野仁田

1ED99027T 寺本淳志  1ED99033E 永野陽基  1ED00032S 田上まどか

聞き取りをした方の名前
蒲原兵右エ門さん 昭和2年生まれ 73歳
山崎辰二さん


調査記録
 私たちは8時半に福岡を出発し、3時間かけて嬉野町に到着した。嬉野の温泉街をぬ け、さらに山の方に入っていった。過疎ときいてはいたものの、何もないことに驚いた。それでもさらに奥へと進んで行き、やっと野仁田入口というバス停を見つけた。全くアポをとっていなかったので、とりあえず丸島橋を渡って始めにあった村田信次さん宅を訪ねた。だが、畑仕事中だったらしく留守だったため、さらに進み野仁田橋を渡って家を捜した。すると、家が何軒かあり、ちょうどおばあさんが通りかかったので訪ねてみると、兵右エ門さんがこの辺のことについて一番くわしいとのことだった。ちょうど12時半ごろで畑からもどって家にいらっしゃった。お昼時ではあったが、数少ないチャンスだと思ったので訪ねていき、時間も大丈夫だとおっしゃったのでお土産をわたし、質問を始めた。以下、質問をQ、兵右エ門さんの言葉をAとして記す。 

Q:この辺には、地元の人だけが知っているようなしこ名とかはありますか。
A:んー、そんなものはなか。昔からこのあたりに家は7、8軒しかなかけん、小さな地名をつける必要はなかったったい。ただ上の方のこん道(地図参照)にでたとこは、ゲンベイっていいよったな。源(みなもと)に平(たいら)ってかくと。
Q:そうですか。それでは、山道、山、谷、岩、大きな木に付けられた名前はありますか。
A:そがんともなかよ。山ばっかしだけん小さい呼び名はなか。村の境界線もわからんと。木も大方農林省管轄で植林してあるから、もう大きな木とかはなか。
Q:シュウジはありますか。
A:ない。
Q:では、村の水はどこからどのようにして取り入れていますか。
A:野仁田橋をわたった少し上ぐらいの所に地下水がふき出ているが名前はついていない。山の上の人は川から取ってる。地下水を工事して引いてると。この辺の人はみんな地下水のわくとこからそれぞれ水を引いて利用していると。
Q:水の管理について何か取り決めはありますか。
A:天候によって量が多かったり少なかったりするけど地下水はだいたいいつも出よったからちゃんとした決まりはなかった。
Q:1994年、5、6年前に大きな干ばつがありましたよね。その時はどうやってのりきったのですか。
A:地下水だけは出たから、かけ流したい。パイプば引いてね。
Q:30年前に起こったらどうなっていたと思いますか。
A:役場の人が配水したと思うけど。
Q:水は村が単独で使っていたんですか。それとも他の村の人と共同で使っていたんですか。
A:ここら辺の人は野仁田橋のとこから水ば引きよったし、宇坪の人は宇坪の人で近くの川の地下水を引きよったごたる。その村ごとにだいたい地下水が湧いとるからそれを使っとるごたる。だけん、他の村の水のことに関してはわからん。
Q:それじゃあ、水争いとかはなかったんですか。
A:うん、そういうのはなかったね。
Q:雨乞をされたことはありますか。
A:雨乞ね?雨乞は昔はあっとったらしいけど私はしたことのなか。昔はしよらしたごたる。多良岳の神社でね、しよらしたごた。今でも多良岳参りはしよっとたい。だけど、雨乞をすることはなか。
Q:今までにひどい水害か台風の被害はありましたか。
A:水害はね・・37、8年前かな。あん時が一番ひどかったもんね。野仁田橋があっでしょうが、あそこはそれまでは飛び石だったったい。あと木橋ば架けたりしてね。人は飛び石を飛んで渡りよって、牛とかが渡るときは小石とかね、砂とかあるところば渡らせよった。37、8年前の水害があってからは頼んでコンクリの橋にしてもらったったい。今はね、川もコンクリにされとるけんね、ほとんど水害はなか。下の方の田んぼがあっでしょうが、そん時は、そこが全部つかってしもたもんな。今でもたまにたまることはあるけど、被害がでるほどはなかね。
