【藤津郡嬉野町下宿】

歩いて歴史を考える 現地調査レポート

1EC99070渋谷 実

1EC99089富永寛樹

1EC99093中島健太

1EC99108野見山修一

調査地域下宿(嬉宿、共栄)

 

しこ名

小字名

一本松

カモンダ(加門田)

イマジョウタ(今上田)

シロ(ジョウ)ノマエ

サンザブロウ(山三郎)

三本松

サンペイバル(三平原)                                                                                                                                           

四本松

ウラダ(裏田)

五本松

ウラコガ(裏古賀)

ゴタンカク=ナガフカ

ヤマンタ(山ん田)

鷹ノ巣

タカノス

コモン(小門)

二本栗

モチノキ

三本栗

コイチバル(小一原)

四本栗

ヒラタ(平田)

ホンデン(本田)

 

シュウジ(古賀)*この地域では、通常、古賀と呼ばれるようだ。

ウラコガ、ヤブタ、コイチバル、ニハン〜ジュウヨンハン(二班〜十四班)

などがある。

 

村の水利

堤から引水していた。また、イノタ、オンセンク(温泉区)との共有の用水であったために、取水は時問帯制で行われていた。*下宿PM6AM6、イノタ、オンセンクAM6PM6。そのため、大正初期まで分岐点における水争いは、かなり激しかった。

ため池の管理人をフーツウと呼ぶが、部落ごとの選挙で選ばれ、その任期は1年であった。

 

旱越

1994年の大早魎の際特別な対策として、時間給水にする、堤に残存する水をポンプにて取水するなどした。ただ、水涸れは無く、何故か豊作だった。雨乞いは、コイチバルのゴンゲンサンの:御社にて行ったが、その効果はよく分からないそうだ。水害について尋ねてみたけれども、特にナカということだった。毎年八月三一日に、カザビ(風避)と呼ばれる風避けを行っている。昔は部落ごとの担当制であったが、現在は公民館の主催で実施されている。

 

村の耕地

裏作のできない湿田がほとんどである。乾田は、ヒラタ、ジョウノマエ、コイチバル、イマジョウタに見られる。良田はウラダ、悪田はジョウノマエ、タカノス、コイチバルである。戦前は、反当り6俵、化学肥料が入った後では、反当り910俵の収穫高があった。戦前は、肥料として燐酸、石灰、蓮華草を混合したものや、ホシカなどを使っていた。

 

耕作に伴う慣

20年前(圃場整備前)まで、有効利用のために、畦に大豆や小豆を植えたりしていた。また、農薬のない時代は、菜種油、鯨油、石油などを撒いて防虫していた。水との比重差を利用したのではないか?

 

村の発達

電気は大正7年には既に来ていた。プロパンガスも昭和30年には既に来ていた。いずれも詳細は不明である。プロパンガスが来る前(昭和14年頃)は、サンザブロウの山に薪を調達しに行っていた。

 

村の生活に必要な土地

入り会い山などは特に無いようだ。

 

米の保存

基本的に政府米であったが、政府による検査の残品を、飯米(はんまい)として自分たちの食分としていた。この地域は、すべて自作農の方々だそうだ。収穫した米は、カマスと呼ばれる紙袋に入れて部屋に保存していた。種籾の保存も同様である。ネズミ対策について尋ねてみると、ネコを飼うくらいのもんやなかね()! だそうで、これといった対策はなされていなかったようだ。昔の食事における米と麦の割合は64ぐらいで、麦には、マルムギとシャギムギの二種類が利用されていた。

 

村の動物

牛はいたけれども馬はいなかった。各家に一頭以上はいて、メスがほとんどであった。バクリュウはこの地区にはいなかったが、トロクノあたりから来ていたそうだ。牛洗い場は二本杉にあり、牛捨て場は一本栗(現在の県警嬉野署の裏側付近)にあった。

 

村の道

地図上に図示の通り。旧長崎街道のことをさす。(地図省略:入力者)

 

まつり

814日〜15日、ビシャモンサンがある。基木的に全員参加で、昔は青年会、現在は部落ごとの主催で行われている。

・田植え時、タキト(田祈祷)がある。

9月下旬、ガンジョウジがある。

12月、カンマツリ(神祭り)がある。

 

昔の若者

若者たちが夕食後に集まる場所を「わっかもん宿」と呼んだ。その規律は厳しく、制裁としては、ゾウリモチなどがあった。昔の男女は、仏教青年会と呼ばれる寺の行事や、吉田、下野、下宿三地区合同の剣道大会などで知り合い、恋をした。結婚の際は、親の承認は必要であるが、基本的に自由だった。

 

村のこれから

地域のより一層の団結が必要である。ほとんどが兼業農家であり、大土地を所有していないと収入が少ないため、農業を辞めていく人が増えるのではないかという危惧がある。

 

協力して頂いた方々

大塚勝馬様 大正7年生まれ

伊藤修次郎様 昭和24年生まれ

 

行動記録

12:45一軒目の訪問を終え、迷惑にならないように昼食を済ませ13:30に伺う旨を伝えるが、一軒目同様、道に迷う。

13:45何度も何度も同じ道を緋徊した結果、ある交差点に気付いていない事に気付く。やっとのところで到着し、さっそく調査を聞始する。隣に住んでいる大塚さんも呼んで頂いていた。大塚さんは古文書のような資料まで用意して下さっていた。

14:30一軒目で頂いたビールが効き始め、一名(T)が少しばかり暴走する。

15:00一通りの調査を終了し、お菓子などを頂き談話したあとお礼を言い、おいとまする。

15:45高速走行中凄まじい通り雨に襲われ、生命の危機を感じる。

17:30中島邸到着。さっそく一日の反省をし、今後のレポート及び地図の作成に着いて方針や分担等を決める。



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