今日私たちは嬉野町、式浪、一位原について調査することになった。

手紙をおくった相手の方から式浪の香田さんを紹介してもらった。調査前日になってようやくアポがとれた。「アポがとれなかったらどうしよう」と不安だったが、その不安も解消された。県道鹿島嬉野線をとおってようやく、香田さんのいる香田自動車整備工場に到着した。

 私たちが車二台でそこに入っていくと、香田さんは私たちのことがすぐわかったようで、すぐに駐車位置を指示してくれた。車を降りてあいさつすると、「きょうは歴史の授業なの?」と話しかけてくれた。感じの良さそうな人だなと安心した。従業員の人がまだ部屋で休憩をしていたので、それがおわるまで、外に待機した。

 部屋に案内され、調査が開始した。「一位原の人も紹介してくれっち聞いたんだけど。」と最初は調査本来のこととはちがうところから会話がはじまった。「はい、一位原に詳しい人が見つけられなかったので、知っていたら紹介して欲しいのですが。」と答えると、ショッキングな答えがかえってきた。「今、一位原には新しい人しかすんどらんよ。」この一言には正直まいった。「どうしよう、調べようがない。」と頭の中がボーっとなっていると、「一位原のこともわかるから。」と香田さんがおっしゃってくれた。この時点で、式浪、一位原両方とも香田さんにお尋ねすることになった。

 式浪のだいたいの範囲は分かっていたが、正確なところまでわからなかったので、「どこらへんまで式浪って呼んでますか?」と聞くと、香田さんは地図を必死に見られて、30分ほどかかって式浪を把握することができた。小田志川のところが一番北になり、国道34号線が一番西、南にある山ははいらず、塩田川が東の端、山と塩田川の間のところまでが、式浪になる。それから昔の式浪について話してくださった。「昔、式浪は塩田町やったんよ。」と、私たちの知らなかったことがいきなり飛び出してきて、香田さんの話によると、嬉野の方が近いのに、塩田町にはいっていることが問題になっていたようで、昭和37年に香田さんたち10人が塩田町役場前で10日間の断食を行った。その後式浪は嬉野に入った。

 式浪は昔、70戸ぐらいの地域だったが、今では200戸以上ある。南大草野、式浪という風に分かれているらしい。地図に書いてある式浪二区というのは、昔は三坂とよんでいたそうで、式浪に人が増えたからそういうふうになった。一位原のあるあたりは、今寺部落で、地図に書き込まれていた一位原は香田さんによると一の坂と呼んでいたそうだ。「このへんがイチノサカでそのすぐ上のところなんかはタブヤマザカっちいいよったよ。」と話してくれ、「名前の由来とか分かりますかね?」と聞くと、「わからんねー」といわれ、語源までは聞き出せなかった。「ほかに香田さんがこう呼んでいたっていう地名とかあったら教えてください。」とお願いすると、「ここらはゼンヤシキ(禅屋敷)、こっちはヨシノモト、ここの坂とかはチンバザカ(ちんば坂)」という具合に地名を聞くことができた。一本松辺りをゼンヤシキ、大久保の少し西がわをヨシノモト、大久保辺りの坂をチンバザカとよんでいた。チンバザカはその坂が小さいからそう呼ばれていたらしい。ヨシノモトにはべつにヨシははえていなかったから、ずっと昔にはヨシがはえていたんだろうということだった。ヨシといわれて最初は何のことかわからなかったが、ヨシとはアシのことだった。他にはケイバジョウ(競馬場)、シンガイ(新谷)、ジキメキ(直目木)などをおしえてくれた。ケイバジョウは別にそこで競馬が行われていたわけではなく、競馬場ぐらい大きな芝の土地がひろがっていたからそうよばれていた。

 そして目的の中心である水田のことについてきいてみた。「細かい田んぼの名前を教えてもらいたいのですが。」ときくと、「細かい名前はしらんね。」と答えられてしまった。「たんぼ一個一個の名前とか呼んでなかったよ。大きくここが一本椎とかっていってただけ。」といわれ、「田んぼの名前やったら、役所の書類にのっとーよ。」といわれてしまった。「役所に行け。」はマニュアルにも書いてあったように、絶対に従ってはいけないと思い、「役所に載ってない地元の人しか呼び方を知りたいんです。」といったが、「でもわからんしねー」といわれてしまいました。香田さんも農業をしていたらしいのですが、大きく呼んだことしかないそうだ。