Q:台風の被害はどうだったんですか。
A:台風ね?台風は普通にくるけどね。あそこん家(蒲原辰美さん宅)んごつわらぶきだったときには、屋根がとんでいったりしよったけど、今はかわらぶきになってから、そんなことはないね。
Q:今でもわらぶきの方は多いんですか。
A:いや、今はもうわらぶきはほとんどおらんよ。下ん方と今では2軒ぐらいかな。
Q:田んぼの乾田と湿田の割合はどのくらいなんですか。
A:田んぼはもうほとんど乾田たいね。湿田はほとんどなかもん。
Q:割合でいうとどのくらいになるんですか。
A:あぁ、1割もなか。
Q:じゃあ、もともと湿田だったのが、どんどん乾田にかわっていったということですか。
A:いや、最初から湿田はあんまりなかったもんね。それに、途中で土ば入れたりして乾田にしていったったい。
Q:昔は、米がよくとれる田とそうでない田の差はあったんですか。
A:米のとれる量の差ね?そがんとはなか。大体こっちは下ん方のごつはとれんもんね。下ん方は1反で10俵も11俵もとれたりするごたっけどねー。
Q:この辺では大体どのくらいとれるもんなんですか。
A:そうねー、大体5から6表くらいかな。とれても7俵だもんね。だけん差とかはあんまりないね、あっても1俵か2俵くらい。
Q:今、肥料を使っていらっしゃいますよね。それで、化学肥料ができた後では何か変化はありましたか。
A:うん、肥料はね、前、化学肥料ば使っとったけど、今は使っとらんもん。今は有機肥料だもんね。
Q:それはどうしてですか。
A:それは、やっぱ使いのよかけん。
Q:戦前は何を肥料にしていたかご存じですか。
A:戦前のことはようわからんねー。
Q:あぜに大豆や小豆を植えたりはされるんですか。
A:そうね、大豆や小豆は植えよったけど、いのししの被害があってたからねー。だけん、家では作るけど家の分だけしか作らんもん。もう今は、お茶だけしか売りもんにはせんもんね。米はいくらとれても1俵か2俵多いぐらいでしょうが。機械ば使うようになってから、一気に畑おこしたりして畑(茶)の方が簡単になったけんね。この辺じゃ、米ば売りよる人は少なかもんね。
Q:それじゃ、ほとんど自家用にされるということですか。
A:そうね、ほとんど自家用たいね。売りに出すのはお茶ばっかしだもんね。
Q:農薬のない時代はどうされていたんですか。
A:農薬のない時代ね?・・そうね、あんまりようわからんけど、アブラ油ていうてね、重油とかだけどね、そっば使いよったったい。一滴おとすでしょうが、そしたら水面にばーって広がったい、そしてから竹ぼうきとかで稲ばゆすると虫がそこに落つっとたい。そこに落ちたら油だけん身動きできんようになるけんね。うん、そっば使いよった。今はもう色々おってから農薬でないと間に合わんもん。
Q:村に草切り場やキノイはありましたか。
A:草切り場ね?あぁ、昔はあったもんね。今はもう植林してしまってなかもんね。
Q:それは、個人のものだったんですか。
A:うん。ほとんど個人の畑の横でやるごたっ感じたいね。部落でやろうとかいうことはなかったもん。だけん、ここっていうごつ目立ったもんはなかったね。
Q:米は農協に出す前の時代は、いつ誰に渡したり売ったりしていたのですか。
A:茶は今はほとんど農協に出しよったいね、残りを問屋さんに売ったりもするけど。農協のできる前は全部問屋さんにもっていきよった。米は昔からほとんど自家用だったけん、よっぽど余ったときだけ売りに行きよった。農協のできてからはそっちの方が条件のようなったたいね。
Q:地主と小作人の関係は?
