当日の行動 AM8時30分出発→高速道路から、嬉野ICにAM11時30分着→前田勝次さん宅にPM0時50分着→PM3時30分、聞き取り終了→嬉野温泉で疲れを取り、帰路につく。→PM7時30分、帰宅。 聞き取りの内容について。 まず最初に断っておかなければならないことは、今回の現地調査においては、我々が担当した宇坪地区にはしこ名が存在しないということである。このことは、我々がインタビューした前田さんがおっしゃっていただけでなく、隣の野仁田に調査に行ったメンバーもしこ名がないといわれたそうなので、ほぼ間違いないだろう。よって、インタビューの内容を中心にレポートを作成した。 質問の内容 Q:このあたりのしこ名をおしえていただけますか。 A:このあたり(宇坪)にしこ名はない。田舎で、小さな区域で、田畑も少なかったから、昔からしこ名をつける必要がなかった。 Q:このあたりの山道や、山、谷、岩、大きな木などで、名前が付いているようなものはありますか。 A:そういうものはあまりないな。ただ、この宇坪という地名は、何百年も立っていたつぼの木にちなんで付けた名です。もっともその木ももう枯れてしまって、今はもうないけどね。そして、この近くの泉水という所は、そこに住んでいた人々が堀を作って、水をためたことからその名前が付いたんです。 Q:行事について教えてください。どのような行事が行われていましたか。 A:行事は、ここ(宇坪)だけでなく、野仁田や、宮の下、大田布、泉水など、近くの地域と合同で行っていました。特に野仁田とは隣組みたいなものです。その行事は、葬式、道路作業、これは春、秋、盆の時期にするものです。あと、彼岸祭、6日間かけて行う祭りです。それと、昔は相撲大会を催していました。これは、長崎県とかからも参加者がきとったんですよ。でも怪我人がでて、危険だということで、青年が集まって、劇などをするようになりました。 Q:祭りについて、参加資格はありましたか。 A:特にないね。 Q:村の水の利用についてお聞きしたいのですが、どのように取りいれ、出しているのですか。また何と言う井関から取っているのですか。 A:何と言う、というか、井関に特別名前はないけど、そこの川(岩屋河内川)の井関から水を引いている。だが生活用水は湧き水を主に使っとる。あとは井戸を掘ったりしてるから、そこから水をとったり。田んぼに引く水は、川から引いてきた水が70%、山の湧き水が30%位かな。 Q:水の管理についての取り決めはありますか。水争いのようなものは? A:水争いみたいなものはないね。取り決めも特にはない。一応係の人はおるけどね。 Q:1994年にひどい干ばつがありましたよね。それはどのように乗り切られたのですか。 A:あの時はどの農家も大被害をうけた。牟田池もほとんど干上がってしまったしね。だから、水のある所まで行って、水を汲んできたりする生活だったね。 Q:村の水利についておたずねしたいのですが。他の村との、水の利用における兼ね合いはどうでしたか。 A:水利権は、今も昔も田んぼについとったから、特に他の村と争うようなことはなかったね。水利に強い所とかもなかった。耕作とかをするのも他の村と合同でやってたから。 Q:雨乞いはしていましたか? A:今はせんけど(笑)、40〜50年前まではしにいきよったね。一升ビンとか、徳利とか、竹筒もって、長崎の方まで歩いて塩水汲みにいって、それをそこの一宮神社の氏神様にささげとった。 Q:効果はありましたか? A:あるっちゃあった時もあったし、ないときはなかったね(笑)そんなもんじゃなかろか。昔からのならわしだったからね(笑) Q:水害や台風の被害はありましたか。 A:え〜っと、昭和27年、34年、37年、43年だったかな、大きな水害があったね。その時は、井関を土のうやら、藁やらを集めて作りよったけん、水害の度に復旧工事をしよったね。もう田んぼもかなり被害を受けとった。今は井堰はコンクリートで出来てるけん、壊れたりはしないけどね。台風の被害は、田んぼがやられるくらい。家屋の被害はなかったね。田舎じゃけんね。 Q:ありがとうございました。少し話は変わりますが、草きり場や、焼き畑はありましたか。 A:あったよ。草きり場は、自衛隊の演習場をつかいよった。入合権があって、ここからここまではどこの部落、ここからここまではどこの部落、というふうになっとった。焼き畑もあった。昔は焼き畑でやっていけよったけんね。今はもうしよらんけど。 Q:昔は、よくお米がとれる田やそうでない田の違いはありましたか。 A:昔は、今みたいに肥料がなかったけん、地力によって米が取れるかどうかはきまっとったね。そこの土が良い土かどうかとか、気候や水の温度とかでもかわったみたいやね。 Q:戦前は、何を肥料にしてたんですか。 A:昔は、窒素、リン酸、カリウムの三要素位しかなかった。それから有機肥料やなんかがはいってきて、良くなったね。 Q:田んぼのあぜに大豆や小豆を植えていましたか。 A:30年程前までは、田のあぜに大豆や小豆を作りよったよ。機械を入れると作れんくなった。