「万財レポート」
1EC99236 西原 美奈
1EC99247 藤原 直子
7月21日 晴れ
『万財を訪れて』
午後12時頃、佐賀県藤津郡嬉野町万財の山下恒夫さん宅に到着。青空の下に一面に田んぼが広がっていた。1時前後に訪問する予定だったため、どうしようか迷った末にとりあえず山下さん宅にお電話してみた。山下さん宅には山下さんの奥さんしかおられず、近くの岩ノ下公民館に案内される。山下さんはより昔のことを知っている年長のお年寄りをよんでくださり、10人近くの古老の方が集まってくださった。当初、万財と岩ノ下は区別されているものとしてもう1つの班が岩ノ下を調べることになっていたが、万財と岩ノ下はくっついて山下さんが区長さんを勤めていらっしゃるということを聞かされた。そして、結局もう一つの班といっしょにお話を聞くこととなった。嬉野のお茶を出していただき、なごやかな雰囲気の中で質問が始まった。
『万財に伝わる観音様』
万財には昔から伝わる真言宗の観音様がある。「岩や観音」またの名を「おじゃっさん」と呼ぶそうだ。県道から1kmのところにあり、観光名所にしようと、町がそこに通じる東部林道を作ったそうだ。10mのほこら岩の裏と表に観音様があり、万財側の観音様は千手観音様だそうだ。その観音様には言い伝えがあり、岩から年中水が出てきて、その手水張りで目を洗うと眼病に効くそうだ。また、観音様の近くにある石は「つばつけ石」と呼ばれており、口にくっつくそうだ。村の名物は何ですか?と尋ねると、どの古老の方もこの観音様のことを説明してくだっさった。村に昔からある大切な観音様なのだということが伝わった。
1. しこ名
【田】
万財地区にある田んぼのことを「マエダ」(前田)と呼ぶ。「マエダ」の中に「コウラ」「ウンズ」と呼ばれる部分がある。「コウラ」は川端だからそう呼ぶのだそうだ。
【山】
山には「クラタン」(倉谷)、「ウーナコ」(大奈戸)、「ナガタン」(長谷)、「ユノツ」(湯ノ出)、「ダクセキ」(馬防)、「ブショボ」(武直坊)、「エノキ」(榎木)、「ヒコタロウ」(彦太郎)、「ジュウロウマル」(十郎丸)と呼ばれているところがあった。「ダクセキ」を「ラクセキ」と言い、落石が起きるからそう呼ぶとおっしゃる方もいた。「ヒコタロウ」は人の名前で、「ジュウロウマル」は船の名前からきたのだそうだ。また、「エノキ」ではお茶の栽培が盛んなのだそうだ。
【堤】
「サボウ」(砂防)と呼ばれる堤があった。
【その他】
万財地区は岩がつくところが多く、もろ岩あたりをA地区、岩ノ下あたりをB地区、春日あたりをC地区とよぶそうだ。
2.村の農業
【キイノ(焼畑)】
50年くらい前までは行われていたそうだ。切った木は薪され、その葉は肥料に使っていたそうだ。焼畑をしたところでは、サトイモなどのイモ類が植えられていたそうだ。
【耕作にともなう慣習】
あぜには大豆や小豆が植えられていた。現在は草刈機を使っているが、昔は大豆や小豆を植えることによってあぜに草が生えるのを防いでいた。
農薬のない時代、菜種油をまいていた。竹の筒に菜種油を入れて田んぼに落としていき、それを足でけるという作業を行う。羽や足に油がついたウンカ虫は動けなくなり、虫避け成功というわけだ。
戦前の肥料は、自分の家で牛の堆肥と干草を混ぜて作っていた。現在は化学肥料が使われている。
【村の発達】
プロパンガスや電気がなかった時代、主に山からとってきた薪で生活していた。風呂は共同風呂で、公民館の近くにもその小屋があった。点々とある小屋はすべて共同風呂に使われていたもので昭和50年ころまで使われていたそうだ。
【米の保存】
米は農協に出す前は、個人売りをしていた。俵60kgを1トと呼んでいた。
共同水車があり、それで米をついていた。その水車小屋だが、昭和37年の水害で流されてしまった。
昔は米ではなく麦を食べていた。米は出荷分の他に種籾ようとして残しておくものがあった。その保存法は袋に入れて2階にぶらさげ、いろりをたいて虫をいぶりだし、虫食いを防いだ。また、猫を飼うなどしてねずみを防いだ。また、種川という川があるが、そこにむしろに包んだ種籾をつけて種籾の選別をした。悪い種籾は腐り良い種籾だけが残るのだそうだ。
【村の動物】
一軒に一匹ずつ農耕用の牛を飼っていた。雄牛のことを「コッテイ」と呼んでいた。
【その他】
タニシのことを「ニナ」、蜆のことを「ミゾーギャ」と呼び、味噌汁などに入れて食べていた。
3. 村人の楽しみ
【まつり】
7/16 橙籠(トウロウ)まつり 八天宮神社
8/16 初太郎 岩の下の土地
9/14 一ノ宮さん(イチノブサン)の夏祭り
【昔の若者】
村の若者たちで青年団(青年クラブ)が作られていた。土曜には集まって憩いすることを「ドヨウイケ」と呼んでいた。村の若者たちは楽しんでいただけではなく、ここで人間教育がなされていたようだ。春には花見が行われ昼は働くが、夜は公民館で一週間飲み会が続いた。その期間、男は
毎晩飲み会をしていたが、女は男たちのためにご飯を炊いたりふとんを洗濯して、飲み会に参加するのはたった一日だけであった。この青年団や、これらの集まりは万財の村独自のものであって他の村の若者との交流はなかったそうだ。
昔の若者の恋愛について聞いてみた。夜に這うという意味の「ヨビハイ」というものがあって男の人が、夜、寝ている女の人を起こしに女の人の部屋に忍び込むというものだったそうだ。
万財村では剣道が盛んだったそうで、お話を聞いた公民館でも剣道の稽古が行われていたそうだ。また、「ネンブリュウ」というおどりも盛んだったようだ。
『質問を終えて』
古老の方たちとお別れした後、バスが来るまで時間があったので、万財・岩ノ下をちょっと探検してみることにした。公民館を出て、奥に進んでいくと大きなダムがあった。自然豊かでのどかな田んぼが広がるこの土地に、大きなダムはちょっと違和感があるなと思った。ダムを通りすぎ、別の道から戻っていくと涼しげな竹林があった。古老の方がイノシシがたけのこを食べるとおっしゃていたのでイノシシが出るかもしれないと思った。しばらく歩くとバスを降りた小さな酒屋さんの前に着いた。
《お話をしてくだっさた古老の方々》
中森 まさき(さん) : 大正13年 9月1日
角丸 たけお(さん) : 昭和4年 4月24日
山下 春江(さん) : 昭和13年 8月31日
岩本 としえ(さん) : 昭和16年 7月7日
(感 想)
今回の調査は失われつつある通称地名を古老から聞き取り、それを記録して後世に残す、その他記録されずに忘れつつある昔の村の姿・記憶を記録するということだった。しかし、実際その土地の区長さんに尋ねても、もっと年上の古老に聞かなければ分からないということがたくさんあった。その土地の人たちの間でさえも村の昔の姿というものは、受け継がれることなく消えかけているのではないだろうかと思った。何気なく使われている地名の中には、その土地の歴史を含むものが多くあるということを知ってとても勉強になった。私たちの調査がこの村の歴史保存に少しでも役に立てればうれしい。
最後に、突然のお願いだったにもかかわらず、快く引き受けてくだっさた万財の村の方がたに感謝したい。