【藤津郡嬉野町峰】

現地調査レポート

1TE99146 杉村元生

1TE99137 重松大介

 

<話者>

野副尚史さん(大正2年)

 

≪しこ名一覧≫

<村の名前・峰>

 ミヤノカミ 宮の上

 ホリキリ 堀切

 サンノヤマ 三の山

 アミダサン 網田山

 ハカイワトウゲ 墓岩峠

 シタヤマナカ 下山中

 クロジャー(クロダイラ)  黒平

 ヤンゴエトウゲ(ヤマゴエトウゲ)  山越峠

 ヤマカタヤマ    山型山

 キショウデヤマ 木正手山

 カミキショウデ 上木正手

 ジュウマ 十間

 マツコビラ 松小平

 イワノクチ 岩ノ口

 ウマリャー(ウマアライ)  馬洗

 ノグチ 野口

 ナベガグラ(ママ) 鍋がくら

 

<村の名前・峰>

田畑

  小字 丁ノ坪のうちに クロジャー

  〃  下峯のうちに サンノヤマ、アミダサン

  〃  上峯のうちに ハカイワトウゲ

  〃  木正手のうちに ウマリャー、キショウデヤマ、カミキショウデ

  〃  松小平のうちに マツコビラ、イワノクチ

  〃  下山中のうちに シタヤマナカ

  〃  堀切飛地のうちに ホリキリ

  〃  寺辺田のうちに ノグチ

 ほか

  小字 下峯のうちに ヤンゴエトウゲ

  〃  中峯のうちに ヤマカタヤマ、ジュウマ

  〃  館のうちに ミヤノカミ

  〃  下山中のうちに ナベガクラ

 

《一日の記録》

【杉村元生編】「 」の中は心の声

午前600   起床「今日は峰に行くのかぁ〜、楽しみだな

午前659   JR佐賀駅からJR博多駅に向かう。「今日は休みのせいか通勤の人がいないので、いつものように混雑していないなぁ

午前845頃  JR博多駅からバスに乗って、九州大学六本松分館到着。「おっ、重松早いな、もう来ているよ

※@に続く

 

【重松大介編】

午前700   「大勢でどこかに行くのは、高校以来だ」

午前750   西鉄下大利駅から西鉄福岡駅に向かう。「休みなのに、なんでこんなに多いの

午前830頃  西鉄福岡駅からバスに乗って九州大学六本松分館到着。「あれ、まだ全然人来ていないよ」

※@

午前915   堀川バスに乗って、いざ「峰」を目指す。杉村「眠くなってきたなぁ 」重松「人がいると眠気がなくなるな」

午前1130   目的地付近の笠原酒店で降車する。杉村・重松「あっついなぁー」

午後130   昼食をとったり、写真を撮ったりして約束の時間まで待つ。杉村・重松「雨が降るより、晴れた方がいいが、それにしても暑い」

橋の下で魚をとろうとしたが失敗。そして道に迷ったりもしたが、無事、「野副さん」の家に到着。

午後300   無事、野副さんとのお話も終わる。杉村・重松「もう帰るだけかぁ 」笠原酒店の前でバスを待つ。

午後400   バスに乗って、帰路へ。杉村・重松「ああ、眠い」

 

《野副さんとのトークタイム》

重松:できましたら、峰の歴史などを教えていただけると嬉しいのですが。

野副:歴史ネェー…。そうネェー…。言い伝えとかでよかと?

重松・杉村:結構です。というか、できれば言い伝えの方がいいです。

野副:昔、この地区、いわゆる吉田にゃー、殿様がおったばいね。その3代目の殿様の吉田蔵人(くろうど)ちゅう人が吉田を開拓していって、その時に門兵(門兵衛ヵ:入力者注)ちゅう人がこの峰を切り開いたっちゅう言い伝えがあるばいね。その時代を峰蔵人時代ちゅう風に言うったいね。(笑顔)

重松:へー、そうなんですか。ところで、その峰蔵人時代っていつぐらいなんですか。

野副:1954

重松・杉村:へっ!?(重松と杉村かなり驚く)

野副:1954年に村のことを調べる時に、言い伝えも調べたんよ。

重松:そうなんですか。(「峰蔵人時代」が1954年でないことに安心する。そして…)それで峰蔵人時代というのは、室町時代とか、江戸時代とかでいうと、何時代なんでしょうか。

野副: 1954年。(なぜか自信たっぷり)

(重松と杉村はもう愛想笑いしかできなくなってしまった。この後、幾度となく聞いてみたが返答は変わらないので、仕方なく次の話題に進む)

