【藤津郡嬉野町羽白越】

現地調査レポート

調査者: 1LT99011伊東未来

1LA00069河野祥子

聞き取りをした方:

松尾稔さん(大正8年生まれ)

山下俊朗さん(大正9年生まれ)

富永輝男さん(昭和5年生まれ)

 

調査実施日:2000720

 

*バスを降り、まず1時間ほど羽白越を歩いて、地図との違いはないか、実際に歩いてみて地形はどのようになっているか、などを調べた。

・田に沿ってある水路はどこも意外に細く、幅40cmほどのコンクリートの側溝に水が勢いよく流れていた。

・小高いところにある茶畑への道はかなり急で、主な道はコンクリートで舗装されているがそこから分かれている細い道は足で踏み馴らされている、といった程度である。

・民家の隣の小さなスペースにも茶が植えられていた。

*1230分ごろ田中義夫さん宅へ伺う。田中さんの家は改装工事中とのことで、歩いて1分ほどの松尾さんのところへ案内していただく。松尾さん宅では、松尾さんご本人と山下さん、富永さんの3人に一緒にお話をきくことができた。

★村の名前:羽白越(ハジロゴエ)

☆しこ名

ヒトンイエ…「人の家」からきているかもしれないが詳しくは不明、とのこと。

ツッザキ

イッチョーダ(一町田)……近くにある町田橋の町田と一町田の町田は同じ。

ガメンイシ(亀石)

ヒランシタ

ロクンゾ(六地蔵)……昔あぜ道に六地蔵があったから。

ゴクラクジ(極楽寺)……昔このあたりに極楽寺という寺があったことから。

☆小路

ナカコガ(中古賀)

カセゴ

カワヒガシ(川東)……(:水路)の東側にあたるから。

 

◎会話抜粋

松尾さん(以下、松):ここの羽白越っちゅーとこはね、今は一班・二班・三班って言いようばってん、この付近はカセゴ……ナカコガ……んでカワヒガシ……私たちはナカコガの−

伊東(以下、伊):ナカコガの方の人間です、って言ったら、大体ここらへんに住んでるっていうのが−

松:そうそう、分かるわけね。

☆山の名前

モモヤマ(桃山)……桃の形に似ていたことから。ミノヤマと呼ぶ人もいた。

☆水利

・水門の名前……井手川の水門を上げることを「井手上げ」といった。

◎会話抜粋

河野(以下、河):どっから水をひいてたか、さっきも聞いたんですけどもう一度教えていただけたら……。

伊:水は川からですか、こっちの? それとも山のほうから?

松:嬉野川のね、ずーっと上のほうから。ここらへんな塩田川ていうばってん、そこにおーおきな水門があって、そこから水路のずーっとあって、そして、こんだ、一つ一つに小さな水門のあって。板をこう、上げたり下げたりね。

伊:その水門はなんて呼び方をされてたんですか? 皆さんそのまま水門て呼ばれてました?

松:なんて言うかな、水門な? まー、水門は水門ばってん。

山下さん(以下、山):田んなかにいってくるっとは、何か言いよったかね? あくっとは「イデアゲ」ち言いよったけど。

伊:あー、大きな水門を開くのが「イデアゲ」。井手川の井手て字に、水門を上げる、の上げってことですか?

松:そうそう。

・ほかの村との水の共有……隣の部落(道上)との共有はあった。

・水を巡る争い……特になかった。

◎会話抜粋

河:水の争いとかは、ほかの村とあったんでしょうか?

松:水の争いね?

伊:あの、水を巡ってよそと争いとかは起きたりしませんでした?

山、富永さん(以下、富):いやー、なかった。

松:ま、水が豊富にあるとさ、そーふな言い争いはなかったい。ま、わりとあっとやろ、この辺は。

☆災害……

40年ほど前、ダムの堤防が決壊して家が一軒押し流されたことがあったが、嬉野のほうではなく吉田のほうの谷のことだった。

・台風について−20年ほど前に大きな被害がでた。何軒かの家は屋根が吹き飛ばざれた。瓦や材木が田まで飛んできて、被害がでた。

☆旱越……

1994年この地方を襲った旱越による被害はそれほどひどくなかったが、お茶の木の一部分が枯れた。

・いままでにそれほどひどい旱越はなかった。雨乞いもなかった。

☆村の動物……馬も牛も飼っていた

◎会話抜粋

河:牛とかは、その、雄は檸猛なんで雌を飼うことが多かったとか聞いたんですけど。

松:いやあ、もう、檸猛とかなんとかじゃなしにね、家族の一員じゃけん。雄も雌も関係なかねー。

☆村の発達……

・プロパンガスは40年ほど前にきた。

・電気は大正時代からあったが、台所と居間の2ヶ所くらいにしかついていなかった

・水道は30年ほど前にきた。水道がくる前は「共同風呂」があった。510軒にひとつ共同風呂がもうけられており、当番制で湯を沸かしていた。

◎会話抜粋

松:共同風呂っちゅうのがあったなー。

山:あったあったー。

伊:ヘー、それは何軒かにひとつで、みんなで入るんですよね?

松:5軒か10軒にひとつで、混浴じゃったもんなー。今なあんたたちは混浴とか入らっさらんやろもん()

伊:()そうですねー、今は混浴の風呂自体珍しいですしねー。

松:当時は恥ずかしいもなんもなかったよ。女の人の裸がどうとかなかったし。「あー、あっこの奥さんのお産ば控えとるねー。」て言うくらいで。

伊:()皆さん顔見知りですもんね。

松:恥ずかしいもなんも……水を節約しよったんじゃろね、今思うたら。

伊:あ、じゃあ、水道がきてからは共同風呂は無くなって…

松:のーなったね。

☆村の生活に必要な±地

草きり場は特にこの山のこのあたり、というふうには決まっていなかった。だいたい周辺の低い山が草きり場で、今は桧の山になっている。

☆米の保存……玄米のままで保存していた。ねずみは紙袋と俵の二重構造で防いでいた。

◎会話抜粋

河:お米の保存はどうしてたんでしょうか? あのー、農協ができる前はそれぞれの家で保存してたと思うんですけど、その方法とかは…?

