【藤津郡嬉野町広川原】 歩いてを考える広川原を考えるレポート 1sc99238平川史明 1sc99208宇山成人 (1時間以本当に歩いたぞ!)
お話を聞かせていただいた方々 辻次雄さん昭和4年生まれ71歳 松尾一さん大正9年生まれ81歳 一日の行動記録 9:00六本松校舎到着 9:20校舎出発 11:30岩ノ下到着 11:35歩いて広川原へ出発 12:30広川原 辻さん宅到着 (約束が1時だったので、しばらく辺りを観察) 1250辻さん宅を訪問、しかし次雄さんが不在。(キャンプ場にいらっしゃる) 辻さんの家の方にキャンプ場まで、車で送ってもらうことに。 13:20キャンプ場到着 13:25お話を聞き始める。 15:20お話を聞き終わる。 15:25辻さんに車で岩ノ下まで送っていただく。 15:45岩ノ下到着。 15:50バスに乗り込む。
感想 正直、広川原まで歩くのは予想以上に大変な物でした。岩ノ下の住人の方には1時間以上はかかるから、やめときなさいと言われました。でも歩きました。しんどかったです。気の毒に思われた辻さんに岩ノ下まで送っていただきました。本当にありがとうございました。 広川原についての二人のお話 この地区は昔、源平の合戦で破れた平家の落人が身を隠すためにやってきた事から村ができたという言い伝えがあるそうです。そのためこの辺りからは、よく矢じりが出てきたりしたそうです。この矢じりが言い伝えどおり源平の合戦の物であるとも思えるし、それとも戦国時代に戦か何かがあって残った物とも考えれるし、どうなのかなあと思いながら聞いていました。 加えてセンギンボさん(人の名前)と言う人がこの地区でお茶の栽培を始めて農業が広がっていったそうです。実際、この辺りを歩いてみるとお茶の栽培が結構行われていまし た。 また、この地区は昔鍋島藩の所領で、オオムラ街道という長崎から鹿島や諌早に至る街道があり(この街道については地図の方に記しておきます。)この道が昔は主要な道だったそうです。現在整備されている道路は、完成から三十年程しか経過してないらしいです。現在の道路を作る際たくさんの墓を移動させたため崇りがあったという話を恐いくらい真剣な顔で話していらしたのが印象的でした。 話は変わりますが、この地区は現在嬉野町の一部となっています。昔は吉田村という名だったのですが合併されて今に至るそうです。現在この広川原には、家は9戸しかありません。聞いて驚いてしまったのは、この9戸のうち8戸が「辻」という名の家だったことと、全ての家に後継ぎの長男が残られている事です。ちなみに残りの1戸は、話を聞いた「松尾」さんの家です。
広川原のしこ名一覧 @ヨソダン(田畑) 小字広川原5-2に存在。 Aゴーツー(田畑) 小字広川原5-1に存在。 Bアカハゲ(田畑) 別名クロンダン小字草木原2-1に存在。 Cカンノンダ(田畑) 小字広川原5-2に存在。 Dヤマノカミサン(田畑) 小字広川原5-2に存在。 Eヤジヤシキ(田畑) 小字広川原5-1に存在。 Fトクマツダ(田畑) 小字広川原5-1に存在。 Gカチャシワラ(田畑) 小字広川原5-2に存在。 Hトイカブト(山の名) 小字広川原5-3と小字大坂の境に存在。 Iセンボ岩(岩の名) 小字榎ノ本2-2の境の山に存在。 Jタカダケ峠(峠の名) 小字榎ノ本2-1の境の山に存在。 Kナッタル峠(峠の名) 小字一本松の道。 Lカメワリ坂(坂の名) 小字平原の道。 (地図には、番号で記します。但し、地図省略:入力者)
名前の由来 ・カンノンダ、ヤマノカミサン 昔この田で穫れた米を使って祭りをした事からついた。水などを与えてくれる山の神に米を捧げていたそうです。 ・ヤジヤシキ ヤジさんの屋敷という意味。 ・トイカブト 鳥などのトサカの意味 ・センボ岩 小字榎ノ本2-2の境の山の頂上にある岩の名前。
村の水利 この地区の水田は基本的に棚田で高低差もあるので、昔から水が非常にためにくかったそうです。ただ山に囲まれていて、山から湧水が出ているので水田には今も昔もこの水を引いているそうです。この湧水を引いているため、水の点では他の地域から独立していました。だから、水の争いはなかったそうです。この湧水は、現在生活用水としても使用されています。 30年程前に村全体で9戸だけの簡易水道を作り、今でもそれを使っていて修繕等も自分たちでやっているそうです。だから、この水は村の生命線だと言えます。僕達は実際にこの水を飲んでみました。とても冷たくておいしい水でした。僕らが話しを聞いている途中に佐世保からわざわざこの水を汲みにくる人がいるくらいだったのでとても良い水だとより実感しました。 もう1つ主な水源として村の南にある広川原池があります。この池は、昭和12年から工事で大きな貯め池になったそうです。ちなみにこの工事の際に池の中から矢じりが出てきたそうです。話によると、今でも探せばたくさん見つかるだろうということです。またこの池のある場所に僕らが話を聞いた広川原キャンプ場がありました。
食糧危機 大正3年この地区では大旱魅とうんかの被害により大飢饅に陥ったそうです。その時は食べ物がほとんど手に入らなくて、山に入って必死に食糧を捜し求め、芝の葉でも食べていたそうです。
