巣堤は早水道の水を引き入れて、水をためていた。早水道は湯ノ田、本村の二つの村と共有し管理をしていて、たまに溝の掃除をしたりしていた。早水道の水は、昼は田に水を引き入れて、夜は鷹ノ巣堤に水を入れることを取り決めていた。また、これ以外にも水にまつわるお話をしていただいた。昔は田に水を引き入れるためには水利権というものが必要であり、それを得るためにはそれなりの代償があった。例えば、塩田川の水利を今寺にあげる代わりに今寺からハチリュウの田をもらったり、鷹ノ巣堤の水を得るために新替周辺の土地を温泉区の人にあげたりした。水は百姓にとって非常に大事なものだったので、当然水争いもあった。特に圃場整備前は、水路の水漏れも激しかったので、水争いも激しく、水に関する取り決めも厳しかった。よりよい水利を得ようと村は団結して水利を得ていたが、それも表向きの話で実際は村の中でも水利をめぐる争いがあったという。以上のような水に関するお話をされる4人の方々の口ぶりから、水がいかに大切なものであるかということが推察された。 ○旱魃について 1994年、今から六年前の大旱魃のときは水が空になるところもあったが、多少水が残っているところもあったそうである。下宿川、山三郎堤、道徳堤などは空になり、山の堤あたりの田はあぶなかった。そこで、四本松、二本松あたりの水をポンプでくみ上げて、そのような水が無い田にまわしていた。鷹ノ巣堤は、水をまわすところを日によって分けるなどの手段を講じて何とか保っていた。塩田川は、十分とは言わないまでもそれなりに水量があったのでだいじょうぶだった。今と同じく、昔の旱魃のときも一番困ったのは山三郎堤、餅の木堤など山の堤あたりの田だったという。それは、山の堤は雨が降らないと水がたまらないので、日照りになるとすぐ空になってしまうという理由による。また、そのときには水をめぐるけんかがあったらしい。塩田川は、昔の旱魃のときも水が空になるというようなことはなく、その周辺の田は大丈夫だったという。そして、雨が降らないときに、特別に雨乞いをするようなことはなかった。また、長崎街道が通っていた関係で平坦地に家があったので、水が足らなくなるようなことはあっても水害が起こるようなことはなかった。水害があるのは、塩田町や鹿島など川下のほうだったという。 ○村の耕作について 築城周辺では、米、茶を主に作っており、昔は養蚕もしていたので桑畑もあった。麦もないことなかったが、茶と麦の収穫期が重なるので麦は作られなくなり、今ではまったく作られていない。桑畑は鷹ノ巣堤周辺にあった。茶畑は五本松と一本松にまたがるあたりにたくさんあったが、今では住宅が建てられていて、その面影はない。水田は宅地化が国に許可されないので、昔からの形が多少残っている。養蚕は戦前戦後くらいでアメリカ産の絹が売れるようになってから廃れてゆき、その代わり茶を作るようになった。また、昔から裏作はしなかった。そして、しこ名のところでも書いたように国道より南の塩田川側は水利がよく、土質もよいのでおいしい米がたくさんとれていた。それとは反対の山側は、水利が悪く、土質も悪かったので米があまり取れず、しかもパサパサしていて食べられるものではなかったという。しかし、化学肥料が入ってからは、どこの米もおいしくなったらしい。化学肥料が入る前は、山の芝や草、石灰、牛の堆肥、などを使っていた。また、農薬が入る前は食用油を手で振って虫を殺していた。一回では完全に殺すことができないので、何回も同じ作業をいていたという。 ○昔の生活について 村田さんのお話によると、村田さんが生まれた大正時代にはすでに家に電気がきていた。しかし、ひとつの家に電気のコードがひとつしかなかったので、家中のあらゆる場所で使いまわしていたという。一方、ガスは昭和40年ごろにやっときたということで、それ以前は石油コンロを使っていた。大正時代だと、燃料は薪であり、自分の山から取っていた。山を持っていない人は他の人の山から取ったりしていたが、別に文句は言われなかったという。薪を売る人もいたが、百姓は買うお金がなかったので買う人はほとんどいなかった。そして、村で共有している林はほとんどなかったという。また、トラクターが来たのは34年前ぐらいらしい。 ○米について 農協などなかった時代、百姓は地主の人に米を小作料として収穫量の半分ほど収めていた。小作人同士はもとより、地主と小作人も仲がよく、地主に文句を言うような人はなく、地主には頭が上がらなかった。