伊:みなさんお米は各家の倉庫というか、蔵で?

松:そうそう、蔵で、俵で。

伊:ねずみ対策とかはされてましたか?

富:ねずみね? 特におおはなかったけどねー。俵の内側に紙をしてはおったばってん。

伊:あー、紙袋と俵の二重にして防いでたわけですねー。

河:あの、精米の方法とかはどういう風にされてたんでしょうか?

松:もう、それは、水でね。水のカで。

河:あ、水車ですか。

松:水車のあったね。

☆米の販売

農協ができる前、米の販売はそれぞれの家ごとだった。貧しい人は収穫後すぐに商人に売っていたが、少し余裕のある人になると、米の値が高くなってから売るなど、調整していた。

☆村の耕地一乾田と湿田について

◎会話抜粋

河:あの、乾田とか湿田ってありましたでしょうか? 覚えてたら場所がどこか、どの田か教えていただけます?

松:乾田とか湿田っちゅうのは、あれね、要は水のくるかこんかでね。こう、山の側んあって水が切れん田んなかが湿田で、水がとめらるっ田んなかが乾田よ。山んほうは水のくるもんね、仕方んなしに。

伊:じゃあ、ここを乾田にしよう、ここを湿田にしよう、ではなくて水がきれないから湿田、とめられるから乾田というふうになっていたんですね。

松:そうそう、別に分けようと思うて分けとるんじゃなかっよ。

河:あの、裏作では稗とか粟とか作ってたんでしょうか?

富:稗とか粟はなかったー。

河:あ、作ってないんですか?

松:ここらへんは麦ね。

☆防虫

防虫のため菜種油を使用していた。防虫は組合長などが率先して行っていた。イナゴもたくさんいて大変だったが、戦時中は食用にしていた。

☆茶

この一帯で栽培されている茶は中国からの輸入種(やぶきた、やいほ など)。在来種はもうない。

☆肥料

戦前、科学肥料が来る前、堆肥や山の草、稲わらなどを使用していた。

◎会話抜粋

河:あの、科学肥料は戦後ですけど、化学肥料が入ってくる前はどういったものを使われてたんでしょうか?

松:それは、うん、堆肥ね。あとはー、山ん草、稲わら……。

富:あとー、人糞ね()

河、伊:あー、人糞も()!

富:戦争中のことよ。戦争中な人糞も使いよったて。

河:使いよったなー。

☆村の道

三尺道という道があり、牛を連れて使っていた。

◎会話抜粋

河:昔の道とかは、山の道とかはどのへんにあったんでしょうか?覚えてたら教えていただきたいんですけど。

松:山の道?

伊:あの、今は残ってないけど昔、みなさんがよく通られてた道とか、舗装されてないけどよく使われてた道とか……。

松:それは、山にはどこにもあったよー。三尺道な。お嬢さんたちには三尺ってどのくらいかわかるんかな?

伊:うーん()、どのくらいですかねー。すいません、ピンときません。

松:人と牛の通ったらいっぱいよ。

山:ほーそい道。

富:あー、昔は鈴つけとったなー、牛に()

松:がらがらがらってなあ(入力者注:鳴る)

伊:ん? その鈴って言うのは?

富:まあ、暗い中じゃ見えんわけよ、向こうから牛の来よっとが。たまに牛同士ぶつかっとよ()。んやけ、鈴を牛のしっぽのとこにつけてー。

伊:あー、今で言う車のクラクションがわり。

富:そう、クラクションがわりに。

☆まつり

6月末から7月初め「田祈祷」、収穫後11月初めに米で作ったもちなどを食べながら皆で飲む。

☆村の若者

◎会話抜粋

伊:昔はテレビとかもなくって、夕食を家族みんなで食べられた後、どういうふうに過ごされてたんですか?

松:どうじゃうかー?

山:特に、なーんなしに。

伊:あ、じゃあ、夕食後に若い人だけでどこかに集まって雑談したりとか、そういうのはなかったんですか?

松:あー、あのね、昔は青年会・青年クラブっちゅうのがあってね、中学卒業して結婚すっまで、そこでみんなで寝起きしとったよ。

河:あ、やっぱりあったんだー、青年会とかって。

松:男だけよ。おなごはおらん。男だけ、5人とか10人とかでね。

伊:そこでは皆さんどういうふうに過ごされてたんですか?

松:まー、「あっこにスイカのなっとるけん行こうか」とかして行きよった()

伊:スイカ泥棒ですか()

松:()あとは、エッチな話とかもね、しおったね。興味のあったよ。あんたたちは「夜ばい」って知っとるとかね()?

河、伊:()はい。

松:()夜ばいにも行きよったよ.そとで草履ば持っとくもんのおって。

伊:その草履係は、いつ見つかってもすぐに逃げられるようにですか()?

松:そうよ()、そとで草履もっとくもんのおった。

伊:じゃあ、夜ばいからそのまま結婚する方とかいらしゃいました?

松:そういうもんもおったね。たまにね、失敗して()

一同:()

☆村の今

 今はほとんどが兼業農家である。羽白越付近の唯一の専業農家も収益は少なくかなりきついそうだ。みな、本音は田を手放したくないところだが、今は、「先祖からの田ん中を維持していく」という状況だと松尾さんがおっしゃっていた。



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