【藤津郡嬉野町中山】 現地調査レポート lLT99035落合 恵 1LT99069佐保恵子 お話を聞かせていただいた方: 小林サメさん:昭和四年一月生まれ
小さな橋を見つけ、その下で昼食をとり、川の流れや魚などを眺めながら易々と一時間半をつぶしてから、私たちは小林邸を訪れた。まだ新しく、和風で洗練された大きな家だった。干してある洗濯物の多さからも、ちょっとした大家族かと思われた。 ためらいながら戸口に近づくと、すぐに身軽そうなおばあさんが出てきて、こちらが何か言うより早く、気前よく家に上がらせてくれた。見た目も動き方も若々しく明るいので、おばあさんと呼ぶのは失礼な感じがする。嬉野町・中山の生産組合長、小林秀男さんのお母様である。息子の秀男さんが多忙なので、この方からお話を伺うことになっている。
・中山のしこ名一覧 田畑小字二本椎のうちに フダモト(札元)、 コウラキデ(土器)、 カブラ 小字二本杉のうちに シンジャヤ(新茶屋)、 ヒラコバ(平木場) 小字一本杉のうちに イワサキ、 フッジョウ(古城)、 ヨシノタニ(吉ノ谷)、ハルガシラ(春頭) 宅地小字一本杉のうちに サクラギ(桜木)、 ゴバンヅカ 川 カマガワ(鴨川) 橋 カマガワバシ(鴨川橋)
・水利と水利慣行 中山の範囲としこ名を教えてもらった後、私たちは質問に入った。礼儀は守りながらも、目上の方と話すときでもノリの変わらない落合恵が主に質問し、佐賀県出身で当然佐賀弁に強い佐保恵子がノートに記録しつつたまに言葉をはさむ形になった。
*村の水 「ここら辺は、どこから水ひいてるんですか?」と落合。 おばあさん:昭和四年生まれでサメという名前だと照れながら教えてくれた。八人兄弟の末っ子で「おさめ」という意味でサメさんだそうだ……は愛想良く答える。 「水はね、山からひきよっ。吉田川から田ん中にひきよっとよ。山ん中に沿うて溝のあるけんが」 「え、じゃあ、その溝から汲んでるんですか」 「汲むんじゃなくてね、堰ば作っとると」 「堰ですか。どんな……?」 「ナイロン袋に泥ば入れて」 ああなるほど、と私たちはうなずく。素朴だが、無駄が少ない。 「水とるとき争いとかありました?」 「水争いはなかったねえ。嬉野は水の十分あっけんが」 「水、きれいですよね。お昼、そこの橋の下で食べたんですよ。日陰だったし」 「お弁当持って来てたから」 「そがんね。トイレは水洗になったばってん、ここんたいはまだ水のきれいかもんね。嬉野川は汚かばってん」
*旱越など 「そうですか。でも六年前に大旱魅があったんですよね」 うなずきながらサメさんは、初めて少し顔をしかめてみせた。 「あん時は田んぼの枯れてしまった。収穫は少一なかったですよ。ここんたいはまだよかったばってん、山んたいはほんに水のなかった」 「え、じゃあ、どうやってのりきったんですかね。対策とかは。その、雨乞いとかしたんですか、やっぱり。センバタキとか」 「そがんとは知らんねえ。なーんもせなかった。ほったらかし、食べるだけはあったんよ」 そう言ってサメさんはおおらかに笑った。私たちも笑う。辛い思い出も明るく話せるのが若さの秘訣かもしれなかった。あるいは、兼業農家が増えて、天候が家計に与える影響が小さくなっている証拠だろうか。 「兎鹿野(とろくの)の人は竜の口あたりにあっ水頭(みずがしら)に参んしゃったばってんね。お米どん持って。そいとね、タンク付きの大自動車持ってる人はね、山の川からとってきよいなったよ」 「でもそんなの金持ちだけですよね」 サメさんはうなずいて、 「私たちはしーきらんかった」 「もし三十年以上前だったらどうなってたんですか」 「三十年も前ないば、どーもこーもならんかったやろねえ」 「昔はなかったんですか、旱魃は」 「ずっと昔はこがん水の田ん中にこんていうとは知らんかったよ」 「最近おかしいですよね」 「逆に水害はあったんですか?」 「あったよ。川沿いの田ん中に石のごろごろんなって、昭和何年頃やったろうかね」 「風害はどうですか」 「そんなにまでないですよ」 「じゃあ、台風はどうですか?」 「台風も、そうまでないですよ」 中山は、農業を営むのに理想的な環境だといえそうだ。
*ため池など 「入り会い山はありましたか?」 「なかったねえ」 「のこしとかため池まくりとかありましたか?」 「そがんともなかったね。ため池はつぶれてしもうた。田中さんの田ん中にほいば掘って鯉ば放しといなったばってん、宅地になってしもうた」 「管理人はいたんですか?」 「おらんやったよ。水は好きなとき汲んで良かった。昔は水道なんてなくて、新茶屋(しんじゃや)にきれえか水の出よったけんね。バケツを肩にいのうて飲む水ば汲みに行きよった」 「水不足の時ですか?」・ 「水不足でてはあんまり聞かんね」