村の耕地 この地区の水田はほとんどが乾田で昔は裏作として麦を作っていたそうです。今はもう米しか作っていないそうです。獲れる米の量は一反に対して約六俵半ぐらいだということです。また、土地の事についてこんな話を聞きました。杉の育つ所は、酸性の土地で檜が育つ土地は、アルカリ性の土地だということです。
肥料 昔の肥料はまず草を入れていたそうです。干し草小屋を自分達で作り、干し草を作っていたそうです。そして、この干し草をハミキという牛のはみで広げて埋め込んでいたそうです。この話の中に『ヒトセニサンガ』という言葉が出てきました。しかしこの言葉の意味はよく分かりませんでした。申し訳ありません。また、クレキ、カレタタキという物で稲の根をたたいて、床の下に入れて堆肥を作っていたそうです。そして、この堆肥をノリと呼んでいたらしいです。これらが主な水田の肥料として使われていたそうです。
虫除け 農薬がなかった時代、虫除けに菜種油や灯油を撒いて夫婦で蹴って広げていたそうです。その際、油は竹の筒に入れてかけて持っていたそうです。また、何故油が防虫になっていたかというと、油を撒く事によって虫の羽を油で濡らして溺れ死にさせていたからだということです。
村の動物 牛や馬については各家に一頭は必ずいたそうです。どちらかというと雄の方が多かったそうです(去勢されてたらしい)。また、馬を洗う場所というのもきちんと決まっていてそれは、『うまり川』と呼ばれていたそうです。 ・場所は地図に記します。M
米の保存 昔、大地主さんがこの辺り一帯の土地をほとんど持っていたので、この地区は小作農が多かったそうです。また、地主さんに小作料を払った後の自分の米から次年度の作付けに必要な種籾を取っていたそうです。そして種籾は家の中で『ヨコギ』というものを2本通してその上に上げていたそうです。この方法だと、良く乾燥するし、ねずみも寄り付かなかったようです。
村の発達 ・電気 昭和23年 ・電話昭和30年代後半 ・ガス 昭和37年 電話がくる前の道具 ・灯油ランプ『ジョウマツ』という松の油を使用。 電気がくる事に対して村の全ての人が賛成だったというわけではなかった様です。その理由は、電気を通すための費用がかなりかかるからだという事だったからだそうです。けれど、結局親子2代にわたってお金を払うという事で決着が着いて電気が通ることになったそうです。 電気の事についてこんな事も聞きました。昭和43年2月大雪が降って軒下まで積もって電気が完全にストップして孤立したらしいです。復旧には1週間を要した様です。苦労したことをなつかしそうな顔で話されました。 学校について伺ったところ、現在の子供は車で送り迎えされていて、昔のように『ジンパチ』という日よけ傘を被ってわらじで六キロも歩くことは、もちろんありません。当時は、とても大変だった様です。
祭り ・.たきとう 田の神様の祭りで昔は6月30日に行われていた。現在は農協の都合もあるので、6月10〜20日の間に行われている。 ・かんのうまつり 8月の初めに行われた。『とうらかし』とも言われ意味は、灯篭を明かすと言う事。観音様に質問したり、踊ったりしていた。しかし、子供の過疎でなくなった。
村の若者 昔の若いたち達はお手玉やペタ(めんこみたいなもの)、くいでっぽう、という遊び、コマ、戦争ごっこ等をしていたそうです。この辺りは山が多いので特別にみんなが集まるような広場みたいな物はなかったそうです。けれど、遊びに行った家でご飯をみんなで食べたりして楽しかったそうです。r今では、そんな事は考えられんけどね』とおっしゃっていました。
現在の広川原の水田 この地区の水田はほとんどが棚田で高低差が大き過ぎるので圃場整備ができなかったそうで、水田の様子は昔から変わっていません。水田は標準よりも小さな物が大半で国の減反政策(25%減)のため米を作らなくなってるものも増えてきています。これからは、大きな田だけ残っていくだろうとおっしゃっていました。また、平成六年頃からいのししの被害を受けているそうです。
村のこれから、今後の日本の農業について(辻さんの言葉) 今は自分たちがいるから農業が成り立っているが、今の若い人はほとんど勤めに出ている。だからこれ以上農業が発展する事はありえない。今でさえ人手が足りてないし、米の値段もだんだん下がっている。昔は、6反で生活ができたが今はその倍あっても生活できない。 また、機械も導入しているがお金がかかりすぎてこれ以上導入することもできない。そう考えると広川原はこれから農業で成り立っていくことはない。これからは農地が荒地へ変わっていくと思う。今年1本も稲を植えていない家庭もある。国が輸入など市内で国内生産だけでやっていき、輸出などもしてくれればもう少し先が見えるかもしれない。今まで長くやってきたが、農業に全く魅力が感じられない。だからもう少し魅力を持てるように国にしてもらいたい。 こんな言葉を辻さんが最後におっしゃっていました。しかもその途中途中で何度も何度も『時代やけん仕方がなか。』と寂しそうにおっしゃられたのが印象的でした。今までなんとなくしか感じてなかった農業の厳しさやこれから先の見通しのなさを初めて実感できたような気がします。今回この広川原に行って本当に良かったと思います。昔の事もたくさん知る事ができたし、現在の状況というのもかなり理解できたと思います。本当にいい経験をさせてもらったと思いました。
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