【藤津郡嬉野町広瀬】 歩いて歴史を考える現地調査レポート〜嬉野町広瀬〜 1la00077 喜種宏之 1la000 熊本大輔 村の名前 広瀬 しこ名一覧 ノゾエ 野別(野副ヵ)、(残りのしこ名は以下に記載) 田畑 小字一本杉一の内に……(以下、担当地域の小字はこれ一つなので、省略する) 山林 シモヤマカミダニ 下山神谷、 ヤマガミタニ 山神谷、 カナヤマタニ 金山谷、 ヤナギダニ 柳木谷、 ウタニ 大谷、 オクンタニ 奥の谷 村の名前 使用している用水の名前 ヨコイデ 横土井 用水源
調査聞き取り相手: 松本市次さん(大正12年生まれ)
調査当日の行動記録 まず、バスを降りて景色に感動させられた。蝉の声があたり一面に響きわたり、時折通り過ぎる車の音がやけにうるさく、無粋に感じられる。思わず時間を忘れて広瀬橋のたもとで吉田川のせせらぎに、しばし、耳を傾ける。本当に落ち着くところである。何時間でもいられそうだ。調査のことはちょっと忘れて、ここで少し早めの昼食をとることにした。 昼食を終えて、まだ昼時だからと、再びボーッとしてすごす。それにしても本当にいいところだ。 午後一時半を回り、いよいよと動き出したものの、初動の段階で、早くも問題にぶつかってしまっていた。何と事前に調査を依頼しておいた生産組合長の山口邦昭さんがお留守だったのだ。どうも調査に行く時間を伝えた電話に出たのがお子さんだったらしく、うまく話が通じていなかったらしい。別に昔のことに詳しい方を紹介してもらおうとするが、御存じないらしい。仕方ない、飛び込みで調査に行くしかなさそうだ。 とりあえず、バスを降りた地点から一番近そうな田中さん宅に行ってみる。すると、結構お年寄りの方がおられたので、これはと期待したが、甘かった。またも御存じない。お寺に行ってみたらと、正教寺を紹介されたが、現地調査マニュアルに、‘寺に行く人も結構多いが、間違いのもと。寺は農家ではない。’と書いてあったのを思い出す。しかし別に宛てがあるわけでもないし、ひょっとしたら昔のことに詳しい方をそこで紹介していただけるかもしれない。僅かな希望を胸に、仕方なくそこへむかう。 時はまさに午後2時。 日陰も、風も本当にない。体感温度は四十度をはるかに超えていただろう。しかも正教寺遠い(遠いにきまっている。松本さんにお会いしてから、分かったのだが、正教寺は調査対象の村の外側にあったのだ。)。 案の定、やはり正教寺の方は、しこ名を御存じない。そこで、隣が農家だからと隣の家を紹介される。とうとう何とかなるのかもしれないそと隣の家を訪ねる。ところが、やっぱり御存じない。 途方に暮れて、ただただ、いやらしいくらいに照りつける天を仰ぐ。こうなってくると蝉の声がやけに憎たらしくなってくるから不思議である。 しかし、捨てる神あれば、拾う神あり。ひょっとしたらと、山口さん宅に、電話をしてみたところ、なんと邦昭さんが御在宅だったのだ。そして、なんとなんと、広瀬の昔の事情に詳しい松本さんを紹介していただけたのである。 早速電話で連絡をとり、御在宅を確認して、松本さん宅にむかった。
<村の若者> 部落の頼方が集まってとまるクラブ(倶楽部)に若者が集まって、ウリュウ(ママ、フリュウヵ)(浮立)の稽古をして一晩中遊び明かして朝帰った。また、この帰りにデートをするカップルもごくまれに存在した。 ドウ(堂)と言うお地蔵さんを祭る‘こまか家’に集まってフウリュウ(風流)をした(ママ、フリュウ、浮立ヵ)。これは、お茶と豆と、カンコロなどのお茶菓子を持ちよって鐘を打って楽しむものであった。また、ドウの場所の一つとして松尾のヒラキという場所を覚えておられて、教えていただいた。
<村の道> 学校への通学路として羽白峠を越える道があったそうだ。‘トロトロ’歩いたと言っておられた。
<米の保存> 米商人に売っていたそうだが、むかしは小作人の人が多かったそうで、収穫の5割(3〜4俵)が小作料としてとられたそうで、麦が自分の儲けだと話しておられた。食べられるものとしては中米ぐらいで、5;5の割合で米と麦を食べたそうだ。 種もみは他の米と同じくメッキの釜に入れたそうだ。だがそれでもネズミに隅を破られ、食べられることがあったそうだ。
<村の動物> 牛が各家に1頭ずつおり、ほとんどが雌で機会の代わりに田を耕作し、餌は糠や残飯、わらや草だった。ばくろうは確かに居て、やせ牛や子牛を農家に連れてきて育ててもらい、大きくなってからお金と交換に牛を引き取り、売りさばいていたそうだ。金格の交渉については、袖のうちにばくろうが手を入れて、指を握ることで成立したという。一種の‘賄’が行われていたという。 馬は主にドウビキを初めとする運輸業に使役されていたそうだ。