・村の暮らしについて *昔の道 二時半をまわった。日差しはまだ強いが、広く開放的な部屋の中は冷房がきいて涼しい。出されたすいかや、きゅうりの漬け物−こちらはサメさんのお手製だそうだ−を時折かじりながら、私たちは質問を続けた。 「昔の古い道はどこを通ってたんですか」 「田んぼの間を通ってましたよ。今は車のあっけん広くなしてあっばってんが、昔は歩いてばっかいけん狭かった」 「広くなったりはしなかったんですか?」 「広うはならんやったよ。せもうはなった。そいけんいっつも草はらいばせんばやった。コンクリもしてなかったけんが」
*村の流通 「魚食べたい時はどうしたんですか?」 「魚はそこの川にいますよ」とサメさん。 「ああ、そうですね。でも大きい魚が食べたいときは……?」 「おばさんがかっいで魚売りに来よんなった。千綿から」 「チワタ?」 「長崎の千綿」 私たちは驚く。確かに嬉野は長崎から近いが。 「おばさん、頑張りますねえ」 「どうやって来てたんですか? 歩いてですか?」 「いや、途中まで組合の車に乗って、そいから分かれて来よいなったよ」 「じゃあ、他のところにも行ってたんですね。薬はどうしたんですか」 「薬は、お医者さんの近かったけんが。ちょっと街に出れば薬屋さんもあったし」 「そうですか。でも、置き薬とかはどうだったんですか」 「そがんとは鹿島とかから売りに来よんなった。でもめったに飲まんやった」 サメさんの肌はしわも少なく、若い頃から健康だったのではないかと思われる。サメさんだけでなく、きょうだい八人のうち七人は存命で、いずれも嬉野町に住んでいるそうだ。 「塩はどうだったんですか? 山だと、手に入りにくそうだし、やっぱり行商の人が来てたんですかね」 「戦時中は水くみに行って、焚き詰めて塩ばといよったよ。リヤカーに桶ば乗せてね、長崎の園城まで行ったておばあちゃんが言いよんしゃった。それ以外はお店で買いよった」 「大変だったんですねえ」
*電気 「電気はあったんですか?」 思い出そうとする時、サメさんは一瞬遠くを見る。 「家に一つだけあったねえ」 「一つですか」 「戦時中はね。暗かったとけ、よう裁縫なんかしたねえ」 「ろうそく灯したり……」 「いや、そがんことはしたことなかったよ」 「ごはんはやっぱり釜で焚いてたんですか?」 「そうね。そいからガスの流行ってきて、いつの間にか電気になった。冬とかは山に薪ば取りに行きよった」 「えー、寒いのに」 「いやそいがね、山はぬくいのよ」 「お風呂も焚いてたんですよね」 「お風呂も焚きよったよ」 「五右衛門風呂ですよね。外にあったんでしょう。のぞきとかなかったんですか」 落合が仕草つきで、「きゃー、えっちー、とか」。佐保が笑う。サメさんは 「のぞきは知らんー。どこでん同じやったけんねえ。昭和三十七、八年までやったと思うよ、五右衛門風呂は」 「テレビはどうだったんですか」 「テレビはね、美智子妃殿下の結婚しんしゃった時、昔古城(ふっじょう)におったお医者さんとこ行って見た。村に一、二軒しかなかったですよ」
*若者 「若い人とか、夜は何やってたんですか」 「夜なべはよー裁縫しよった。破れたのをふせて着よった」 「ごはんの後とかにですか?」 「そう。ほんと針仕事はしよったよ」 たいていのことはあっけらかんと話すサメさんが、少し懐かしそうな顔になっていた。 「男の人もやってたんですか?」 「男の人はね、縄を縫ったり(入力者注:綯ったり)しよいなった。縄をのうて網を織りよいなった。雨の日とかはね、もみを干して。ねぼくていうばってんが」 「はー、偉いですね」 「夕御飯の後、若者が集まる場所とかありました?」 「クラブていうとに行きよったよ」 「何やってたんですか?」 「踊りの稽古とかしよった」 今ならカラオケといったところだが、似たようなものかもしれない。いつの時代も若者は体を動かすことが好きなのだろう。それが楽しいことなら。 「よそ者を村に入らせないようにとかはしてたんですか?」 「そがんとはなかったね」と、やや意外そうな顔。 「泥棒とかはいなかったんですか? 干し柿泥棒とか、すいか泥棒とか」 「あんまりそがん話は聞いたことなかねえ。昔々は祇園山に備えてあるものば盗むもんはおったらしかよ。饅頭泥棒が」 「若者が好きあったりはしてたんですか」 「寄ると好いた人も中にはおったよ」 「でも、結婚できなかったこととかありました?」 「だいたいできたごたっばってん、そがんこともあったろうねえ」 「どういう理由で?」 「財産とかね、家柄の釣り合わんとか、今はそがんことはなかろうばってん。他には宗教とか」 「それで悲劇が生まれたんですね」 「結婚はたいていはお見合いですか」 「そがんよ。あんた方は自分で頑張って、良か人ば見つけんしゃい」 サメさんの御主人は他界しているそうだが、二人はどのように知り合ったのだろう。興味をひかれつつ私たちは「頑張ります」と答えた。
