インタビュー 金松 「この村の田や農業の様子について、教えてください。」 この質問を投げかけ、少しの間雑談をする。先方はまず、イネの種類について話をしてく ださいました。 :S16年頃にアサヒ。その次がノウリン12号。あと18号やったな。これがS23〜 28年頃になります。そして…アヤニシキ。これがS28〜34年。でキンナンプウ(金 南風)がS40年。これは大量生産用になっとったな。 「ではアヤニシキ以前は品質向上用ということでしょうか?」 :うんうん。で今は佐賀1号と12号しか作っとらんな。 「品質向上用の稲から大量生産用の稲に変わり、生産性は上がりましたか?」 :うん。やっぱ変わりましたな。昔は1反あたり420キロ、1俵が60キロやけん7俵 ですね。今は…480キロとれるかな。 「それでは、田のことについても教えていただきたいのですが『しこ名』は残っています か?」 :…?しこ名?そげんとはなか。 「1つ1つの田を特別な名で呼んだりはしていませんか?」 :特別な名前はついとらんねぇ。 「では、田に行く時はどのように言っていますか?」 :?? このあと、おそらくあざなと思われる地名を教えてくださいました。田に出向く際は「(あ ざな)の田に行く。」と言って出かけるそうです。 シイバ(椎場) タシロ(田代) ウワダイラ(上平) サイダイ(祭代) ウチムタ(内牟田) ウド(宇土) 以上が金松のあざなです。 「水田の水はどこから引いていますか?」 :わき水を使っとうね。あと小川からも引いてきとうよ。 「その水は金松ですべて使えるのですか?」 :うんうん。共同でね。こん部落に2ヶ所あるかな。 水利が強い村は特になく、水争いもなかったとのことです。 「この地区で何かお祭りみたいなものはありますか?」 :まつりね?なかね。 (家の人):あるやんね。『くさはらい』とか『かざび』とかじゃなかね? 「1994年にかんばつがありましたよね?」 :あー、うんうん。 「そのときどのようにして水をまかないましたか?」 :上ん部落の小路から2700リットルずつ…1日に12回くらいやったかな…。40日 くらい続けたな。あとは上ん田から水を流しよったな。『まわし水』っちゅーてな。 「もしこれが50年前だったら、どうしていたと思いますか?」 :50年前ね…わからんねぇ。うーん…ちょっとわからんねぇ。 「雨乞いをしたことはありますか?」 :いいや、ないねぇ。 「水害はありましたか?」 :水害ねぇ…。 「台風の時など、被害はどうでしたか?」 :このへんじゃ、台風の被害は特になかったね。このへんの田は『棚田』っちゅーて段が あるけん、田が水につかるっちゅーことはなかったけど、石垣がくずれたことはあったな。 「化学肥料を使う前は、米がよくとれる田ととれない田はありましたか?」 :特にはなかったねー。地力と管理でちったぁ差があったぐらいやね。 「戦前には何を肥料にしていましたか?」 :配合肥料やね。 「??」 :豆かすとか米ぬかを混ぜたやつを使っとったよ。あと硫酸アンモニアとか…。 「化学肥料を使うようになってから収穫はよくなりましたか?」 :うん、やっぱよくなったね。 「あぜ道にだ大豆や小豆を植えることはありましたか?」 :あー、小豆を植えよったね。 「それはどうしてですか?」 :うーん、よう採れよったけんかね。 「農薬のない時代はどうしてたんですか?」 :油を使いよったよ。廃油をね、今んごと害虫がいっぱいおらんかったけん、それで十分 やった。豊年油っちゅーて、笹でこうして(身振り付き)はらって下におりていきよった。 あとで3人で納得したことですが、油で羽がぬれ、害虫が飛べなくなる為、このようにし ていたそうです。 「村に電気やプロパンガスはいつ来たのですか?」 :電気?(苦笑)いつやったかね?S2〜3年。ガスは30年前くらいかな。 「その前はどうやって生活していたのですか?」 :ガスがくる前は石炭やった。その前は薪を使いよった。 「入り会い山はありましたか?」 :??入り会い山ね?持ち山はあるけど…。 「そこは村の人と共同で使っているのですか?」 :そうそう。松の木とか雑木とかな。12〜2月にな。 「米を農協に出す前は、誰に渡したり売ったりしていましたか?」 :商人さんやね。 「地主と小作人の関係は残っていましたか?」 :なかったね。 「青田売りはありましたか?」 :青田売り? ここで私達はマニュアルを見せながら、青田売りの説明をする。 :いや、なかったよ。 「家族で食べる飯米は何と言っていましたか?」 :保有米やね。 「保存はどのようにしていましたか?」 :俵の中に紙を入れてな。