A:この辺の畑はほとんど個人のもんだけん、そんなことはなかったね。ただ、下ん方の畑の人がやめるけんていうて、人に小作料をはらってたのむ人もおった。
Q:青田売りはありましたか。
A:青田売りとかもなかったねぇ。
Q:家族が食べる米に何か呼び名はありましたか。
A:家族が食べる米ね?(笑)それは、米は米たい。
Q:どうやって保存していたのですか。
A:保存の仕方ね・・大きい缶かんに入れて置いとくとたい。1つに大体5、6俵入るもんね。そして余ったつは農協にもっていくったい。
Q:次年度の作付けに必要な種もみがありますよね。その種もみは、どう保存していたのですか。
A:種もみは、乾燥させて、そいから、紙とかの袋に入れて保存すっと。
Q:そうなんですかー。ネズミ対策はどんなことをしていたのですか。
A:ネズミね?ネズミは、缶かんに入れとるけん心配はいらんたいね。
Q:では、50年前の食事における米、麦の割合はどうなっていましたか。
A:米と麦の割合ね・・麦とかはほとんど食わんね。米ばっかりだった。
Q:ひえなどの雑穀も食べることはなかったんですか。
A:はい、そがんとはほとんどなかったね。
Q:牛、馬はいましたか。
A:牛とかはあんまりおらんね。昔は、30年くらい前には5、6軒はおったかな。
Q:ばくろうは?
A:そがんとは知らんね。
Q:今は、電気もガスもありますよね。いつごろ村に電気はきたのですか。
A:んー、昭和22年だったかな。
Q:ガスは?
A:昭和30年以降だろうねぇ。
Q:それじゃあ、電気やガスが来る前のくらしについておしえてください。
A:電気やガスが来る前ね?それは、山に行って、たき木ば拾うてきて、燃やすとたい。もう今は、ガスだの油だのにかわっとるけどね。
Q:たき木はどこからでもとってきたんですか。
A:どっからでもってわけじゃないね。農林省のとっからとったら、そら、罰金になるけんね。だけん、自分の土地からだけとってきよったね。
Q:(地図をみせながら)昔のとなり村に行く道はどれですか。学校に通っていた道はわかりますか。
A:この地図ではわからんなぁ。あったばってん。ただ、水害のときとかはね、山をこえて学校の方に行きよったね。橋ができとらんかったときにはね、私が小学2年のころだったけど、飛び石ば渡っていきよって落ちて流された人もおったっよ。(笑)後で困るけん、村の人たちで3年かけて道ばつくったと。そっから、またしばらくしてから、4〜5年かけて町に頼んでコンクリ舗装してもろうた。
Q:村の神様はいますか。また1年を通してどんなお祭りがありますか。
A:祭りはあるよ。12月15日に大神宮さん祭りがある。
Q:どんな人が参加するのですか。
A:この祭りは男だけたい。
Q:女の人は参加できないわけですか。
A:まあ、料理を作ったりはしてもらうけどね。
Q:それじゃ女性のお祭りというのはあるんですか。
A:12月18日のかんのんさん祭りがそうたい。この2つの祭りは昔からずぅーとありよった。宇坪の人と一緒にするとたい。あと、青年会の人たちが年に1回集まって踊らすとたい。9月1日に神社に集まってね。カザビ(風日)っていうてね。私が子供のころは相撲をしよらしたけど、けが人がでてから、それで、踊りや歌ばするようになった。
Q:夜の仕事はありましたか。
A:夜の仕事はなかったねぇ。昼みんな畑仕事をしよるから。
Q:テレビも映画もない時代、若者は夜何をして遊んでいましたか。
A:んーなんかなー。ようわからんね。月1回青年会の集まりっていうのがあったけどね。歌のけいこばしたりね。今は、自衛隊の音楽隊がきて演奏したりすっと。
Q:よその村の若者が来ることはありましたか。
A:他の部落の人はこんよ。
