【藤津郡嬉野町飯盛】

現地調査レポート

1ED99003稲富 健

1ED99053山田将由

 

はじめに

今回、調査の準備の段階では嬉野町飯盛の生産組合長の方にお話を伺うことになっていたが、直前に調査当日は仕事の関係で不在だという連絡を受け、さらに他に村の歴史などに詳しい人を紹介していただくこともできなかった。そこで私たちは飯盛で出会ったすべての人に話を聞いていくことにした。このレポートでは出会った人順に重複する話を割愛しながら列挙していく形式をとることにする。

 

1・田んぼのおじいさん

バスから降りて周囲を見渡すとおじいさんが農作業をしておられたので早速話しかけてみた。まず調査の趣旨を述べてから小字としこ名の違いを説明したが「そりゃ何のことね?むつかしかことばいわれたっちゃわからんたい」といわれてしまった。でもこの発言で現地の人々は小字とかしこ名とか区別することなくただ単純に言い慣れた言葉としてつかっているんだろう、と私たちは思った。次の目的地である落合橋の場所を聞いておじいさんと別れた。

2・落合橋で出会ったおばさん

落合橋に着くまでに3軒ほどあったがどこも留守だった。落合橋で休憩していると軽トラックがゆっくり通りかかったので止まってもらい話を聞くことができた。その軽トラックに乗っていたおばさんの話によると、

・落合橋という名前の由来は塩田川と吉田川が落ち合っているから。

・今日は農作業日よりなのでどこの農家も忙しい。

・おばさんは他県から嫁いできたので古い地名については知らない。

ということだった。

*このあと8軒訪ねたけれどもほとんど留守で新しい知識は得られなかった。しかし落合橋の名前の由来についての話は2回出てきた。この話は地元の人にとっても有名な話なのだろう。8軒目に訪ねた家で飯盛に昔から住んでいるおばあさんの家を教えてもらった

ので行ってみたら、しこ名であるチャーバイを教えてもらった。それ以上は知ることができなかった。

3・高橋くみよさんの話

かなり時間が経ってきたので少し焦り始めていたが、この高橋くみよさんから話を聞くことでかなり飯盛について知ることができた。高橋さんに教えてもらったことを列挙する。

<しこ名>

*山のしこ名として

ミノヤマ、イイモリヤマ、ゴンゲンヤマ、

*川のほとりのしこ名として

ヨシダゴウラ(吉田川原が訛ったもの?)

<農業>

*この辺は121日に農作業の終了を祝う行事(一軒にみんなで集まって野菜やもちを食べる。現在では諸津と飯盛にわかれて行っている。)があるくらいで、祭りも記念的行事はない。

*基本的に自分の田んぼは自分と家族だけで面倒をみる。農家同士の助け合いとかはほとんどない。道具や機械の貸し借りをする程度

*とれた米の呼称は用途に分けて2つある。自分の家で消費する米は保有米、売りにだす米は供出米。高橋さんの家ではとれた米は殆ど保有米になったらしい。

*チャーバイというしこ名は田の平(タノヒラ)が田原(タバラ)になって、それから長い年月をかけてチャーバイになったらしい。

*殆どの家が農家だが昔は数軒、馬を使った運送業を営む人もいたが車の普及により仕事をやめたりトラック運転手になったりした。

<水利>

*水に関する争いごとは殆どない。飯盛は水害に見舞われやすい土地柄なのでその影響で水に関しては他の家とも協力的。

*どの川から水を引くか、どの用水路を使うのか、などは昔からの慣習で決定していた。

<水害>

*「人が一人死なんと飯盛の梅雨はあけん」と言われるほど飯盛では水害がひどい。S24年とS36年に特に大きな水害があって高橋さんの家では家屋の半分が流されたり、隣の家の娘さんが死んだりしたらしい。

*S30年にはダム建設計画が県のほうから出されたのに対し、村をあげて反対運動をした。村の歴史をみてもあれだけ村が一致団結したのは初めてではないだろうか?と高橋さんは言う。高橋さんのお父さんはちょうど高橋さんの高校の入学式の日に村の他の人と県庁に反対の決議書を出しに行ったので、一人きりの入学式だったらしい。

 

高橋さんとは今回の調査と関係ないような雑談も含め1時間半以上話した。実にたくさんのことを聞くことができて感謝している。高橋さんと別れたあとも何軒かまわったが高橋さん以上の話を聞くことができなった。そして時間がきたので調査を終了した。

 

高橋くみよさん S14年生まれ

谷村光泰さん S6年生まれ

 

感想

想像よりもしこ名が収集できなかったのが残念だが、いろいろな話をきくことができて楽しかった。今度機会があれば歴史の古い京都とかも調べてみたい。

 



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