収穫した米の保存は、俵の中に厚紙を入れて中と外の空気の出入りを絶って中が乾燥するようにした。そして、それを厚い甕に入れて虫とねずみの害を防いでいた。種籾は袋の中に入れて家に保存していて、たまに置く場所をかえたりして食べられることを防いでいた。食事においては、昔は米一升に麦を五合ほど混ぜて食べており、それを麦飯と呼んでいたが、おいしくはなかったという。葬式のときなどは、米だけの飯を食べることができたようで、それを白飯と呼んでいた。しかし、白飯はめったに食べれるものではなかったらしい。 ○牛について 牛は一軒に必ず一頭いたので、牛を他のところから借りるようなことはなかった。牛の商人をしていたばくりゅうという人から牛を買う人もいたが、このばくりゅうという人は詐欺師のようなもので、あるところで引き取った牛を別のところで売り、それを繰り返して金をもうけていて、仕事をしない牛を売ることもあったという。このばくりゅうについては、村田さんが体験談を話してくださった。ある日、村田さんのお父さんがばくりゅうから牛を買い、持っていた牛をばくりゅうに渡したが、その飼った牛は鋤を引かず全く仕事をしなかった。別の日、村の中でそのばくりゅうが村田さんのお父さんから引き取った牛を別の人に売っていたのを村田さんが目撃したという。このときの様子を村田さんは悔しそうにお話していた。村田さんによるとばくりゅうというのはこういう人ばかりだったらしい。それでも、口がうまかったので一度ばくりゅうにだまされた人でもまたばくりゅうから牛を買っていたという。また、皆さんのお話からばくりゅうは怖い人というような悪いイメージがあったらしい。 ○村を出入りする人について 村に入ってくる人は、先に述べたばくりゅう以外にはいなかった。逆に村からお茶を売りに出て行く人はいた。主に長崎へお茶を売りに行っていたという。しかし、嬉野町にも茶商人といってばくりゅうのようなことをしていた人がいて、自分のところで取れていた茶を高く売ったりしていたらしい。 ○祭りについて 旱魃のところで述べたように、雨乞いをするようなことはなかったが、年中行事としての祭りは昔からあり、今でも行われている。6月下旬には、田祈祷という祭りが行われる。8月31日には風日といい、鐘をたたいて米の豊作を祈る。そして、9月のお彼岸ぐらいに願が成就したということで、願成就という祭りが行われる。古賀のところでも述べたように、祭りは班ごとにで行われる。 ○昔の遊びについて ここからは村田さんの体験談が主となる。小学校に入る前は年上の人について遊びまわり、小学校に入ってからはみなで一ヶ所に集まって遊ぶことはあったが、近所遊び程度で他の村へ遊びに行くようなことはなかった。村田さんは今の温泉二区の電話交換局あたりにあった小学校へ行っていたが、他の村の子供と会うのは学校から帰るときぐらいであった。ちなみに、学校への行き帰りは畑の中の道を通っていたという。他の村へ入るのを妨害するようなことはなかったが、子供のときは他の村へ行くのを恐ろしいと思っていたそうである。他の村へ行ったのは、ある程度年をとって大人になってからのことだという。尋常学校を卒業した後は、昼は農作業を、夜は農作業用に縄をなってぞうりを作っていた。夜はそれだけでなく、何人かと一緒に繁華街へ出て飲食店で酒を飲んでいた。このとき、特に集まるような場所はなかった。夜遊びをするようなお金はなかったが、酒を飲むくらいのお金はあったという。その帰りに木になっている柿をとったり、桑畑に入って桑の実をとって食べたりしていたが、怒られるようなことはなかった。ただし、家で作った干し柿などを取ったら怒られたらしい。 ○結婚について 昔の結婚は年寄りの仲立ち人がいて、仲立ち人の人が相手を決めていた。しっかりした人だけが選ばれていたので、信用があった。逆に先に好きな相手がいて、それから仲立ち人を見つけて結婚することもあったらしい。いずれの場合も、結婚した二人のいる村と仲立ち人のいる村とで関係ができ、そこからまた新しい結婚相手の紹介があった。 ○最後に 今回の調査で印象的だったのは、皆さんがお話の中で、昔とはすっかり風景が変わってしまったという言葉を何度もおっしゃっていたことだった。昔の道のことなどを尋ねても、この地図ではよくわからないと言われて調べることができない部分もあった。それでも、しこ名を集めたり、昔の村の生活の様子を聞いたりして、少しでも昔の村の姿に触れることができたと思う。 |