障子紙を何枚か貼り合わせてな。ほら障子紙はほかん紙に比べ て粘りがあるけん。 「次年度の種もみはどうやって保存していましたか?」 :ん?…冬場だけやけん虫はつかんかった。普通に蔵に入れよったよ。 「ではネズミ対策はどうしていましたか?」 :ネズミね。俵に杉の葉を押し込みよった。杉の葉はとがっとうやんね?だけんちくちく してネズミが入ってこんったい。 「50年前は、米と麦の割合はどれくらいでしたか?」 :だいたい7:3くらいやったかな。麦食やったな。白ご飯を食べることはなかった。 「ひえ、あわなどを主食にすることはありましたか?」 :うんうん。あった。あった。 「牛や馬はいましたか?」 :あー、おったおった。一家に1頭おったね。牛がほとんどやね。 「オスとメスではどちらが多かったですか?」 :オスの方が多かったな。大体オスが80%くらいやったかな。だいたいオスを飼う人は オスばっかり、メスを飼う人はメスばっかり飼っとったね。 「『ばくろう』と呼ばれる人はいましたか?」 :おったおった。 「馬洗い場や馬捨て場はありましたか?」 :あったな。今はもう小さくなっとうけど。そこを下りていったとこに…。 このあと地図中に場所を示してくださいました。 「牧草地はありましたか?」 :あぜ道の草とかエサがあるけん、牧草地はなかった。 「この村でまつられている神様やまつりはありますか?」 :んー、代山(しろやま)神社でついたち祭りをしよる。12月1日に。 「それは村の人が全員参加するのですか?」 :そうそう、おそなえしてな…。 「テレビなどがなかった時代若者はどのようにして過ごしていましたか?」 :すもうとか囲碁とか…あと花札とかしよったな。 「若者が夕食後に集まる場所はありましたか?」 :あー、青年クラブ…今の公民館やな。 「そこへ他の村から若者が来ることはありましたか?」 :うん、あったあった。男女混合でな。 「あと若者の恋愛についてお聞きしたいことがあるのですが、恋愛の自由はありました か?」 :うーんなかったね。親に遠慮して恋愛しよった。ほとんどがお見合い結婚…あなたたち からしたら考えられんかもしれんけど、親には絶対服従やったよ。 永尾里次さん T15年3月5日生まれ 突然おうかがいし、何のための調査かと疑問に思われているようでしたが、快く迎えてく ださり、次におじゃますることになっていた泉水の前田重昭さん宅まで車で送ってくださ いました。さらに、帰りの嬉野までも「電話すれば送る」と言ってくださり、感謝の言葉 もありませんでした。 インタビュー 泉水 「まず、田についているしこ名について教えていただきたいのですが。」 :しこ名? 「1つ1つの田んぼに、何か特別な名前がついていませんか?」 :うーん、そうねぇ…。このへんじゃ例えば「泉水のタンナカに行くけん」とか言って出 ていくから、特には残ってないねぇ。 「残ってないんですか…。」 :うーん。大野原の中に7部落あるんやけど、そこの地名を言うからねぇ。 そこで教えていただいたのが、次の7つです。 センスイ(泉水) ウツボ(宇坪) オオタブ(大多布) ノニタ(野仁多) ウツケガワ(宇漬川) サンジョウ(三丁) ヒラシゲ(平重) 「では村の水利についてお聞きしたいんですが、水田にかかる水はどこから引いているん ですか?」 :ため池やねぇ。あとは山からの水とかかね。 「その用水は、泉水が単独で使っていたんですか?」 :いんや、他の村と共有やね。ここらへんじゃ、泉水と大多布が一緒に使いよる。 「水利に関する慣行、例えば何かのお祭りとかはありますか?」 :ああ、『かざび』っちゅーて、熊野神社でやるねぇ。あとは、大多布の石ノ宮神社で9月 1日にやるね。青年・婦人会で歌とかおどりとか。あとは…ほら、そこに大野原演習林が あるやろ?自衛隊の音楽隊が来てくれたりもするね。 「1994年にかんばつがありましたよね?」 :ああー、そういやーあったねぇ。 「その時どのようにして水をまかなったんですか?」 :うーん、まわし水っちゅーてね、1件1件「今日は私、明日はあんた」っちゅーて決め とくんよ。どっかからトラックに乗せて汲んできたりもしたね。 「もしもかんばつが50年前の出来事だったとしたら、雨乞いとかはやったりしました か?」 :そうねぇ。石ノ宮神社に、竹の筒に水を汲んできてまつったりもしたね。 「このへんでは、台風の被害はあったんですか?」 :いやー、ここらへんは特にないねぇ。 「米がよくとれる田ととれない田はあったんですか?」 :うーん、とれんかったんは、かんばつの時くらいかねぇ。 