嬉野町亀頭六
1TE00004 石原 淳平 1TE00016 川武 義典
手を振っているおじさんがいる!若くない!?車の中から見た太田さんは予想を遥かに凌ぐ若さで僕等に手を振る。これが僕等と太田さんの記念すべき出会いだった。緊張した面持ちで家の中に案内してくださる太田さん。水の音。亀頭六の田園風景。僕らのモチベーションは上がる一方。大きく深呼吸して顔を見合わせる僕等。足を踏み出し大きな声で「おじゃまします。」声を合わせた。
その日まで降り続いていた雨の湿気が室内にまで及んでいた。太田さんが切り出す。「資料とかは持ってきとーっちゃろ?」 頷く僕等。ここぞとばかりに図書館で調べてきた資料を手に持ち質問を始めた。まずはしこ名とあざ名。「今の地図に載ってないような地元の人だけが使っているような田んぼの呼び方とかを教えていただけませんか?」最初に教えて下さったのは今の轟小学校辺りをトリグチと呼ぶということだった。トリグチは近くに神社の鳥居があることから鳥居口というのが語源ではないかというお話だった。本当にしこ名やあざ名というものが存在するのかどうか確信が持てなかったので、とりあえず第一歩を踏み出せたことに多少の安堵を感じることができた。そして、その轟小学校の西部を流れる川をイデンコウと呼んだそうだ。忘れてならない情報として、現在の亀頭六周辺は、下古賀、黒岩、高見、松山、と、呼ばれていた。それらの四っつの地域が集まって亀頭六となった。
質問を続けるうちに太田さんの緊張がほぐれたことを察し、僕等の質問も加速し始めた。「若い頃はどんなことをして遊んでいらしたのですか?」 「ワシラが若い頃は遊ぶっちゅーことはなかったねー。なんか家の手伝いばしよったもんねー。」 「全くですか?」 つっこんでみた。 「そうやねぇ、晩飯ば食った後に公民館に集まって話ばするぐらいしかなかったさ。」それだよ。しめた、と思い質問を続けた「その集まりに名前はなかったんですか?」「そうやねー。」太田さんは照れながら「クラブちいいよったねー。」青年クラブはやはり亀頭六にも存在した。公民館というよりクラブといったほうが一般的なようだ。話によるとクラブに集まる若者を青年団と呼び、青年団は祭りの運営などをやっていたそうだ。また、他の地域の青年団との意見交換も頻繁におこなわれていたようだ。青年団が運営していた祭りというのは12月31日に行われる奉納の祭りで風避と呼ばれ、村全体で祝うものであるということだった。しかし近年、他の村々の例にもれず、亀頭六の若者達も都市部へと就職に出て行ってしまうということで、祭りを運営するのも青年団から子供風流と呼ばれる子供達が中心になってきたというお話をきくことができた。そして風避も昔はいくつかの村が合同で行っていたということだったが、ここ4、5年は村の人口が減ってきたことからそれぞれの村で分かれて行われるようになってきたそうだ。」
次に農業について聞いた。農業以外に収入はあるのかどうか、と言う問いに対して「ほとんどない」、とのこと。そして自ら食とする米(ほい米、と、いうそうだ)以外は全て農協へ卸すそうだ。ほい米は自ら天日干しをし、倉庫に保存しているそうだ。ねずみ対策は今でも無いとのこと。30年位前までは、粟、麦も作っていたそうだ。芋は今も栽培してらっしゃるそうだ。30年前は各家に農耕用の牛(気性の問題もありだいたいが雌)を飼っていた。また材木引きの馬も何件かで飼っていたそう。牛馬の通る道は人間と一緒で、それらの洗浄は、イデンコウで行われた。ばくりゅうさんという人(職業)がいて、家畜を食用として売りに出すために子牛、子馬と交換し、差額をもらっていたそうだ。30年前は道も整備されてなく田んぼと田んぼの移動には田んぼを越えなければいけなかったそうだ。田んぼのことはタンナカというらしい。農業について調べる上で、忘れてはならないのが治水についてであるが、太田さんにお聞きしたところ、現在では田んぼに引く用水はダムより引くようになっているということで、昔は川から直接引いていたそうだが、その頃から特に治水についての取り決めなどはなかったということであった。
ここまで、亀頭六の今と昔について太田さんからお聞きしたことことをまとめてきたが、最後に太田さんがお考えになられている亀頭六の今後の展望などについて述べて終わりにしたいと思う。過酷な生産調整、減反政策の影響による米の価格の下落が亀頭六の農業にも深刻な打撃を与えているという。「正直言ってこれからどーなるかおい達も不安ですもんね。」という言葉と太田さんの渋い表情がそれを象徴していた。
調査を行ってみて、「やりがい」を感じた。我々が行った調査によって、ひとつのムラのドラマが記されると思うと、充実感でいっぱいになる。貴重なお話をして下さった太田さんも、素敵な方だった。この場を借りて、我々の無礼に対するお詫びと、調査に協力してくださった事への、感謝を述べて、このレポートの終わりとしたい。