【藤津郡嬉野町皿屋地区】

歩いて歴史を考える現地調査レポート

 

L2−14 1EC99229 手島貴嗣

L2−13 1EC99209 佐敷幸英

 

しこ名について

 私たちはまず始めに生産組合長の桟明好さんの所に行った。桟さんは、大正生まれの80歳くらいのおじいさんだった。その桟さんにしこ名について尋ねてみたが、しこ名では田畑の事を呼ばないとおっしゃっていた。その代わり、小字でよく呼んでいたそうだ。結局、桟さんからはしこ名について教えてもらえなかったが、村のその他の歴史についてたくさんの事を教えていただいた。

 また、この村で昔は庄屋をしていて、今も農業をしているという松永友孝さんという方を紹介していただいた。そこで私たちは、松永さんのお宅にお邪魔してお話を聞かせていただいた。しかし、松永さんは40歳くらいのおじさんでしこ名については何もわからないという事たった。また、昔の畑に関する資料なども探していただいたが、やはり、しこ名につては何ものっていなかった。

 それまでの途中やその後に、区長さんの家や農業をやっている家を探して尋ねてみたが、しこ名の手がかりになる情報は全くつかめなかった。村には、お年よりの方々もたくさんいらっしゃったが、やはり一つもしこ名はわからず、「小字で呼んでいた。」という人くらいしか見つけられなかった。

 

・私たちはまず、生産組合長である桟明好さんのお宅を探すところから調査を開始した。初めての土地で、その日は猛暑だったので、道に迷いながら30分以上歩いて、桟さんのお宅につくころには、汗でビショビショになっていた。途中、郵便局のおじさんやガソリンスタンドのお兄さんに道を尋ねた。そして、桟さんは「かけはし」と読む事をそこで教えていただいた。桟さんは村の中でとても有名人だったのでちょっと驚いた。

 桟さんは、80歳くらいのおじいちゃんだった。お聞きしたところによると、大正時代の生まれで、村のいろいろな歴史を知っていた。字も上手だった。特に、戦前戦後あたりの話は熱心にしていただいて、間いている私たちも、その話に引き込まれるように興味が湧いた。

 桟さんは午後の12時から1時くらいまでの約1時間、話をしてくださった。昼御飯時だったので本当にご迷惑をおかけして申し訳ないと思いつつも、ご協力に大変感謝した。

 

桟 明好さん(生産組合長)の話―大正生まれ

皿屋区=大黒、羽口、鳴川、馬場頭、谷口、五頭別当、皿屋、瓢箪、祇園、(桟さんがおっしゃるには、地名を呼ぶときには、小字で呼んでいた。しこ名で呼ぶ事は無かった、ということだった。)

さらに小分けすると、天神、向方、横道、上馬場頭、下馬場頭、上瓢箪、下瓢箪などがある。

 

・農業について

今現在、皿屋区には農家は17、8ヶ所しかないそうだ。昔は、ほとんどが小作農であったので、貧しい生活をしていた。だから、出稼ぎをして家計を何とか支えていた。農業だけで十分生活していけたというところはまず無かったそうだ。又、昔は今みたいに機械が無かったので、苗を植えるのも、一本一本手作業だった。そんな状況だったので、子供たちは小学校の頃から田んぼの手伝いもしていた。子供も貴重な労働力だった。働かざるもの食うべからず、だった。

 

・村の水利

皿屋には、溜池やダムなどが無かった。そこで、水は隣の村から引いていた。隣の赤仁田には堤ダムがあり、そこの水の6割を皿屋、4割を西川内のものとした。その代わり、ダムの補修負担も同様に6対4の割合で皿屋も請け負った。また、隣にもう一つ西吉田があった。西古田には、ため池があった。そして、そのため池の権利は皿屋が持っていた。堤ダム〜皿屋の水路を馬場頭溝(ばばがしらこう)、西吉田〜皿屋の水路を鍋神楽といった。

 こうした村の間での水の出す割合や出し方などは、各村の水番、せん番の話し合いで決められていた。

 

・旱魃

昔から一番大変だったのは水不足のときだった。どの家も自分の田んぼが第一だったので、水はとったもん勝ちという精神があった。だから、村の田と田の分水地に行って、水の底に石などいろいろ積んで自分の田んぼにより水を多く引こうとしたり、他にも数々の悪行を犯したりした。そのような状況だったので、村同士はもちろん、時には隣の家同士でも争いが絶えなかった。他に困った事は害虫のことで、害虫の多いときは、たいまつをもって追い払った。雨乞いはした事が無い。

 すごい水不足のときには、村同士の代表が水路の東と西に別れて抽選を行い、当選したほうが水を買って生き残っていた(1994年の飢饉の時も)。また、ため池に水が溜まるのを一週間くらい待って水を有効利用する工夫などもした。

 

・昔の暮らしについて

電気は大正初期くらいに通った。家の中に、裸電球が一つぶら下がっているくらいのものだった。街灯は、20年前くらいから立ち始めた。昔の若い人たちは、昼は軍事工場や農業で働きづめだった。夜は青年クラブという公民館のようなところにみんなで集まって、みんなで話をしたり、花札をしたりした。暮らしは貧しく、田が不作だったので、収穫のうち6割は地主へ収めなければならなかった。不作のときは食べるものも無く、働きに出て買っていた。

 現在に近づくにしたがって、減反が進み、農家は減少した。人々は他に仕事を始めたり、都会に引っ越したりした。今にいたっては、農業は余暇でやるような感じになっている。

 

・窯業について

この地では昔、中国からの渡来人が羽口で陶石を見つけて、窯業が始まった。皿屋地区で窯業をやっているところは9ヶ所(内、4ケ所は家系的)あって農業と窯業があちこちに点在しているようになっている。羽口の陶石で作った陶器は弱かったので、窯業が盛んになってくると、陶土は、天草から運んできて、塩田と合田川付近の水路で作っていくようになった。この地区の陶器は昭和初期までは朝鮮に持って行ったりしていた。陶器や火鉢は皿屋地区で、どんぶりは吉田で主に作られていた。

 

・桟さんの話をお聞きして、桟さんに紹介してもらったこの地区で農業に一番詳しいという松永さんのお宅に向かった。そこでしこ名について尋ねてみたが、松永さんは40歳くらいの方で、しこ名は全く知らなかった。そこで、農家をやっている家か、お年寄りのいる家を片端から訪ねる作戦で7、8軒回ってみた。しかし、しこ名を知っている人は一人もおらず、知っていそうな人を紹介してもらっても、桟さんか松永さんしか紹介してもらえなかった。こうして二時間くらい動き回って、しこ名の調査は断念せざるをえなかった。仕方がないので、残りのわずかな時間は窯業を調べようと窯業をしている家に行った。そして、おじさんに工場を見学させてもらって、話をお聞きしてちょうどタイムアップとなり、しこ名が調べられなくてとても侮しかったが、調査は無事に終了した。



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