【藤津郡嬉野町寺辺田】 歩いて歴史を考える 現地調査レポート 1LA00121 下條 孝 1LA00136 図師靖弘 ・お話をうかがった方……林田作次さん(昭和9年生まれ) ・小字について
・しこなについて しこなについて林田さんは「田んなかとかの呼び方は各家々で違っていて、共通のしこなとかは少ないんです。うちではく野口の畑〉とかく野口の下の段〉とかいうふうに、<〜の畑〉とか〈〜の…の段〉って呼んでるんだよ。」と話してくれた。 また、「誰かの屋敷跡だったところは〈〜屋敷〉っていうんです。」とも教えてくれた。 私たちが、「今でもこういったしこなは使ってるんですか?」と質問すると、「野口とか久保のものは使いますね。」と答えてくれた。こういったしこなを聞いているとすべてがその土地の特徴をいかして、分かりやすく付けられていることがわかる。
共通のしこなは次の通り。 @三本柿…[田]サンセバる(三畝原)→三畝の水田がたくさんあったから。寺辺田の中では最も大きい水田があった。 *一畝=30.3平方メーとる
A寺辺田…[田]イェノダン(家段)→近くに家が段々とあったから。 [田]イェノヒラ(家平) B下山中…[田]タケンシタ(竹の下)→近くに竹があったから。 C大久保…[田]イチマイアゼマツ [山]ウウクボノヤマ(大久保の山) D野口…[田]イソヤシキ(いそ屋敷)→元はいそさんの屋敷があった場所だから。
・田んなかの持ち方について 林田さんの話を聞いていて一つ疑問が浮かんできたので尋ねてみた。「林田さんはいろんな場所に田んぼを持ってるんですか?」すると、林田さんは、「そうですよ。みんな一つの場所に持っているんじゃなくて、いろんな場所に持っているんです。例えば、三本柿に一つ、寺辺田に一つ、というふうにね。」と教えてくれた。 その理由を尋ねてみると、「今、土地を様々な場所に持っているのは昔の名残なんだよ。」じゃ、あなんで昔そんなふうに田んなかをもっていたかというと、その理由には、まず、集落ごとに土地にかかった税金、つまり地租が違ったということがある。それに、「同じ集落の田んなかでも下の方にあったもののほうが、上から肥料が流れてきたからよく肥えていて米がたくさんとれたため、かかる税金が高くなったということもあるんだよ。」と教えてくれた。つまり、みんなが同じぐらいのお金の負担を負い、同じぐらいの利益をえるためということだったのだろう。
・税金(地租)の使い道と現在 林田さんの話によると、上記の税金は各集落の生産組合に集められて、その集落の井堰や溝などの修復に当てられたそうだ。ここで、今でも税金の額は昔のように田によって違うのかを聞いてみた。この質問に対して林田さんは、「今でも違いますよ。均等にしようという動きもあったんだがね。どうしてかと言えば、一つの集落の田んなかの持ち主にはその集落の人だけではなく、他の集落の住民の人もいるんだけど、ここで、値段を均一化するとなると、各集落の生産組合ごとにその値段を決めるんだから集落でその額に差が出てしまう可能性が高いからなんだ。そうなると、『向こうの土地では税金は安いのに、こっちは高い。』と言う文句が出てきてしまうからね。」と答えてくれた。そういう近代化されていない部分こそ、私たちが今回の調査で注目すべき点なのだろうと思う。それに、田を色々な場所に持っていた方が、確かに手間はかかるが、ある場所で大きな被害が出ても他の場所は大丈夫だったということもあるだろうからいいのではないかと思う。
・小字の境界線について やはり、小字の境界線については今回の調査に必要となると思い、林田さんに尋ねてみた。すると林田さんは、「昔は水路を境界線にしてたんだけど、圃場整備で水路の位置が変わってしまったから、その境界線がどこらへんだったかははっきりとはわかんないんだよ。ただ、境界線をはっきりさせようという動きはあるんだ。」とそれぞれの小字の大まかな位置と範囲を地図に書いてくれた。寺辺田に住んでいる林田さんにとっては小字の位置や範囲についての質問などつまらないものであっただろうに、嫌な顔ひとつせず親切に答えてくれたことが非常にうれしかった。
・圃場整備が与えた影響について @農道整備…林田さんは、「農道が整備されて機械を田んなかに入れやすくなったから作業が楽になった。」と言っていた。こうやって農業の機械化が進んだんだのだろう。(圃場整備写真省略:入力者) A水路整備…水路が整備されたことについて、「水路がきちんと整備されるまでは田植え前に雨とかで壊れてしまった溝を修復しなくちゃならなかったけど、きちんとなってからは、その必要がなくなったからだいぶん楽になったよ。それに、水を簡単に田んなかに入れれるようになったことでもすごく助かった。」と林田さんは話してくれた。(水路整備写真省略:入力者)