 そこで圃場整備のことについてきいてみた。その話の中で田んぼの名前でも出てくるかなと思ったからだ。しかし、圃場整備の2,3年前に香田さんは農業をやめていた。そこで、その当時から農業をやっている人を教えてもらおうとしたら、「みんな死んじゃったんよね。あそこにすんどる人はちょっとボケとるけだめやろう。」と言われた。「それに農業をやっとった人も、役所からもらっただけやけん、名前とかしらんよ。圃場整備とかやっとた人がもう死んでしまったから、誰もわからんよ。」と言われてしまった。聞ける人がいないとどうしようもなかった。そして、最後にダメ押しでショックな一言を告げられた。「この辺の田んぼは、式浪の人が売ってしまったのばっかりよ。」田んぼはあるが、持ち主がちがうところにいるのだ。これではどうしようもなかった。元の持ち主は、田んぼを売って他のところに行ってしまったらしい。「知り合いの行政書士に言って、詳しく調べて、そっちへ送ろうか。」と言われたが、そこまでしてもらうのは悪いし、お金もかかるのでお断りした。

 田んぼのことはぜんぜん調べることができなかったが、昔の式浪のことについてたくさん話をしてくれた。一位原については競馬場とか、ちんば坂とか、あまり一位原自体が広くないようなので少ししか話に登場しなかった。田んぼのことが分からなかったのは無念だったが、たくさんのお話をしてくれた香田さんに感謝をしながら、私たちは香田さんのところをあとにした。

 その後、せっかく車できているのだし、自分たちで式浪を少し回ってみて、土地の方にきいてまわることにした。まず、香田さんに教えてもらった式浪の範囲をみながら、式浪の中にある田んぼをまわって、そこで働いている方に聞いてみるか、もしくは、しこ名をよく知っているだろう方を紹介してもらうことにした。車で田んぼの中で働いている人をさがしていると、60歳ぐらいの女性の方を見つけた。「すいませーん、私たちは九大の学生で、田んぼのしこ名について調査しているのですが、このあたりの式浪の田んぼのしこ名についてご存じですか?」すると、「ここは式浪じゃなかよ。」と言われてしまった。知らないうちに式浪からでてしまったらしい。ただ、初めての土地だからというのだけでなく、香田さんの話と5年前の地図ではおぎないきれないほど、「じばんせいび」で土地の様子が変わってしまっているのだと思い、改めて調査の重要性を思い知らされた。それから式浪にもどって、何人かの方に同じ質問を繰り返していると、西野さんという、土地のくわしい人を教えていただいた。西野さんの家をたずねると、西野さんはちょうど納屋で仕事をされている最中だった。「すいませーん、西野さんですか?」と聞くと、納屋から「なんね?」とでてこられた。「私たちは九州大学の学生で、今、この土地の昔のしこ名について調べているのですが、西野さんが式浪の田んぼのしこ名にお詳しいと聞いたので、おうかがいしました。少しお時間よろしいですか?」ときりだすと、「わたしゃ、あんまりしらんよ。」と言われたが、「少しでもいいんです。教えてもらえませんか?」とくいさがって、いくつかのしこ名を教えていただいた。「あそこに茶色の小屋が見えよろうが。あそこがこの地図でいうと堤田やね。あそこに内川原ちゅう田んぼがある。」「あの川のむこうが、柳場ちゅう。」などと西野さんの家から見える田んぼを指さして、ひとつひとつ説明していただいた。その中にはさっき香田さんのところで説明していただいたしこ名もあったが、実際に目の前の田んぼとてらしあわせて説明されると、よりわかりやすかった。最後に、「じゃあ、がんばってね。」といって握手をしてもらった。黒くてゴツゴツした手だった。とてもかっこいい手だった。香田さんも西野さんも忙しい中を私たちの調査に協力していただいてとてもありがたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 そして、しこ名の範囲は以下のようになる。

 

小字二本松のうちに・・・ゼンヤシキ(禅屋敷)

小字樋の口のうちに・・・タブヤマザカ(多布山坂)

小字五本桜のうちに・・・ケイバジョウ(競馬場)

            アシノモト

小字四本椎のうちに・・・ジキメキ(直目木)

            シンガイ(新谷)

小字一本椎のうちに・・・ツツミダ(堤田)

小字五本椎のうちに・・・ウチンガエ(内川原)

小字桑の木田のうちに・・・ヤナギバ(柳場)

 

調査協力者・・香田俊雄さん  大正14年12月生まれ

 

       西野秀雄さん  昭和13年生まれ

 

 

調査者・・中嶌宏明  1ec00101

     

高尾雄一  1ec00074

 

   田中将行  1ec00084

 

   小林士郎 1ec00056