嘉瀬の坂

奥田和久  井手元 悟

聞き取りしたおじいさん久我文久(昭和24年)
一ノ瀬義晴(昭和2年)桑原勲(昭和9年)
松尾村しこ名一覧
オミヤノシタ(お宮の下)、オトシロ(音城)、アンノシタ(庵の下)、カキノタ(柿の田)、コウシン(庚申)、アンノつ(庵津)、アラタ(荒囲)、マヅオダニ(松尾谷)、しンリンダニ(神林谷)、クウヤ、ナカドオリ(中通)、ヒラキ、コウジヤ、インタロ、タロウボウタニ(太郎坊谷)、コウヤ(広谷)、ウーヌゲ(大崩)、ミヤンセ(宮瀬)田畑オミヤノシタ(お宮の下)、オトシロ(音域)、アンノシタ(庵の下)、カキノタ(柿の岡)、コウジン(庚申)、アンノツ(庵津)、アラタ(荒囲)谷マツオダニ(松尾谷)、シンリンダニ(神林谷)、ナガドオリ(中通)、クロウボウタニ(太郎坊谷)、コウヤ(広谷)宅地クウヤ、コウジヤ使用している用水の名前、ミヤンせいディ(宮瀬井関)太井関、板井関、庵津井関は七つ河内村のもの。
用水源吉田川、古堤、新堤昔の水争い争うことはなかった。旱魃1994年の旱魃では、宮瀬井関をきれいにしたり、町から補助があった13台のポンプで吉剛Ilの水をポンプアップすることで水には困らなかった。松尾村は七つ河内村より上流に井関があるので、水の確保は有利だった。水管理をしていたのであまりひどくなかった。平野堤には管理人が居た。雨乞い昔は九尾山、古堤、庵津の杜でカネやたいこを使って雨乞いをしていた。化学肥料の影響化学肥料を使う前はたいひや草を腐らせたものをつかっていたが、化学肥料になると8俵だったのが9〜10俵ぐらいに増えた。場所による格差昭和24年、37年、38年に水害があり、川沿いの地域では土が流れたり、有が敷き詰められたりして不作だった。最近は護岸工事のおかげで格差はなくなった。他の村と比較して松尾村が昔は一番貧しかった。川沿いは昔は2mくらい石を積んでいるだけだったが、水が田に 流れ込むので堤防を作った。あぜに小豆や大豆を植えることがあった。これは耕地が少なかったから。豆はうすでひいていた。虫除けには廃油をつかっていた。松尾村にはホイヤカンカンという虫送りの行事があった。たいまつに火をつけてみんなで高地まで歩く行事。.手間返し 牛はだいたいどの家屋にも一頭いたので手間返しはなかった。電気昭和。年ごろには既に電気はとおっていた発電所から電気がとおっている。ガス昭和30年ごろからある。ガスが普及する以前は水炊きは川に生えているふきやかやでたいていた。ふきやかやは家の屋根としても使っていた。風呂は麦からでたいて、井戸から風呂の水は取っていた。これらはすべて子供の仕事だった。村の共有の山は少しだけあった(一反くらい)。場所は平野堤の周辺。薪を冬にとってためておくための、たきもの小屋があった。米の保存農協に出す前は米を業者に売っていた。地主と小作人の関係は権力の関係はなかった。青岡売りなどはなかった。飯米のことは自家米と呼んでいた。食事における米はくず米だった。牛_軒に一匹いた。メスがほとんどだった。オスの牛はコッテといい、材木を運ぶ時に使っていた。メスの牛はウッてとよんでいた。馬はいなかった。ばくりゆうはいた。口はうまかったらしい。(言いにくそうだ叱)馬洗い場などはなかったが、家畜は吉田川で洗うことができるようにしてあった。塩や魚有明海や大村湾から行商人が来ていた。てんびんぽうをかついできたり、自転車に乗ってきていた。学校道は普通の道をとおっていたが近道をするときはあぜ道を使っていた。まつり筆葦筒神社で祇園祭が一年に一回行われる。当番制で松尾村に8年に一回まわってくる。下吉岡の区の祭りは8月16目に行われる。全員参加。松尾の祭りは8月23目に三夜山祭という祭りが行われる。正式名はツキヨミノミコト。昔の若者昔は戦争ごっこをして遊んでいた。集まる場所はクラブと呼ばれていた。そのほかは、8月31目の風大という行事(災害が起こらないように一晩中カネをたたく)の練習をしていた。ヨバイもあった。男が親に内緒で女のところに通っていた。村のこれから松尾村では水稲のほかに、みかんやお茶をつくっているが、近頃は釜煎り茶というお茶が大半になっている。松尾村は特に何もない平凡なむらだが、お茶などをPRしていきたいと言っていた。