邪魔だからね。 Q:なぜ、そのようなものを作っていたのですか。 A:小さい時からそうだったので、よくは分からんね(笑い) Q:農薬のない時代はどうやって防虫対策をしていたのですか。 A:農薬がない時は、油を石油と混ぜて田に入れていたよ。油は松根油といって、松の木の根を絞ったものを使ったり、イルカクジラの油を焚いて絞ったりしてたね。農薬はBHCを昭和22〜23年頃から使い始めたね。 Q:手間返しはありましたか。 A:手間返し?ああ、手間代返しのことやね。唯(ゆい)返しともいったよ。別の田に耕作に行ったお返しに自分の田を耕作してもらうといった感じで、頻繁に行っていた。そうすれば、能率も上がるしね。 Q:村に電気が来たのはいつですか。 A:昭和24年位かな。 Q:それまではどうやって暮らしていましたか。 A:それまではずっとランプ暮らしだったね。 Q:同じくガスはいつ来ましたか。 A:ガスが来たのは昭和30年過ぎ、だいたい35〜36年位だったね。 Q:それまではどういった燃料を使ってらしてたんですか。 A:ガスのまえは大体マキか木炭、あって石油くらいだね。 Q:マキはどうやって調達していましたか。買ったりしていたのですか。 A:買ったりはせんね。自分の山でとってくるか、国有林からとってきてたね。 Q:米を農協に出す前は誰に売っていたのですか。 A:農協に出すまえは、個人の商人に出していたね。昭和12〜13年くらいまではそうだったかな。 Q:地主と小作人の関係はどうでしたか。 A:昔はやはり地主はかなり権力を持っていたよ。地主の言い値がそのまま小作料になる位で、四分、半分も珍しくなかった。今は小作料の取り決めがあるからそんなことはない。 Q:青田売りはあったんですか。 A:ここらへんは青田売りはなかったよ。ただ里の方にはあったかもしれんけど。 Q:売らずに、家族で食べるお米はなんと言ったのですか。 A:保有米とか、自家保有米とかいってたよ。今は自家消費米と言うけど。 Q:その保有米は、いったいどうやって保存していたのですか。 A:俵につめて、その中に麻で作った紙袋(どだい袋)というものに入れて、わらで作ったむしろに入れて保存してたよ。あとは大きなかめに入れたりしていた。あと、トタンの米びつに入れたりしていた。 Q:種もみは、どうやって保存していたのですか。 A:秋に取れた米の良いものから、これだけいるだろうという量を袋に入れて、ネズミに食べられないように天井から吊るしておいた。 Q:50年前の主食はどういったものでしたか。 A:やはり米より麦の方が多かった。昭和40年位まで、麦ごはんは食べていた。 Q:そのころ、ひえやあわのような雑穀が主食になることはありましたか。 A:ひえやあわはなかったね。 Q:昔は、牛馬耕はありましたか。 A:昭和22〜23年位までは牛馬耕をしていたよ。 Q:何頭くらいいましたか。また、馬(牛)捨て場はありましたか。 A:一軒に、牛か馬、どちらか一頭しかいない。牛や馬を捨てるのは、死んだ後でしょう。死んだ後はだいたい自分の所有地に埋めていたよ。 Q:ばくろうはいましたか? A:ばくろうは、かなり多かったよ。大体ばくろうを通して牛馬を取り引きしていた。牛馬耕がなくなると、いなくなったよ。 Q:力石はありましたか? A:力石はなかったよ。力比べとかもあまりなかったね。 Q:テレビや映画がなかった時代に、若者は夜は何をしていましたか。 A:青年クラブにいって、雑談する程度やったんやないかな。 Q:よその村との交流はあったんですか。規律などは? A:そんなもんはない。別に自由に他の村と交流しとったよ。 Q:あの、プライバシーに関わってくるかもしれないのですが、昔の若者はどうやって女性と知り合ったりしてたんでしょうか。恋愛の自由とかもあったのですか? A:だけんそげんとも自由たいね。 Q:出会うきっかけなんかは。 A:ん〜だから働きに行った先とか、働きに(相手が)くるとか、そげんたい。 Q:ありがとうございました。それでは、村の姿が昔から今にかけて変わってきて、それについてどう思いますか。 A:交通の便が良くなってきて、便利になったけど、その分お金も使うようになったし、良い所もあれば悪い所もあるんじゃなかろうか。 Q:えー最後に、今後の日本農業への展望などありましたら、おきかせ願いたいのですが。 A:そうね。輸入自由化とかが進むと、おいしくて、しかも安くないとうれんし、農業は打撃をうけるやろ。これから難しくなるやろね。それこそあんたらみたいな若者がね、がんばってくれたらよかばってんね。(笑い) (我々):今日は本当にありがとうございました。 聞き取りを終えた感想 今回、前田さんにお話を伺い、宇坪地区にしこ名がないことに驚いたが、その代わりに村同士のつながりや、前田さんの成長とともに変容していく村の姿が生き生きと我々には感じられ、嬉野まで足を運んだかいがあったと感じた。また、今後の日本農業について、我々が考えていかねばならない問題も提起していただき、非常に有意義な調査であった。 (終わり) |