・耕作その他に伴う慣行 *村の耕地 「麦を作る畑なんかはありましたか。裏作として」 「あったよ」 「どの田でも作れたんですか?」 「平地じゃなからんば麦はできんよー」 山の中腹という地形を利用した棚田では麦は作れないようだ。そういえば、平地の佐賀市には麦畑が多い。私たちは麦が作れる田を地図で教えてもらった。 「今は麦は蒔かないよ。稲だけ。戦前は蒔いとったけど、水気のある所だと取れないもん」 恵まれた環境に見える中山でも、得意ではない作物はあるらしい。 「ここの田んぼでは米がよく取れるけど、ここでは取れない、て言うことはあったんですか?」 「ありましたよ。平坦部ではよく取れたけど山ではとれなかった」 「どのくらい差があったんですか?」 「良くて一反に十俵くらいやったよ。とれん所は五、六俵やなかろうか」 「そんなに差があったんですか」 「化学肥料の代わりに昔は何を使ってたんですか」 「山で取ってきた草とか、牛の糞ば蒔きよったですよ」 「人間のはどうですか?」 「人間のは使わんやったねえ」
*耕作に伴う慣行 「あぜに大豆や小豆を植えることはあったんですか?」 「副業としてやってませんか」 「ああ、蒔きよったよ。家で味噌つくるために」 「売ったりしなかったんですか? 小豆は高く売れるのに」 「昔は今のごとお金ほどきに行くこともなかったけん、売りはせんやったね。米の価値のあいよったもん。昔は米で生活のできよったですよ」 「手間返しはやってましたか?」 「手間返し?」 「牛を借りた人が、お返しに麦を相手に作ってやるっていう……」 「そがんとは知らんねえ」 中山にはどこの家にも、牛か馬が一頭いたという。 「雄ですか、雌ですか」 「雌が良かて言われよったけん、雌が多かったよ」 「そうなんですか? 子供を産むからですか?」 「ようわからんばってん、田ん中おこすとには雌が良かてみんな言いよった」 棚田に行くときは、牛に荷物をかつがせたそうだ。今はそれが車になっているという。 「馬洗場とか馬捨て場はあったんですか」 「馬はそこんたいの川で洗いよったよ。馬捨て場はなかったねえ」 ちなみに、サメさんの家には今、鶏がいるらしい。
*地主と小作人 「農協がなかった頃は、誰に米を売ったり渡したりしてたんですか」 「地主さんのば作ってね、よか田ん中は一反に四、五俵くらいやいよったて。そいけん地主さんが蔵に詰めといて仲買さんが買いに来よったて」 「四、五俵はきっいですねえ」 「地主さんは何もしなくて儲けてたんですよね」 「土地ば持っといなっけんねえ」 「地主と小作人の関係はどうだったですか。その、主従関係とかあったんですか?」 「そうね、昔は地主さんーて崇めとったでしょうね。地主さんの家にみんな集まって、かちきだ作りさんば家に呼んで、一年に一回餅つきばしよいなったよ」 「今の、会社の上司と部下の関係ですね」 地主と小作人と聞いて、私たちが想像するような陰湿な関係ではなかったようだ。サメさんの表情にもこだわりがない。
・これからの中山 時計は四時をまわった。 「これが最後の質問です」 前置きをしてから、佐保が尋ねる。 「これから中山はどうなっていくと思いますか?」 サメさんは、難しい顔をして少し考えた。迷惑な質問だったかな、と一瞬思ったが、その答えは、今まで通りの明確なものだった。 「もう農業だけじゃやっていけんごとなったけん、みんな勤めに出よっしねえ。そのうちそこんたいば耕すもんもおらんごとなって、田ん中も荒れてしまおうだい。そいが心配かですよ」 明るい表情が寂しく沈んでいた。サメさんの世代は、田畑の大切さを本当の意味でわかっている、最後の世代なのかもしれない。
帰り際にきゅうりを頂いた。バスを待つ間、爽やかな味のするそれをかじりながら、田畑のない中山とはどういうものだろうと考えた。
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