重松:昔はこの辺りも馬なんかがいたりもしたんでしょう。

野副:昔は馬や牛なんかがいたりしたもんじゃ。

重松:馬と牛を同時に飼っていらっしゃったんですか。

野副:いや、いや。一緒には飼っていなかったよ。大正の終わりぐらいから馬から牛へ変わったんだよ。昔は青年が馬をひいて一R二寸の「ぼーき」を束ねて、皿屋まで持って行ったもんよ。

重松:えっ、「ぼーき」ってなんですか。

野副:あぁ、「ぼーき」ちゅうのはたきぎのことですよ。そん頃は馬ひきの歌ちゅうのもあったんよ。もう忘れてしもうたけどな。

重松:えっ、歌まであったんですか。

杉村:この辺は電気ばっかりになってしまいましたけど、かま(竈ヵ:入力者注)なんかはなくなってしまったんですか。

野副:もう電気ばっかりよ。昔は、そうねぇ、自分が小3・小4の頃まではわらぶきの家しかなかったけど、小5の時に学校の新校舎が瓦屋根になったりして、それから30年も経ったりすると、もうコンクリートになってしもたばい。

杉村:へー、なるほど…。

(少し沈黙の後)

野副:昔は吉田山の管理人に士族の園田さんというのがいらっしゃって、その家で四十七士の血判状が見つこうたんよ。

重松・杉村:(かなり驚いて)えっ、四十七士のですか。

野副:そうそう。(満足そうに)

重松:へー、そんなのもあったんだ。

(ここからは1つの質問に1つの答えと、少々会話らしくないので、少し省略させていただきます。内容は会話のまとめを見てください)

重松:お若い時はなにか、今でいう「クラブ」みたいなのはあったんですか。

野副:クラブ?青年クラブならあったよ。クラブってバーみたいのことじゃろ、そんなのはなかったよ。

重松:青年クラブっていうのはどんな場所なんですか。

野副:今でいう中学校を出たら、みんな青年クラブに行って、いろいろな問題を話し合ったり、社会のことを話し合ったりしたもんだよ。

重松:じゃあ、女性とのつき合いとかはどこで生まれたんですか。

野副:青年クラブで夜遅くまで飲んだりした後に、男女共同風呂に入って、やっぱりそこかな、つき合うきっかけの場所といえば。(ちょっと笑顔で)

重松:えっ、男女共同なんですか。

野副:そう、今でいう裸のつき合いってやつかな。子供ができたりすることもあった。今でいう「夜這い」がはやったりもしてたからな。

重松・杉村:(あまりのすごさにびっくりしてしまう)子供ができたりもしたんですか、ある意味うらやましいが、ある意味うらやましくないな。

(その後、またいろいろ聞いた後)

重松・杉村:今日は長い間ありがとうございました。これで失礼させてもらいます。

 

《感想》

夜の話を聞いた時に、まさか「夜這い」の話まで聞けるとは思わなかった。野副さんは88歳ということで、いろいろ忘れていらっしゃることもあったが、できる限りのことを話そうとしてくださって非常に助かった。気さくな人で良かったと思った。

 

《野副さんとのトークのまとめ》

・峰の歴史→峰蔵人時代に、吉田地区の殿様、3代目の吉田蔵人さんが吉田を開拓している時に、門兵という人が峰を切り開いた。

・大正の終わりぐらいから馬から牛へ。青年は馬を引いて、一R二寸のたきぎを皿屋に持って行く。

・現在、かまはなく、電気ばっかり。

・屋根は、小3・小4までわらぶきで、小5の時、新校舎が瓦に、そして30年後はコンクリートになる。

・昭和35年頃から、みかんを植え始める。

・吉田山の管理人は士族だった園田さんでした。その園田さんの家には四十七士の血判状があった。

・まつりはなし。

・終戦後、ラジオが入ってきた。テレビは東京オリンピックから。

・子供の頃、休日は映画を観たりして遊んだ。平日は、男の子は野球、こまを木で作ったり、「むくろ」という木の実をはじいて遊び、女性はもっぱらお手玉をして遊んだ。特に男の子は戦争ごっこをした。

・小学校の頃、吉田・嬉野・西嬉野→合同運動会

・大正12年、電気が通る。それまではランプや行灯などを使っていた。

・青年クラブ→いろいろな問題を話す(社会のことも)。男女共同風呂(裸のつき合い)。→恋の始まり、子供ができることもしばしば。「夜這い」が流行。

・お米 地主:小作人=55

・終戦後、峰に米を買い出しに来る人もいた。米を2升分けたりした。ロープとカボチャを換えたこともある。

28歳の時、軍から召集される(昭和15年)。マレー半島→ビルマ。身振り手振りでコミュニケーションをとった。カチン族まで追い込んだ。その次の地方のチン族は人喰い人種だった。昭和18年、帰還する。

・世界は30年周期で変わっている(野副さんの口ぐせ)。これからもそのサイクルで変わっていくだろうという予測。



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