【藤津郡嬉野町永尾】

歩いて歴史を考える 現地調査レポート

1LA00001赤木 智江

1LA00044大久保斉香

話をしてくれた方……広川文子さん:昭和8年生まれ

 

村の名前…永尾

【しこ名一覧】

1.シイジュウ(四十)

2.オチョウズ(御手洗)

3.デグチ(出口)

4.キシノシタ(岸下)

5.マツヤマダニ(松山谷)

6.チヤーバイ(茶原)

7.ズーメキ(?)

8.ナナツガワチ(七ツ川内)

9.マツオ(松尾)

10,イワサキ(岩先)

11.クンヒロ(国広)

12.コウライデ(川原井手)

13.アンズイデ(?)

14.ミヤノセイデ(宮ノ瀬井手)

15.ハンノウラ(?)

16サキト(崎戸)

17.ヒラキ(平木)

18.ハジロゴエトウゲ(羽白越峠)

19.トリゴエトウゲ(鳥越峠)

20.センシュウダニ(?)→位置不明の注記(異筆)

地名に大変詳しい方で、親切にいろいろな名前を教えてくださいました。2のオチョウズという地域は、むかしお殿様がそこでよく手を洗っていたことからついた名前だそうです。また、10のイワサキというところには岩がたくさんあったことが名前と関係しているのではないかというお話でした。

また永尾の町の水田では、水はすべて吉田川から引いてきているそうで、この吉田川の水路は周辺の56部落で共同して使っているとおっしゃっていました。またこのあたりの昔の水争いの話については、細かい地区までは分かりませんでしたが、昔は田んぼが高い土地にある地域などで、いつまでも水がこないというようなことが原因で水争いが少しあったそうです。今はもうないですよ、と付け加えてらっしゃいました。

 使用している用水は、アンズ井手、宮ノ瀬井手、川原井手などだそうで、水田の格好は、以前は今のようにまっすぐな豆腐形ではなかったのに、昭和60年代に30αくらいの基準で整備されて今の形になったそうです。

 また、吉田川沿いの水田一帯はダムの予定地(横竹ダムという名前だったらしい)になっていたのですが、村のみんなで反対して、結局は中止になったという話でした。

 

私たちは一番最初に広川さんのお宅を訪問することになっていて、そこで手紙を宛てた広川秀樹さんの母親に当たる広川文子さんにいろいろな話をうかがっていたのですが、昔の生活などにも大変詳しい方で、しかも話し上手で、楽しい話をたくさん聞かせてもらえたので、結局時間いっぱい広川さんのお宅にお邪魔していました。

 

広川さんの若いころの話もたくさん聞くことができました。小学生のころはおばあちゃんと薪取りによく行っていたそうで、今とは違って昔の子供はよく大人のお手伝いをしていたとのことです。私たちぐらいの年代のころは、1時間以上もかけて歩いて街に映画を見に行ったりしていたそうで、そのころは「君の名」や「異母兄弟」などの映画がはやっていたそうです。映画は200円だったそうです。ちなみにそのころは普通の人の年収が2万円くらいだったというお話でした。

小学校までは4キロもあり、まだバスがとおっていなかった昭和30年ごろは歩いていっていたそうで、片道はこれもまた1時間はかかっていたそうです。特に戦後はかさもろくに手に入らない状況だったらしく、通学は大変そうでした。

 

また、今の永尾の町については、住宅地図を見ながら、昔はもっといっぱい家があったのだが、みんな佐世保などに移っていってしまって、今ではかなり家が減ってしまったと説明してくれました。また、この辺りにはミカン畑も多かったそうですが、数年前の暴落で荒れ地になってしまったところも少なくないようです。 

 

それから、もっと昔の永尾の町のことも聞きました。電気がまだきていないころはランプの光で暮らしていたそうで、洗濯機もないので手回しの脱水機とかを使ったりもしたそうです。大正になってから電気はきたそうです。ガスについては、広川文子さんが子供を育てているときはまだかまどを使っていて、おふろも五右衛門風呂だったそうです。

 

永尾の町に昔からある風習や年間行事については、7月の上旬に永尾の皆さんで毎年お墓掃除をしたり、815日には水害腐朽記念日という、もう二度とひどい水害が起こりませんようにという願いを込めた行事があるそうです。これは下吉田の地域だけで行われているらしく、カラオケや喉自慢大会や盆踊りをするそうで、昔はもう少し盛大だった、というお話でした。他にも、111日に、8部落で一緒になって氏神を祭る、葦筒神社のお祭りをしたり、12月には「庭あげ」といって、稲刈りが終わったときにみんなでお祝いをするそうです。庭上げは永尾だけの祭りで、25件ぐらいで集まって行うそうで、昔はもちをついたりなどして労をねぎらっていたのですが、これも今では簡単に終わらせるように

なってしまったということです。

 

また、昔の暮らしでは農業以外の現金収入はあったのか、というお話をうかがっと、冬の時期にはよく薪を売っていたということでした。米やお茶などの作物は、永尾の町で共同の工場で売っていたそうで、それは今でもそのとおり続いているそうです。お米については、昔は共同で家で脱穀、もみすりなどしていたそうです。

 

雨が降らずに作物が育たなくて困ったときなど、雨ごいをやっていたという話はないかどうか聞いてみたところ、笛とか鐘を使ったりして雨ごいが行われていたという話を少し聞いたことがある、とおっしゃっていました。ずっとずっと昔のころには、このあたりでも雨ごいがあったのかもしれません。

まだ農薬がなかったころは虫害もあったのではと思い、そのことについてもうかがってみましたが、昔は農薬がわりに油をまいていたそうで、これをやると虫がおぼれて死んで

しまうそうです。

 

それから、昔の家庭には牛乳をとるための牛を飼っていたところも少なくないようです。このあたりでは鶏がよく飼われていたそうで、菜っ葉のえさをやっていたというお話でした。時には肉牛もいたそうです。

昔の若者たちは夜どんなことをして暮らしていたか、ということもうかがってみました。昔は集落センターがあったそうで(下吉田クラブという名前だったそうです)タ飯の後に、そこに独身の男の子達が集まっていたらしいです。何をしていたのかは、ちょっと分からないそうです。

また、昔は結婚式は自宅でやっていたそうです。家で料理を作って、家にいろいろな人を招いてやっていたらしくべ1日では終わらせず、2日間かけて行われていたそうです。衣装は黒色の留袖を着て、お色直しは普段着だったというお話でした。

 

長い間いろいろなお話を聞いて広川さんのお宅にお邪魔していたのですが、家のお茶畑のところに、電柱くらいの高い柱の先に、扇風機のようなものが取りつけてあるので、あれは何ですかとうかがってみると、お茶に霜が降らないように寒いときにまわすそうで、電気でまわっているそうです。やはり昔とは随分農業の行われ方も変化していっているのだなと実感しました。またこのあたりに「山口」という姓のお宅がとても多かったのでそれもうかがってみると、この広川さんの家系も元々は「山口」姓だったそうなのですが、日清戦争のころに、兵役逃れのために「広川」姓に変えたのだそうです。



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