・井堰について 寺辺田では吉田川から田んなかに引水するそうだ。引水するためには水をせき止める井堰が必要となるが、昔の井堰はどういうものだったのか聞いてみた。「昔の井堰は、まず川に杭を打ってそれに竹を編み、そして透き間の空きそうな所にしばをつめるんだ。あっ、しばっていうのはかやの根を焦がしたものなんだけどね。そうして、水路に水が行くようにするんだ。だけど、これはすごくもろくて、雨が降るとすぐ壊れたんだ。だから、そのたびに修理しないといけなかったんだよ。」と林田さんは教えてくれた。<昔の井堰の図>(図省略:入力者)
・現在の井堰(寺辺田大橋付近)写真(写真2枚省略:入力者)
・干ばつと水難について 川が干上がったことがあったか尋ねたが、そういうことはなかったらしい。だから、今までに干ばつのために稲作に大きな被害を受けたことはないと話してくれた。そうすると、雨乞いをすることもなかったのかと聞くと、案の定なかったそうだ。ただ120〜130年前ぐらいには雨乞いをやっていたらしい。 では、1994年の大干ばつはどうだったのか尋ねてみた。すると、林田さんは、「井堰の下に水がたまる所があるんだけど、そこから電動ポンプで水を汲み上げて水路に流してたんだ。川がかれることはなかったから、水は何とか大丈夫だったよ。ただ、田んなかの中には水がこぼれるものもあったからこぼれそうなところを見回る『水当番』という役を決めていつも注意してた。こうやってどうにか水も不足することなく、日も良く照ったからその年の米は豊作だったよ。」と話してくれた。<干ばつ時の引水方法の図>(図省略:入力者) この大干ばつという危機を乗り越えることができたのは豊富な水をはぐくむ吉田川のおかげなのだ。 しかし、吉田川が災害をもたらすことも度々あったらしい。昭和24年、38年には吉田川は氾濫を起こしたそうだ。農協付近では堤防が決壊してしまったらしい。そして、林田さんの話によると、「台風とか長雨とかの時はひどい被害を受けました。稲はだめになるし、水路は壊れちゃうしで大変でしたよ。」ということだった。また、「その頃は傘とかカッパとか靴とかは無かったから、雨が降った時は“じんばち”と“みの”という格好で、履き物は何も履かずに田んなかとかに行ってたんだよ、今の生活からは信じられない様な生活でしょう。」としみじみと教えてくれた。この話を聞いて、現代の生活は非常に便利になったなあと思った。
・共同作業について 林田さんに共同作業について聞いてみた。すると、「ああ、やってたよ。こっちではそれを“いい”って言って、まあ結(ゆい)のことだね、田植えの時とかにお互いに手伝いに行ってたんだよ。田植えは上の田から順にやらないと下の田に水がうまくまわらないからね。人数は多くて10人ぐらいかな。けっこう親類が手伝いに来てたけどね。」と答えてくれた。また、「手伝いに来ていた人は同じ集落の人ですか?」と尋ねると、「いや、そんなことはないよ。どこの集落っていうのは関係なかった。早く田植えが終わった人たちが、まだ終わってない人の田に加勢に行くっていうかたちもあったね。特に広い田を持っていた人は、どうしても遅くまでかかっちゃうから。こんなかたちで助けてもらった人は、お盆とかに作業着などをお返しとして贈っていたんだよ。」と教えてくれた。この話からも分かるように、集落同士の争いなどはなく、色々と協力していたらしい。 〈段々になっている水田の写真(水:上→下)〉(写真省略:入力者)
・牛馬耕について 寺辺田あたりでは戦前まで牛馬耕をやっていたそうだ。また、牛を利用していたということだった。雄だったのか雌だったのか尋ねると、「農耕に使ったのは雌だよ。繁殖牛も兼ねていたからね。雄の牛は山から木をおろしたりする山仕事に使われたんだ。こんな山仕事をする人を“道引”って言ってたねえ。」と教えてくれた。 また、林田さんは“ばくりゅう”についても話してくれた。「“ばくりゅう”は吉田地区に6,7人ぐらいいたね。まあ、牛を育てるには最低でも40Rぐらいの土地カ必要だったから、広い土地を持っていた人が“"ばくりゅう”となったんだ。広い土地を持っていた人は、“ばくりゅう”に頼らずに自分で育てることができたんだけど、そうでない人は自分の家では育てることができないから“ばくりゅう”に預けていた。それか牛が子どもの時だけ自分で飼って、大人になったら“ばくりゅう”にその牛を子どもの牛と交換してもらったりしていたんだよ。」
