【藤津郡嬉野町下西川内】 歩いて歴史を考える 現地調査レポート 1LA00146田篭亮博 1LA00125白石裕介
7月20日。今日はすばらしい晴天で非常に暑かった。歩き回って調査するには向いてない気がした。なにはともあれ、僕たちは、バスに乗り込み目的地に向かった。バスの中で持ってきたテープレコーダーの調子を調べた。このときの調子は良好だった。バスも順調に進み予定どおりに目的地に着いた。バスを降りると地獄のような暑さだった。とにかく地図を片手に歩き出した。五分ぐらい歩くとAコープが見えた。少し涼もうと思ったそのとき警察に呼び止められた。以下そのときの警察との問答を少し記す。 どこから来たんですか? 福岡です。 なんかぞろぞろ来てたけどあれも同じ? はい。 見らん顔だと思って。何しにきたの? 歴史の授業があって授業の一環として嬉野町の歴史を調べに来たんです。 授業? 高校生? いえ、大学です。 どこの大学? 九大です。九大。僕の弟も九大だったよ。そうなんですか? で、何を調べるの? しこ名を調べるように言われて。 小字のこと? いえ、通称のことで地元の人しかしらない名前のことです。イニョウってしってる? いえ。 (ゆびさして)むこうがわなんだけど。珍しい名前だろ? 字はね印鑑の印に業って書くんだけど。 変わってますね。全国でもここしかないよ。何でも奈良時代からの歴史があって今でも残ってる。奈良時代からですか?多分役所があったんだろうね。あと面白い地名ってあるかなー。ああ、向こういくとユヤマってのがある。これは地図にも載ってないと思う。どのくらい遡って調べるの? 奈良時代ぐらいから? いえ、だいたい50年ぐらいです。 何日で? 一日です。一日で? それは無理だよ。いや、全部調べるんじゃなくてグループごとに区切られてるんです。 ああ、グループごとに分けて。僕たちは下西川内を調べるように言われて。 下西川内ならそこの小学校のプレハブの横をとおっていくとそこだよ。どうやって調べるの? 山口二郎さんに連絡をとってて話を聞かせてもらうんです。 二郎さんに聞くの?あの人は町議会議長だから失礼の無いようにね。二郎さんちわかる? はい、地図があります。 じゃあがんばってください。 ありがとうございました。
警察の方と別れて僕たちは下西川内に向かった。途中にあった吉田中央製茶工場の日陰で弁当を食べた。その時に何を聞くかを整理した。約束の時問の10分前にそこを離れ二郎さんちに向かった。予定の5分前に二郎さん宅に到着した。玄関へむっかった。二郎さんは庭にいた。以下二郎さんとの問答を記す。(テープレコーダーが不調のため録音できなか ったので方言などは大きく異なる) こんにちは。 僕たちは、九州大学の学生で今日は下西川内の昔のことや水田のことを調べにきました。ああ、 ハイハイ、今日やったかね?忘れとった。そういえば来るとかゆってたね。暑かですねー。暑いですね。まあ、中に入りましょう。すぐ終わるんですか? いえ、30分ぐらいです。じゃあ、中で話しましょう。すいません。(座敷に通された)田んぼのしこ名について教えてもらえませんか? しこ名? はい、なんか地元の人しか知らない通称のことです。ああ、たん中のこと? ここでは田んぼのことをたん中というんです。 田んぼに名前とかっいてないんですか? ああ、あるね。なしの木とか別当とか。それを教えてください。(地図をみながら)まず、下西川内の範囲を教えてもらえませんか? 西川内川からこっちが下西川内だね。ここら辺が下西川内の部落だね。でここらの田んぼをベットウ(別 当)というんだよ。その上がツツラヤボ。 ツツラヤボですか? 何でツツラヤボって言うんだろうね。 ただ昔からツツラヤボ、ツツラヤボって言っててね。ここがナシノキ(梨の木)。こっちがマエダ(前田)。家の前のそこね。家の前が、前田だからまえまえのじいさんって呼ばれたりしてね。家の裏がゲンヤシキっていってね。ゲンさんっていう人の屋敷でもあったのかね。ゲン屋敷のゲンは玄かな? 源かな? 多分源だろうね。でも今じゃ田ん中じゃなくて茶畑になってるけど。ここがヤマノカミ(山神)。西川内川の向こうがミズヤマ(水山)。ここは、下西川内じゃあないんだけど、みんな下西川内の人が使ってる。 