以下の部分には漂泊民であったサンカの人たちについての記述が含まれて
います。貴重なお話なのでそのまま掲載しますが、以下のことを念頭に置
いて読んでください。 『部落史用語辞典』(柏書房)より さんか 山窩 山間や水辺に生活する漂泊民のこと。山家・山稼・散家とも書く。柳田国 男はホゲ・ノアヒ・河原乞食・ボンス・ボンスケとも称すると述べている(「イタカ及ビ サンカ」)。ボンスとは鼈の隠語で、川漁が巧みでスッポンをとることが妙であることか らきているという。また関東では箕直しという別称もある。後藤興善は「又鬼と山窩」の 中で山窩の別称を紹介している。福島ではテンバ、駿河島田ではヒイシ、美濃三河ではボ ン・ボンス・ボンスケ、近畿から中国・四国ではオゲ・オゲソー・オゲッタ・エゲ・カハ ラモン・カハラコジキ、備中・伯耆ではカハラギュト、広島・島根ではロウニン、中国・ 九州ではヒニン、サギシ、長崎辺ではクワンジン……。ヒニン・ロウニンは蔑称・比喩語 である。彼らの仕事・生業は農業に従事せず、箕・籠・ささらなど竹細工などであった。 その職種は、@箕作りA箕直しB笊つくりCささらづくりD茶釜づくりE茶杓づくりF釜 敷つくりG気込めつくり(櫃入れのこと)H矢こぎRらうつくりJ箕の子つくりK練子踏 み、の一二種である。彼らはこれらの仕事をし、人里に出て米穀と交換したり売ったりす る。人里へ降り人家に物乞いをするので川原乞食とか勧進などと呼ばれている。彼らの暮 らしはすこぶる簡単で、家財は少く、移動する所持品を包むテント兼用の風呂敷とわずか な食器、それに竹細工を作る鋭い刃物だけである。出産などもきわめて手軽く、仲間の結 婚式には多数集まって宴を張る。中世の文献にみられる傀儡師と山窩とは似たものといわ れるが、山窩は関東から九州にかけて各地に居住し、東北には磐城地方を除いては存在し ない。関西の山窩は自らを「しょけんし」(世間師)または「けんし」と呼んでいる。関 東では「なでし」という。しよけんしの中には、正統の「やこ」と癩病の「らこ」とがあ る。中国から九州にかけては「おげ」という。彼らの世界では隠語が使われるが、これを 「さんしょうことば」といっている。米を「しゃり」、ムギを「くりから」、マメを「だ るま」、ダイコンを「まんす」などという。、彼らは、小法師・四つ竹・獅・田楽・猿舞 など遊芸一〇種、山守・池番・川番など労務五種を務めている。 〔参考文献〕田中勝也『サンカ研究』(翠揚社、 一九八二) (芳賀 登) 7月20日・12:30頃 原本・藤瀬はある一軒の民家にたどり着いた。 そこで、この辺りの話を聞くことができた。 峰 信好さん(嬉野町在住・大正10年生まれ)のお話。 地名の由来 〜ヌゲンタン(ぬげる谷)・ホイキイ(堀きり) (地図を見ながら)そしたら昔はですね、藩ですね。藩といえば、国ですたいね。こっち は、あの、佐賀の鍋島という国、そいから福岡のほうは黒田かなんかですね。そういう、 その国ざかいが、ちょっとこけ今、道があっですもんね、裏んほうに。これがだいたい国 ざかいですよ。(原本・藤瀬「はぁぁ」と感嘆)あの、佐賀の本藩、そいから、このへんは ひらちは、へいちのほうはハスノイケ、その国ざかいがずーっと石が、バンゴウ石ていう てですね、あの、町内いっぱいあっとですよ。そいけんが、そいから上が、ま、昔の本藩 の山ですね。それをこんどはもう明治になってから、ずっと、もう、ま、いえば、開いた しこらは自分たちで取りなさいということで、畑になったわけですね。それがずっと、こ の畑のあるばってんが、その畑が今言った“ぬげん谷”ですね。ぬげる・・・ま、いえば、 谷がくずれたっですたいね。“ぬげる”ていうばってんが。ぬげんたん・・・ぬげる谷です ね、ぬげんたん、て発音ではいうばってんが。そいから、その上が、“ほりきり”。ま、あ の、なんか、あ゙ー、昔あったんでしょうね。ほりきっとですたいね。そいけんが地名も“ほ りきり”、あの、ほいきい、ほいきい、ていうばってんが、ほりきりですね。 〜ジンノウ(じんのう) “じんのう”地区ですね。これも昔の、ま、いえば、あー、佐賀藩の本藩、で、それが 明治までずーっとそのまま、いえば、とんさんの、殿様の山ですね。それを明治になって 開いて、今はもう茶畑ですね。もう全部、茶畑に開いて。 ―――話も一段落つき、世間話を少々。出身地、大学のことなどを話す。 「ぬぁー、今日はあつか、やっぱい」 田んぼについて ――この辺は田んぼより畑のほうが多いんですね。 そうです。はい、この辺はだいたい山間地ですたいね。だから、あの、山からの出水を 利用して棚田、ああいう狭い棚田を作ってみたり、ま、あの、せいいっぱい水がありさえ すれば、田んぼを作っとるわけですたい。しかしですね、やはり、あの、どうしても、今 ダムのあっけんがよかばってんですね、その前までは、やはり、水不足で上のほうは畑と。 そいけんが茶畑になる前にはカイコさんを飼う桑畑。それを、あの、昭和10年頃からは、 もうカイコはあんまり飼わんで、茶畑になって、はい。 ――水はどこから引いてくるんですか? 水はですね、あの、今、ダムがあったでしょ、あれの、この川ですね。