・村の発達について 村に電気やガスがいつきたのか尋ねた。すると林田さんは、「電気がきたのはたぶん明治後半から大正初期にかけてだと思う。でも電気は各家庭に1つしかなかったんだよ。そして、ガスは昭和40年ぐらいにとおったんだ。それまでは風呂も台所もかまどだったんだよ。」と教えてくれた。 共同風呂はなかったのか聞いてみると、「このあたりでは風呂は各家庭に1つあったんだ。でも、上吉田あたりは“もやい風呂”っていう共同風呂だったよ。けっこう数もあったんじゃないかな。」と答えてくれた。ガスと電気がとおった時期の差があまりに違うのでびっくりした。 また、林田さんは家の屋根についても話してくれた。「ここらへんの家の屋根は、昭和35,36年ぐらいになってセメンと瓦に変わったんだよ。それまではずっとカヤぶき屋根だったんだ。だから、カヤはとても大切だったね。夏はわざと刈らずに成長させて、秋に長くなったものを刈って、それを5年も6年も小屋に保管したんだ。もしも、カヤが必要なときに無かったら、他のところからもらったりしてた。このときもお返しとして作業着を贈ったりしてたんだよ。」
・古道について 今の道路は、昔からの道に基づいて作られらためほぼ変わっていないそうだ。しかし、山道もあったそうで、「山道は隣町に行くときとか山から薪や木々を運び出すときに使ったんだ。私の場合、隣町に親戚がいたからそこに行くときによく通ったね。山道を通らないとかなり遠回りしなくちゃならなかったから。みんなが使う道だったから自分たちで常に整備してたんだよ。今はもうほとんど使ってないだろうから、荒れてるだろうけどね。」とその山道を教えてくれた。
・薪の利用法 山から薪を取ってきていたわけだが、それは風呂や台所のかまどにだけ使われていたわけではないそうだ。林田さんは、「昔、皿屋では陶磁器をつくっていてね。そのかまどでは松の薪を使っていたんだ。だから私たちは松の薪を山から取ってきて皿屋に売りに行ってたんだよ。」と話してくれた。この話からすると、「皿屋」という名前は昔そこで陶磁器を作っていたことに由来するようだ。
・若者の夜の過ごし方 「林田さんが僕たちぐらいの歳だった頃、夜は何をしていたんですか?」という質問に対して、「昔は青年クラブっていう若者が集まる会があったんだ。こっちでは集まる場所としてそれ用の施設があったんだけど、中通りの方はふつうの空き家を使っていたようだった。で、夜にそこに寝泊まりしてたんだよ。その青年クラブっていうのは当時の人間形成の場でね、他集落との情報交換をしたり、先輩方から水路やねつくり(ママ)、牛の飼い方などについて教えてもらったりして様々なことを勉強していたんだ。他の主な活動といえば、ボランティアみたいなことをやっていたね。草刈りとか、戦時中では出征兵士の家に農作業の手伝いをしにいったりもしていたんだよ。」と林田さんは熱く語ってくれた。このクラブに入ることができるのは15〜16歳からで、結婚すると卒業ということだった。また、このクラブのまとめ役は青年団の支部長(だいたい年長者)だったらしい。そういった場があったということが少しうらやましいような気がした。
・その他 @祭り……祭りについて聞いてみると、「祭りは寺辺田や両岩など吉田地区の8つの村が持ち回りで小浮流をやるんだ。昔からずっと続いてるんだよ。」と話してくれた。持ち回りというところに伝統が感じられる。 Aお茶……嬉野といえばお茶というイメージがある。そこでお茶について聞いてみた。すると、「お茶の栽培は副業として行われることが多いんです。でも、個人で工場を持っている人は少なくて、そういう人たちは皿屋とかにある工場に委託加工してるんだ。」と答えてくれた。 B魚……寺辺田は山間の村であるが、昔は魚をどうやって手に入れたのだろう? 林田さんに尋ねてみると、「昔は皿屋あたりに小さな魚屋があって、そこで買っていたんだ。でも、塩物や鯨が多かった。刺身なんてあんまり食べれなかったんだよ。」と話してくれた。やはり、交通網が開発される以前は、新鮮なまま運んでくるのは難しかったようだ。 また、食料を買いに行くことはあまりなく、ほぼ自給自足で生活できたそうだ。みそやしょうゆも作っていたということだ。 Cこうがけ……林田さんの話によると、苦しい生活を何とか免れようと“こうがけ”というものが行われていたそうだ。“こうがけ”とは何人かの人がお金を出し合って、それで集まったお金をその中の1人がもらうというもので、そのもらえる人は順番で決まっていたらしい。例えばA,B,C,D,Eの5人でそれぞれ1万円ずつ出して、4月はAがもらい、5月はBがもらい、6月は……という風にやっていたそうだ。
・現地調査を終えて 今回、嬉野町寺辺田に現地調査に行って感じたことは、今と昔の生活の差は大きいということだった。林田さんに色々と昔の話を聞いて、今の生活がどれだけ便利であるかを思い知らされたような気がする。今ではたとえ内陸部にいたとしても、交通網や保存方法の発達のおかげで生ものを食べることができるし、薪を取ってこなくてもすぐに温かい風呂に入ることができる。私たちはそういった便利さを当たり前と思うのではなく、そのありがたさに気付かなければいけないのではないだろうか。しこ名やその土地の慣行などとは全く関係ないことだが、これが今回の現地調査で感じたことである。 |