<村の変化> 昔の人は野菜なんかでも交換したりしていたのに対し、(松本さんは今でも続けているそうだが)今の人は「自分は自分、あなたはあなた」といった感じで都会のように人間関係が希薄になってきていることに胸を痛めておられた。
<村の橋> 広瀬橋を下橋、広瀬上橋を上橋と呼んでおられた。 広瀬橋:S5年に石を切り、橋ができた。しかしS5年の水害で流されてしまう。S26年に今のものができる。 広瀬上橋:Sl9年村の献穀典を行い、道ができ木橋が架かる。S24年の水害で流される。S27年ごろ再び架かる。 橋ができる前(できてからも暫く)はツタイという石をならべたものを利用していたそうだ。しかしこれは夏の大水で大抵流されてしまい、冬には渡れなかったそうだ。またツタイはツタイカケという、村の人々を動員した区役として作られたそうだ。
松本さんの話の内容 山谷のしこ名について シモヤマカミタニ、 ヤマカミタニ、 カナヤマタニ、 ヤナギタニ、 ウタニ、 オクンタニ の合計六つを教えていただいたが、場所については、地図ではよく分からないとおっしゃたので、オクンタニ以外は地図におとせなかった。大変残念である。しかし、カナヤマタニについては、その名前の由来まで知ることができた。本当か嘘か知らないが、昔の人が金が取れたと言ってそう名づけた、と笑いながらおっしゃっていた。
<村の水利> ・水田にかかる水は、川・ため池の両方から引水されていた。しかし、川からの引水が主だった。また、上の田から下の田へと水を流す(現地では捨てると言う)、かけ流しという方法があったが、野別南部の久保信雄さんの田は川の水が上がらなかったので、七ツ河内から水を引いていた。
<旱魃> 1994年に大旱魃があった時でも、この村の川の水は涸れることがなく、水道も通っていたので、田や家の水には困らなかった。もしこれが50年前だったらという質問には‘水の溜められんなた、田ん中んかれった(ママ、水が溜められないなら、田ん中は涸れてしまったの意ヵ)’と言っていた。 またS13〜14年に大旱毬が起こった時に雨乞いをしたそううだ。その内容はできるだけ高い山に登り(ここでは‘松尾’の山)、昼夜を問わず鐘を打ちタキダシをして、雨が降ることを祈るというものだった。
<村の耕地> 戦前は、この地方では茶が主だった。戦後になり茶が鹿児島に伝播していったのだから、茶の歴史は鹿児島よりもこの村が古い、と力を込めて言っていた。 麦は14・5年前までは作っていたが、今は作らなくなった。 田に関しては、やはり川・水路に近いほうがそうでない田よりもよく米が取れ味もよかったそうだ。嬉野は川の水もきれいであったのだが、最近では水も汚れてしまい非常に残念だとおっしゃっていた。 化学肥料が入ったのはS24・5年ぐらいで、それまでは4〜6俵ぐらいだった収穫量が7〜8俵にまで増加した。戦前の肥料には草は使われず、家畜などの糞や藁が使われた。
<耕作に伴う慣行> 昔はあぜに大豆を植えていた。これを'あぜ豆'と言うらしい。あぜ豆をした理由は単純で‘もったいなかあ〜’の精神からだったという。昔はこの精神が広く、強く根付いており、どの農家でも行っていたが、時代の推移とともにこの慣行もなくなっていった。
<害虫駆除> S25・6年までは油(菜種油が主だったが、鯨油の方がよかったらしい)で害虫駆除をしていた。油が虫の体にかかり、羽が開けずに動けないようになるので効果があった。油をまくのには竹の筒が使われた。その後、駆除薬としてポリドールが使われたが、この薬は人体にも影響がでたために使用が禁止された。
<村の発達> 昭和のはじめまでは、一家に16色光の豆電球が1個、地元のお金持ちの家でも2個あればいい方だった。話を聞いた松本さんの家ではS34・5年にガスをとったが、早い家庭ではS32年にはとっていたそうだ。その当時はガスを知らない人もいたので、ガスの色を尋ねる人もいたのだと、笑いながら言っていた ガスがくるまでは囲炉裏を使っていて、薪は自分の山から取ってきていた。火の調節は‘デザイカギ’の上げ下ろしで行っていた。
<村の生活に必要な土地> 村所有の林(群集林)が昔はあったが、材木の買い手がしだいに居なくなったために、村所有の林もなくなり、ほとんどが個人所有になった。(ちなみに隣接する塩田町にはまだ残っているらしい)
<祭り> S24年と26年の水害を記念して、祇園祭が8月16日に開かれる。盆踊りと公民館での余興がメイン。立春にはハルイキ(春憩)、立秋(米の収穫後)に古賀全体で集まって酒をのみ、餅をついたり、はちもり(酒の肴)を食べたりした。1日中行われ、場所は集落センターでやったり‘家まわし’でやったりしていたそうだ。 |