【藤津郡嬉野町下不動】 歩いて歴史を考える 現地調査レポート 1te99185羽山大介 1te99199藤岡 定 情報を提供してくれた方 中村輝夫様の関係の方々(大正生まれの方)
下不動 我々が尋ねた方がご存じであったしこ名 ニシ 西13軒(軒数) ハラグチ 原口17軒 ヒラノ 平野17軒 ヒラノ2ハン 平野2藩(班ヵ) 13軒 オサナイカミ 小川内上 オサナイシモ 小川内下
祭り 年3回行うキリシタンの供養の為の祭り 太鼓を大宮で叩く。その祭りの名は確認できなかったが、風日に行う。8月31目の夜などがそのうちの1回である。部落の人が集まって行い、かつては盛んであったが今は もうそれほどではない。理由としては、若い者が外に出ていなくなったことなど、「わしが若かったらわしが叩くんじゃが〜」などとおっしゃっていた。 水利 上流が塩田川の大船にある出川から引いてきている。その大船の名前について、「この大船という名前は大船が来たからそういう名前が??」と聞くと「いや〜もしかしたらそうなんかもしれんね〜」などとおっしゃっていた。
村の暮らしについて、 ○共同風呂 この共同風呂については、楽しそうに話してくれた。俗にいう五右衛門風呂で、モアイ風呂とも言われていたらしい。聞いたところによると、この風呂は決して衛生的ではなかったらしい。「その次の日の朝とかにいってみるんよ。そしたら木の枝とか浮いとってすごい濁っとるんよ。わしらはこんな風呂にはいっとったんか〜とかいつも思いよったよ。」などと語ってくれた。 この五右衛門風呂は確かに風呂代の節約のためからの発想であるが、いろいろとそれから生まれるものがあったらしい。たとえば、この風呂は一日交代で当番があったといっていた。つまり風呂わかしの順番がまわってくるということであるが、外であるし、昔であるのでもちろん水をいれてガスで沸かすなどではない。薪をその当番の日までにためておいて、それでそれを使って沸かしていたらしい。その薪を取りに行くのが子供や老人の仕事であったとか。それが、いいコミュニケーションになっていた、と話してくれた。それらがいろいろな人たちと会えるので唯一の伝達機関だった。とも話してくれた。 ここで興味があったのが、その水の処理の仕方である。そのころでは、川に垂れ流しというのをまず思い浮かべるがそうではなかったらしい。彼らがいうには、「このころから環境のなんとかはかんがえられとったんやね〜その水はね、その当番が責任を持って自分の畑にながさにゃいかんかったと。やっぱりだれもごまかしはせんかったよ〜今でもちゃんとしてないのは多いのにねえ〜」などと話してくれた。確かに当時から環境問題を考えていた点は感心させられた。 この風呂は約40年前まで続いていたらしい。
当時の学校 当時の学校は、つまり大体戦時中であるので、校庭半分が防空壕で、残りの半分がサツマイモ畑だったらしい。そこの跡地をみせてもらったが、今は体育館になっていた。そこの歴史を聞いてみると、昭和28年に一度学校は改築されたらしい。その前の校舎については、「本当にぼろくてね〜」などとしみじみと語ってくれた。ちなみに防空壕は桜の木の下に作っていたらしい。その桜は今もその場所にあるとか、ただ今はさすがに2代目桜らしいが。
当時の家 その当時、つまり昭和40年ほど前までは、ワラ屋根の家だったらしい。それからだんだんと発達してきたとか。
建物の歴史 歴史的にあるものなどはほぼなく、神社などは残っているがほかのものはなくなってしまったらしい。
村の変化 明治から戦後まではあまり変化なかったらしい。つまり戦後から発達してきたようだ。このことをこう語ってくれた。「別に明治から戦後までは、なんも変わらんかったけどな〜。しかし戦後からはもうどんどん変わっていったもんね〜」と。これに関しては、どこでも大体そうなのだろうが、体験してきた方から話しを聞くのはとても興味を湧かせられた。
隠れキリシタンについて 下不動には隠れキリシタンがいたらしい。もちろんその頃、つまり天草四郎の乱の辺りの時代の話しである。そのことが皮肉にも観光ともなっているらしい。「今はなんでも観光じゃけんなあ〜」などとおっしゃっていた。その遺跡として垣内史跡などがある、これは現場まで連れていってもらった。 そこにはこう書かれていた。(切支丹信徒を斬った血太刀を洗った川を太刀洗川、その上流を垣内という〜) 年代的には350年〜400年前に隠れキリシタンが逃げてきたらしい。つまりここにはじめからキリシタンがいたと言うわけではなかったようだ。その頃キリシタン僕滅事件があり、踏絵などの施行から宗派かえなどで完全にキリシタンはいなくなったらしい。そして15〜16年ほど前から、長大の北島さんという方がそれはこのままにしてはいけないだろうという考えから遺跡の3つに行ってお参りを毎年定期的に行っているらしい。
特産品について この地域の特産品についてあげると、お茶が挙げられる。現に茶畑、茶工場などが数多くみられた。もちろん初めから特産品であった訳ではなく、戦後からが特産として考えられてきたらしい。
最後に一日の行動記録をまとめる。 バスを降り、住所を頼りにいろいろと道を聞きながら事前に連絡を入れておいた中村さん宅を探した。コンビニなどが一軒しかなく、気軽に道を尋ねるところがなかったので苦労した。民家や道端の人たちに主に聞いた。警察署があったが、だれもいなかったのはなかなかのショックだった。しかし不思議とそこの人たちは中村さん宅を知っている方が多く意外と見つかりやすかった。やはりこういう村などは結構周りの家などと親しくなりやすいのだろうな、と思った。そこに行くと機嫌良く迎えてくれた。そこでは初め中村輝夫さんの父親がおられ、話しをしてくれた。もう一人くるよ。といっておられたので待っていたら、一度道を尋ねた方だった。ああ、この方だったのか、と驚いてしまった。 それから一通り話しを聞いた後に車でキリシタンの遺跡や、茶畑などに連れて行ってもらった。1時頃にそのお宅に着いたのだが、バス出発の4時までみっちり話を聞かせていただいたのでとても感謝した。 「また来るとええよ。今度はちゃんともっと初めに調べとくけんねえ。」 といってくれて父のような感じがして嬉しかった。わざわざバスの近くまで車で連れて行ってもらって、こちらが無理を言って時間をさいてもらったにもかかわらずここまでしてもらうのはもうしわけなかったが、このような場所に来てこのような親切を受けることはとても嬉しかった。
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