嬉野町 吉田 東吉田

1EC99239  野瀬貴康

1EC99245  福田晋也

  聞き取りした方について

佐熊 卓朗さん;昭和6年生まれ

村の名前:東吉田   しこ名:トーナガ、タケノシタ、ムゲナミ、ロクタダ、ササデエ

          どこの家を訪ねてもしこ名なんて知らないと言われ、やっと聞き出せたのが上記の5つ。

           田畑:小字上万属のうちにトーナガ

              小字楽一、清用のうちにタケノシタ

              小字一本松一のうちにムゲナミ、ロクタダ

              小字一本杉五のうちにササデエ

           使用している用水の名前:下田井手、一本松井手

          昔の配水の慣行とは?

配水路からポンプで水を汲み上げて、まわし水をしていた。

・ 村の水利について

水田にかかる水は川から引水し、他村との共有ではなく単独の用水として使っていた。

 

  大旱魃について

僕たちが話を聞いた家では、旱魃のとき、他の村から水を分けてもらっていたらしい。雨乞いのことを聞いてみたら、「そんなことをした記憶はあまりないなぁ」(方言そのものはあまり聞き取れなかった)と言って、笑っていた。雨乞いなんて今の若い人たちからしてみれば、なんだそんなもの、そんなことをしたくらいで雨が降るくらいなら天気予報なんて必要ないじゃないか、という声が聞こえてくるような気もするが、昔の人たちにしてみれば雨乞いは大切なものだったのだろうか。

 

  耕作にともなう慣行について

あぜに大豆や小豆を植えることはあった。なぜかというのは、疲れてらっしゃるようだったので、聞けなかった。

農薬のない時代は、虫避けに菜種油をまいていたそうだ。鯨油のことを聞いたら、「そんなものは聞いたことがないなぁ」と不思議そうにしていた。僕も鯨油なんて言葉は、プリントを見て初めて知った。なぜ菜種油をまいていたのか聞いてみると、「自分たちよりも昔の人たちがやっていたことと同じことをしていただけなので、なぜかというのはあまり深く考えたことはない」と笑っていた。

 

  村の発達について

村に電気がきたのがいつかというのは、はっきり覚えてはいないが、プロパンガスがきたのは昭和32年頃らしい。プロパンガスがくる前は、薪を炊いて風呂に入っていたりしていた。しかし今でも薪を使っている家庭はあるとのこと。

 

  村の生活に必要な土地について

僕たちが行った東吉田は山に近いところだったので、入り会い山(村の共有の山林)は矢平、岩瀬戸といったところにあったらしい。山から遠い村の場合は薪を誰かから分けてもらっていたそうだ。

 

  米の保存について

米は農協に出す前は、直接商人に渡したり、売ったりしていた。地主と小作人との関係はどんなものだったのかということを聞いたら、何か鼻で笑われて「そんな特別な関係みたいなもんは何もなかったよ」と言われた。青田売りということはなかった。家族で食べる飯米のことは僕たちが訪ねた家では、サクマイ米といっていたらしい。カマギやカメなどに入れて保存。保存中のサクマイ米をネズミから守る方法を聞いたら、ただ一言「ネコ」と言われたので僕たちは思わず吹き出してしまい、話を聞いたおじいさんもこの日一番の笑顔だった。50年前の食事における米・麦の割合は7:3から6:4で、稗や粟、芋のような雑穀を主食にすることはなかったらしい。米と麦を合わせたご飯を、僕は食べたことがないので、1度は食べてみたい気がする。(健康に良さそうだから)50年前では、稗や粟、芋のような雑穀を主食にすることはなかったとしたら、いつくらいまでそのようなものを主食にしていたのかを聞いてみればよかったと後悔している。

 

  村の動物について

馬はいなかったが、牛はメスが一頭いたということだ。(話を聞いた家ではメスを飼っていたらしい。他の家にはオスもいた)どの家にも牛は一頭くらいはいたそうだ。馬洗い場は岩瀬戸川、宇留戸川にあった。馬捨て場というものは何なのだろうと疑問に感じたが、おじいさんが疲れてらっしゃるようだったので質問するのは控えることにした。