Q:何か規律はありましたか。厳しかったですか。
A:あったねぇ。そんな厳しくはないと思うけど。もめごとがあったときに話し合いで決めよった。
Q:若者たちは、どんなふうに知り合ったのですか。恋愛の自由はありましたか。
A:どんなふうに知り合ったかはわからんよ。(笑)結婚の自由はなかったね。親が相手を決めるとたい。
Q:それでは連れてこられた相手と結婚するというわけですね。
A:そう、だけん結婚の自由とかはなかねぇ。時代の流れでだんだん今んごつゆるやかになってはきたたいね。
Q:村はどうかわってきましたか。
A:村の様子はかわってきたね。具体的にどこがかわったとはいえんけど。なんとなくかわってきた。くらしとか、川、道、森なんかがね。
Q:これからどうかわっていくのでしょうか。
A:んー、時代の流れでかわってきてるねー。自分の考えとしては納得いかないことでもね、どうせ年寄りの言うこつだしね、流れだけんしょうがなか。
Q:今後の農業はどうなっていくのでしょうか。
A:これからも茶が主体はかわらんだろうね。だけど、若い人は会社勤めが増えてきてるし、うちの息子が大きゅうなったころには、ほとんどそうなっとったもんね。
Q:兼業農家ってことですか。
A:2、30年前から兼業たい。でもね、畑や茶はそれだけは、なくすわけにはいかんね。でもね、後継ぎがおらんとたいね。最近じゃ、若か娘さんはこげん所にきたがらんけん、結婚もだめになったりしとるしね。茶をやる機械もあるけど、あれも2人おらんと使えんもんな。うちには、あれ(奥さん)がおるけどね。本当、後を継いでくれる人をさがさないかん。
Q:そうですか。色々とありがとうございました。

 こんな感じで私たちは質問を終え、兵右エ門さん宅をあとにした。しかし、しこ名が 1個しかないのはあんまりだろうと思い、さらに奥に進んで山崎辰二さん宅を訪ねたが、やはり源平以外にはないとのことだった。それで、野仁田の調査を終了し、嬉野町を出て福岡に帰ってきた。

調査・レポートを終えての感想
 初めから電話するところが決まっておらず、アポなしだったわりには、案外すんなりと事が進んでいったように思う。田舎で何もないところだと覚悟はしていたが、野仁田橋も橋とはいえないほどの小ささだった。地元の女の子も野仁田橋がどこにあるかわからないと言っていたほどだ。何もないところだからよけいにしこ名がたくさんあるだろうと期待していたが、なかったので残念だった。宇坪の方は、しこ名はないがシュウジはあると言われたそうで、本当は野仁田にもあったのかもしれないと思った。おじいさんがシュウジの意味をわかっていなかったのかもしれない。少し聞き方や話すすめ方 が悪かったので、くわしく聞き出すことができなかったように思う。もう少しくわしいことまで調べてレポートがつくれればよかった。また、録音機がこわれてしまったため、おじいさんの生の声を聞かせることができなくて残念だ。レポートの方言も記憶を思い出しながら書く結果になってしまって、少々つくってしまったところもある。
 おじいさんの話については、5、6俵も入る缶かんがどんなものかとびっくりしたり、川を飛び石で渡る時代があったことに驚いたりした。また、その村独特の祭りが古くからずっと受け継がれているのは、すばらしいなと思った。なぜその日にやるのかなども聞けたら良かったと思う。最後に、お茶をごちそうになった。とてもおいしくて、「ごちそうさまでした。このお茶は、ここで作られたものですか。」と尋ねたのだが、聞こえていなかったらしく、「よかよか。」と言われてしまって残念だった。少し旅行気分で田舎まで行き、天気もよかったので、気持ちのいい1日を過ごすことができた。