「では、化学肥料を使う前は、収穫はどれくらいだったんですか?」 :だいたい5〜6俵くらいかね。 「やはり化学肥料が入ってから、収穫は良くなりましたか?」 :うん、やっぱねぇ。今は7〜8俵ぐらいやねぇ。 「以前は何を肥料にしていたんですか?」 :そうやねぇ…畑の草とか野原の草を刈って干したやつを、水にためて腐らせるんよ。あ とは、牛のフンが混じった草を混ぜたりね。 「あぜ道に大豆や小豆を植えることはあったんですか?」 :ああー、昔はやりよったね。今じゃあほとんどせんごとなったが。 「どうして植えてたんですか?」 :うーん、なんでかねぇ(笑)。昔はあんことか自分ちで作りよったけんかね。大豆はうち は作ったことはないねぇ。 「農薬のない時代はどうやって害虫対策をやっていたんですか?」 :油をね、下にまくんよ。そんで、笹で稲の下の方をはわく。そしたら、虫が落ちるんよ ね。落ちた虫は羽が油でべとべとして、飛べんくなるんよ。 「ああー、なるほど!!」 一同納得し、また感動。 「では村に電気やプロパンガスが来たのはいつ頃なんですか?」 :うーん、そうねぇ。 ここで奥さんと話し合いをなさっていました。 :S21〜22年くらいやったかなぁ。プロパンガスは、S40年くらいかね。はっきり はわからんけど。 「じゃあ、それらがなかった時代は?」 :ランプを使いよったね。石油を入れて。あとは薪やね。 「入り会い山はありましたか?」 :??…何? 「村の人たちが共同で使ったりする山はありますか?」 :ああー…分集林っちゅーのならあるねぇ。 「農協に出す前は誰に売ったりしていたんですか?」 :わしらのころはもう農協に出しよったけんなー。ようわからんな。今じゃ個人で売っと るところもあるな。 「このへんは、地主と小作人の関係はあったんですか?」 :ああ、今でも何件かあるよ。4〜5件くらいかね。人の田を借りて作りようところもあ る。 「青田売りっていうのはありましたか?」 :そら何ね? ここで青田売りの説明をする。 :ああー、このへんじゃなかった。他の部落で、後継者がおらんところはやりよったとこ もあるらしいがね。 「家族で食べるお米は何と呼んでいるんですか?」 :ああー、保有米っちゅーね。 「それはどのように保存したのですか?」 :昔はふくろとか、かますに入れたね。今は冷蔵庫やけど。 「次年度の種もみはどうやって保存していたんですか?」 :自分の家で米ぶくろに入れとったね。 「何かネズミ対策はしていたんですか?」 :ああ…箱に入れとったよ。箱やったら、ネズミも入って来れんじゃろ? 「では50年前の食事は、米と麦の割合はどうだったんですか?」 (奥さん):そうねぇ、イモとか入れたりして、米と麦は半々くらいやったかねぇ。 「じゃあイモを主食にすることはありましたか?」 (奥さん):はい、ありましたよ。 「このへんでは、牛や馬を飼っていたんですか?」 :ああ、飼っとったね。ほとんどが牛を飼っとったけ、馬はほとんどおらんかったかな。 「各家にどれくらいいたんですか?」 :ほとんど1軒に1頭かね。牛でスキをひかせたりしたし、荷物を運ぶのも牛やった。 「オスとメス、どっちの方が多かったですか?」 :昔はオスが多かったね。今はメスかな。 「ばくろうはいましたか?」 :ああ、おったねぇ。このへんじゃ、『ばくりゅう』って言いよったんよ。牛の値段を決め たりね。 「馬洗い場や馬捨て場っていうのはありましたか?」 :馬捨て場は1ヶ所あったね。死んだ時、そこに持って行ったよ。 「昔は塩や魚などはどこから運ばれて来たんですか?」 :うーん、長崎県の方から歩いて2時間くらいかかって来よったね。 「テレビがなかった頃は、若者は夜などはどうやって過ごしていたんですか?」 :わしらん頃は、活動写真やねぇ。映画のことよ。そこの兵隊さんの所に見に行きよった ね。 「若者が集まる場所なんかはあったんですか?」 :うん、青年クラブ。 「他の村からも遊びに来たりしていましたか?」 :うん、来よったね。 「昔の若者たちの恋愛っていうのは、どういう感じだったんでしょうか?」 :ああー…厳しかったねぇ。娘さんの家に行ったりすると、家宅侵入罪でやられたりもし た(笑)。 「(一同笑)」 :昔は親の言う通りに結婚しよったけね。いいなりやったよ。今じゃあみんな好き勝手や っとるけどねぇ。 前田重昭さん S6年11月5日生まれ その後、前田さんのお孫さんとも少し遊び、帰りはなんと嬉野のバスセンターまでわざわ ざ送っていただきました。当日は諸事情により、高速バスを使って現地まで行っていた私 達は、本当に皆さんの優しさに助けられてばかりでした。 |