内野

野田正志・松本大志

しこな
内野
壱本松…カゲヒラ (陰平)    ヤマノカミ(山ノ神)    サンダンガク(三反角)     ヤモト (山元)     ヤモトジリ         クボ(久保)       
二本松…カキノキダ(柿ノ木田) テーシゴ          ヒャースソイ(端石副)     ダワタゼ(駄渡瀬)   チャーバルジリ(田原尻)     ウネワラ        
三本松…シイノキイデ(椎の木土井) サンダンゼマチ(三反田) ビゴヤシキ(備後屋敷)     シャーレン(菜連)     チャーバル(田原)  
四本松…ヤシキダ(屋敷田)     ミスミダ         ナカタニ(中谷)     スゲタ(菅田)       テーガケ(樋がけ)     カズラオ(葛尾)  ヤマグチ(山口)  カワミテ(川充)   ハルノシタ(原の下) チシャノキ(売子の木) ショウブノモト(菖蒲の元)  キョウチ トイシカワ(砥石川) ハカノタニ(墓の谷)

内野山
タカオシタ(高尾下)  ノビラキ(野開)  スゲタ(管ケ田) オオカメタニゴエ(大亀谷越) トヒワタシ(戸樋渡)  ヤマノナリ(山の成) ヤマナシ(山成)ナカノミチキタ(中野道北) ナカノミチミナミ(中野道南) イシキリタニ(石切谷) イケノタニ(池ノ谷)     カツラオ(桂尾) テーダン(上戸樋谷) イチゴタニ(覆盆子谷) ソウヘエカワ(惣兵エ川) オンコヤ(御小屋) ヤシキソヘ(屋敷副) オノウエ(尾ノ上) サカシタビラ(坂下平) ナカカマモト(中釜元) フルカマモト(古釜元) トヒタニグチ(戸樋谷口)  クロハヤグチ(黒早口) ナカノハラ(中野原)  ドウトク(道徳) コタジゴエ(小田志越) ドウトクガシラ(道徳頭) トリタニ(鳥谷)  クロバエ(黒早)  シモツル(下鶴) シモツルカシラ(下鶴頭) ヨコガクラ(横ヶ倉) イワハエ(岩栄) ムクロタニ(椋呂谷) タヌキイワ(狸岩) ミツヲ(三つ尾) クミイケノタニ(汲池ノ谷) アラヒラ(荒平) オオタニ(大谷) ヤシキヒラ(屋敷平) クエノウチ(崩の内)  ツバキサカ(椿坂) オオタニガシラ(大谷頭) シロイワ(白岩) ウソノコエ     マルヤマ(丸山) スミカマ(炭釜) コクダシ(粉下し)  ヘエノオ(辺の尾) コウライジン(高麗神) カンノンダニ(観音谷) ヤマミチ(山道) ウエカマノモト(上釜の元)

行動記録
  電話で聞いていたいたとおり、嬉野インターを降りたことろでバスを降りた僕たちの目にはすぐ 武藤製茶という店が飛び込んできた。店を訪ね、今回お話をうかがうことになっていた武藤鶴一 さん宅に車で案内してもらった。武藤さん宅はその店から500mくらいの所にあり、僕たちは ソファーのある部屋に通された。部屋には武藤鶴一さんの他にもう一人おじいさんがいらっしゃ り、2人からいろいろな話をうかがうことができた。

質問
>水はどうやって得ているのか。
ため池。道徳の堤など。

>雨乞いはしていたのか?
昭和15、16年ころ、道徳の堤のところで一晩中鐘をたたいたりした。

>平成6年の干ばつの時は水は足りたのですか?
水は圃場整備をしてからは足りないことはなかった。水は40日くらい雨が降ら なくても道徳の堤があるから持つ。稲には支障はない。

最近の若い人たちは、自分たちのタンナカのことは知っているが、よその所の タンナカを何と呼んでいるのかは知らない。

>米の保存は?
一般的には袋に。蔵がある。ネズミの来ないような蔵。

>祭りはあるのですか?
田植えの終わった時の田祈祷、彼岸の時の彼岸願成就。これは大字下宿、今寺、 内野、温泉地区の4部落が4年ごとに交代制でやっている。

>(この地区の発展に関して)電気はいつ頃来たのですか?
我々が生まれた頃にはすでに電気は来ていたが、家に1つ裸電球がある程度で、 風呂には石油ランプを持って入っていた。ガスは終戦後で、むかしは露天風呂 だった。温泉ではなく五右衛門風呂。

>昔の若者はどういった生活をしていたのですか。
早く飯を食って、早く寝ていた。いまみたいに夜遅くまで起きることはなかっ た。
いろりの灯りでわら細工をしていた。ラジオも内野に30軒に2〜3軒しかなく、 大東亜戦争(太平洋戦争)の開戦の時もラジオでは聴かなかった。
小学校へはわら草履で行っていた。抽選で靴が配給されていた。白米が当時17 円、東京までの汽車賃が15円だった。

>飼っていた動物は?
1軒ずつ牛がいた。仕事をさせるための役業として。鶏や兎も飼っていた。兎 はペットとしてではなく、蛋白源として。軍隊の防寒具にもなった。

>農業の機械化はいつ頃から?
機械化が始まったのは昭和30年くらい。普及は40年くらいか。

>村の様子の変化は?
元々は道がなかった。峠へ向かう(峠越えをする)人が通程度だった。 とき どき車が来る、というほど珍しかった。

老人の年齢は70歳と74歳。