  まつりについて

地蔵さんのまつり、くんちねというものがあったらしい。これは全員参加だったようだ。

このまつりは、8年に1回当番がまわってくるらしい。

 

  昔の若者について

若者はめっぽう山仕事ばっかりだったようだ。ちなみに娯楽と呼べるようなものは特に

なかったようだ。若者たちが夕御飯のあと、集まる場所というのは青年クラブとよばれていたらしい。規律は厳しくてまきに正座するなどの制裁があったようである。よその村の若者が遊びにくるというようなこともあったらしい。

 

  むらのこれからについて

むらはどんどん田畑が荒地になってきて心配なようだ。また、若者が減ってきていると

いうようなことも心配の種であるということだ。確かに僕らが調査に行ったときも僕たちと同世代のひとを見かけなかったように思う。こういう問題に悩まされているむらが日本全国にはたくさんあるのかと思うと、かなり心配になってきた。

 

 

  今回の調査を終えての感想

 

<野瀬貴康>

 僕は今回の調査についてハッキリ言って全然やる気がなかった。当日はメチャメチャ暑かったし、お話を聞く方の家を探し回るのも一苦労だった。だけど今回お話をして下さった佐熊さん夫婦がとても親切な方々でこっちとしても生半可な気持ちでやることはできないと思い、まじめに聞いているうちにお話にとても興味をもち、楽しくなってきた。しかもこんな僕たちのために昼御飯まで用意して下さって、ほんとにうれしかった。普段、独り暮しであまり手料理を口にすることのない僕にとって、なんだか田舎のおふくろを思い出して、涙が出てきそうになった。また、今回の調査で訪ねた嬉野町の東吉田という所は、僕んちの田舎に景色が似ており、ふるさとが懐かしくなったりもした。

 さて、僕はこの調査に行くまでは、しこ名というものそのものすら知らず、用水のことなどもいろいろと勉強になった。ガスや電気など、普段何も気にせず使っているものが、ちょっと昔まではなかったというのは知ってはいたけど実際に聞いてみて、つくづく今は、便利な世の中になったもんだなーと実感した。米の保存などについてはうちもじいちゃんが米作りをやっていたので多少は知っていたが詳しく聞けたので良かったと思う。

 僕は今回の調査において、多少は昔のことが分かり“歩いて歴史を考える”を実感した。しかしそれよりも、いなかの親切な家庭の温かみに触れたことが何よりもうれしかったのでこれは、本当に良い思い出になった。

 

 

 

<福田晋也>

 僕は田んぼばかりのいなかの地方に行くのは初めてだったので、最初はかなり不安だった。しかもいっしょに行くパートナーもパートナーなだけに余計に不安は増していたと思う。

 当日はかなり暑かった。歩いているだけで汗がどんどん吹き出していた。さらに話を聞きに行く予定の方の家がなかなか見つからなかったのでかなりきつかったの覚えている。都会育ちの僕にとってはどんどん不安になってくるばかりであった。しかし、訪ねた佐熊さん夫婦はとっても親切で当初の不安は完全に吹き飛んでいた。本当にいい人たちで良かったと思う。お昼御飯まで頂いたときはとても感激した。

 さて、今回の調査でしこ名というものがあると知って、ふと、僕の住んでいるところにもあるのかなーなんて思ったりした。聞いたお話は、僕にとってはとても新鮮で、かなり興味がわいてきた。少しは当時の生活がわかったような気がした。どの家にも牛が一頭くらいはいたということを聞いたときはすごいなーと、思った。それと、昔はガスや電気のない時代もあったそうで今の僕にはそんな生活は考えられないなーと思った。あと、感心したのは、話を聞いたおじいさんの記憶力である。何十年も前の話なのに次から次へと話していったのが印象的だった。

 僕は今回の調査で「歩いて歴史を考える」の意味をなんとなくつかめたような気がした。今回の調査により僕はただの知識だけではない、もっと重要なことを学んだように思う。