一日の行動記録バスから降りる。目陰を探して昼食をとろうとしたが、目陰がなかったので、久我さんの家に電話をすると、来てもいいとおっしゃったので、久我さんの家に行って昼食を食べた。久我さん本人は50代のおじさんだったので、物知りの老人を紹介してほしいとたのむと、久我さんが七つ河内の区長をしている桑原さんに電話をしてくれて、久我さんの家まできてくれることになった。隣の家の一ノ瀬さんもきてくれて、3人で相談しながら質問に答えてくれる形になった。一ノ瀬さんは75歳くらいで佐賀弁で何を言っているかよく聞き取れなかったが、久我さんが通訳してくれるような形になったので、比較的スムーズに調査は進んだ。しこ名は一ノ瀬さんがかなり詳しく、ほとんど全部のしこ名は一ノ瀬さんから聞いた。一方、村の慣習などは、区長さんが詳しく教えてくれた。途中区長さんが用事でぬけることになり、残るふたりに質問をしていった。4時間くらいかかってすべての聞き取りがおわり、博多土産の「博多の女」をわたしてバスを待った。 感想佐賀県は何度も行ったことがあったが、嬉野町は今回はじめて訪れた。佐賀県も長崎県と同じく山が多く、耕作地が不足している印象を受けた。町中では若い人に一人も会わなかったので、村の過疎化も深刻そうだった。聞き取り調査ではとても親切に答えてくれて、3人で昔のことを懐かしく語ってくれた。僕の祖父が農家をやっているので、農業についてはわかる部分も結構あった。九大の何学部がと聞かれたので、薬学部と答えると最近の薬に関する事件などについてどう思うかと聞かれた。パートナーの出身地の鹿児島の話や、僕の出身地の筑豊の話などをした。筑豊の話で炭坑の話をすると、炭坑とかはめずらしい道具とかがあって興味のある話ができるやろうけど、うちのむらは平凡な農業の村だから興味のある話があまりできないで残念だといっていた。しこ名については自分達の町にもあるのかどうか今度祖父に尋ねてみようと思った。今回ははじめての現地調査だったので、不安も少しあったが、おもしろかった。

は‘じめに今回、調査の準備の段階では嬉野町飯盛の生産組合長の方にお話を伺うことになっていたが、直前に調査当目は仕事の関係で不在だという連絡を受け、さらに他に村の歴史などに詳しい人を紹介していただくこともできなかった。そこで私達は飯盛で出会ったすべての人に話を聞いていくことにした。このレポートでは出会った人順に重複する話を割愛しながら列挙していく形式をとることにする。

1・田んぼのおじいさん
バスから降りて周囲を見渡すとおじいさんが農作業をしておられたので早速話しかけてみた。まず調査の趣旨を述べてから小宇としこ名の違いを説明したが「そりゃ何のことね?むつかしかことばいわれたっちゃわからんたい」といわれてしまった。でも.この発言で現地の人々は小字とかしこ名とか区別することなくただ単純に言い慣れた言葉としてつかっているんだろう、と私達は思った。次の目的地である落合橋の場所を聞いておじいさんと別れた。
2・落合橋で出会ったおばさん落合橋に着くまでに3軒ほどあったがどこも留守だった。落合橋