田んぼの水はどこから引いているのか教えてもらえませんか? 西川内川からとりいれてる。 水路の場所とその名前お教えてもらえますか? ここがウマラヤ(馬洗)。 ウマラヤですか? ウマアライバって書くけど、それがなまってウマラヤって言ってるね。で、こっちが梨の木遺跡。平成六年に旱越とかあったんですか? 平成六年? そんぐらいだったかな? ああ、あったね。 そのときの被害はどのくらいだったんですか? いや、この辺りではそれほどひどくなかったね。飲料水には困ることはなかった。でも、山の木が枯れてしまって茶色くなった。山が枯れるとか初めて見たね。他のとこでかなり困ったとこもあったらしいね。やっぱり、そんな時は隣の村から分けてもらったりしたようだね。ここにも山内から水をもらいに来たりしたね。 じゃあ、雨乞いとかしませんでしたよね? 雨乞いとかはしてないね。雨乞いしたって気象状況は人間の力ではどうにもならないからね。 そうですよね。電気とかわはいつきたんですか? いつきたんだろうね? 昭和2年生まれだけど小さいころにはもうきてたね。多分大正時代にはもうきてたんじゃないかな? 牛とか飼ってたんですか? 牛は飼ってたね。一家に一頭は必需品だった。牛がいないと仕事ができないからね。今みたいに昔はトラクターとかなかったから、牛を使って田を耕したり荷物を運ばせたりしてたからね。 一家で何頭も牛を持ってる人とかいたんですか? 4,5頭ぐらいもってる人もいたね。牛だけでなく馬も飼ってた人もいた。 祭りとかあるんですか? 氏神さんの祭りとあと夏祭りで盆踊りのぐらいしかないね。皿屋のほうに行くと大明神祭りっていうのがあって踊りを踊ったり相撲をとったりする祭りがあるね。 塩とか魚はどうしてたんですか? 昔は塩は酒みたいに車売だったから、塩屋って言う行商がいて売りに来てたからそこで買ってたね。あと魚は干し魚を売りに来てたね。 昔の若者について教えてもらえませんか? 子供のときはね、そこの前の山に薪を取りに行ったりよくしたね。この位の松ノ木の薪(手を30センチぐらい広げて)をとってきてそれを、皿屋って知ってる? あそこは焼き物の部落だからそこに持っていくと何十銭かもらえてなかなか良いアルバイトになってたね。あと、とってきた木で家の家具を作ったりしたね。杉の木や桧の皮は、はいで屋根にしいたりしたね。今じゃもうそんなところはないけど。昔は屋根に泥をしいてかわらをしいてたんだよ。夏は田んぼで冬は山に言ってたね。 昔の若者は何をして遊んでいたんですか? 大体青年クラブに行ってたね。そこに公民館があったでしょう? その公民館を青年クラブって呼んでいてね。みんなクラブクラブって言ってたけど。そこにみんな集まったんですよ。そこでは何をしていたんですか? 何をしていたかなー? 将棋とか碁とか。あと楽器で尺八を吹いたりしてたね。基本的にしたいことをしてたね。 若者が泥棒しても許されるとかいう特別な日とかあったんですか? 神様にささげるとか言う意味合いを込めたようなあ。うーん、そういう風習はなかったね。他の村じゃ変わった風習があるところもあったようだけど下西川内ではなかったね。他の村じゃ結婚は同じ部落の人としなくてはいけないとかいう風習もあったみたいだけど、ここでは結婚もわりと自由だし、基本的になんでも自由だね。 最後にこれから村はどうなっていくと思いますか? 村の人たちがみんな助け合っていかないといけないと思うね。分け合うというのが重要になってくると思うよ。仕事でもあまりなくなってくるだろうから一人でできるものも二人で分け合ってやるとかしないと一人は裕福になってもう一人は貧しくなるとかしてたら村が成り立たなくなるからね。 ありがとうございました。 いえいえ。また来てくださいね。 はい。
僕らは二郎さん宅を去った。そして下西川内の写真を撮ろうということになった。このとき取った写真を次のページに掲載する(佐賀県立図書館所蔵)。 以下写真の説明を少し加える。1枚目は、下西 川内のほぼ全体像。2枚目は、梨の木遺跡の写真。3枚目がその拡大写真。4枚目は、馬 洗の写真。5枚目が、前田。6枚目が、梨の木。7枚目が、水山。 最後に、親切にお話を聞かせてくださった二郎さんとその奥さんにこの場を借りてお礼を申し上げます。 |