これは、あの、大 野原からずーっときて、そして塩田まで流れとっですもんね。そいけん、途中途中にイデ というのを、イデといえば、まぁ、水をちょっと堰いて、こんどは田んなかに、田んぼに、 はい。そいけんが、あの、だいたい、この川の水を利用した水田ですたい。今ダムのあっ けんが、もう、充分あの、よかばってんですね、昔はもう、こりゃ、争いごとやったです よ。はい、あらそい、水あらそい。しかし、もう今はそういうことはなかばってん。 ―――次の質問にいく準備がうまくいってなかったので、しばし沈黙。 「何でもよかですよ」 ありがたい一言でした。 ――1994年、平成6年は旱魃があったんですよね。 そうです。旱魃があったですね、平成6年は。水が、雨が降らんで、はい。 ――どうやって水をまかなっていたんですか? いやっ、これはこのダムのおかげでですね、もう充分用水は確保されて、そして、こんど はよその、あの杵島郡の、あの、山内町とか、まぁ武雄地区もじゃったろばってんが、だ いぶ水をあのですね、もらいにきたっですよ。自動車に、トラックにタンクを積んでです ね。そいけんがあの水不足ていうのは、もうこのダムの下はなかったですね、はい。 ――雨乞いとかはしたんですか? 雨乞いでしょ、それは昔はしよったですよ。私たちがまだ若い時には。 ――どのくらい前になりますか? えーと、そうですねぇ・・・もう、やっぱい、50年、50年あまりにならせんですか。 水乞い。それから虫追いちゅうてですね、虫を田んぼの、あの、虫ですたいね、あれを山 さん、山さんていうか、まぁ、あの、田んぼのなかちくへやって、もっていきよったです、 はい。 ――雨乞いはどんなことをやっていたんですか? その、水乞い、水乞いでしょ。 ――はい。その儀式とか。 そうですねぇ、私がだいたいまぁ、あの、昭和20年までは出とったから。ちょうど そのこちらにおる人たちがやっぱい、やいよったですたいね。そいけんが、あの、山にま ぁ神さんをまつっとですたいね。ヒコサンていうばってんが。ヒコサンのところに行って ですね、あの、こちらでいうところの、あの、フウリュウ、まぁ、あの、なんていうか・・・ 鐘とか太鼓とかたたいて。まぁ、あの、ときどき祭りあたりですっですたいねぇ。あの、 フウリュウてあの、風立ですね。風立、風立。これをやって、あの雨乞いしよったですよ、 はい。私は直接それには関係せんやったばってんですね、はい、雨乞い。それから、虫追 い、虫はあの、6月の末ごろじゃろか、あの、もう全部こちらから、あの地区の人が出て ですよ、子どもまで一緒に出て、そして、たいまつを作ってですね、そして、燃やしなが ら、ずーっと、この、夜にあの火をたくちゅうと虫のよってくっですもんね。 ――はい。 そいけん、それをずーっとですね、あの、山のほうに、虫追いちゅうてですね、しよった ですよ。そいけんが、その水乞いはその風立、ま、いえば、あの、どがんいうぎんよかろ うか、俗に、あー、普通、風立、風立てあなたたちは知らんですか? ――ふりゅう。 ふりゅう。たいがいの地区にはあるばってんね。鐘、あの、ふとか、こうふとか太鼓を たたいて、鐘は6つか7つかね、鐘。そして笛を吹いて、横笛吹いて。 ――うちの近所で祭りとかの前に練習してる人たちがいる。 あのねぇ、昔のなんはねぇ、その、風立じゃもんね、ほとんどなんでも。あの、祈願祭 にしても、そいから、完成したときの竣工祝いにしても、なんもね。風立しよった、はい。 ―――そしてまた何度目かの沈黙。必至に次の質問を選ぶ。 「なんでんよか」 ――村にいつ頃電気はきましたか?このへんに。 電気でしょ。大正3年ごろですね。だから、あー、西暦でいえば何年やろか。大正3年だ から、今から85,6年前になるかにゃ、はい。85年になっですね。 ――じゃあ、プロパンガスは? プロパンガスはですね、昭和の40年ぐらいじゃなかろうかねぇ、はい、だいたい。その 前はだいたい、あの、重油だけですね。そして重油の前には、薪、薪を使って、そして、 プロパンになって、はい。 ――あの、電気がくる前と、きた後の生活はやっぱり違うものですか? はい、そりゃあ、違うとですよ。そりゃ、あの、あなたたちは知らんじゃろか、あの、ラ ンプですね、昔は。あの、石油とか、ま、いえば、油類を、の中に、あの、ジミちゅうて ですね、芯を立てて、そして、あの、夜はそれに火をつけてですね、ランプ。または、ロ ウソクとかですね。そして、この電気が、ま、大正3年ごろからきて、あの、その当時は ですね、1つの電灯だけ、そして今でいうところの20ワット、その当時は16色光、色 光でばっかやったけんが、16色光ですよ、はい、今の20ワット、1個だけ。 ――じゃあ、他の電気器具とかは? そりゃ、全然なかですよ。 ――もう、照明のためだけの。 照明のためだけ。そして、嬉野からですね、塩田まで、あの、電車ですね。あの、あれが 約10・・・14,5年じゃろか、14,5年間ばかり走ったですね。それ以外で電気を 利用したなんかていうのは、あんまいちょっと、その当時のじゃあ、んにゃ、その当時は なかったですね。まぁ、この電気器具ていうのはですね、戦後のことですよ。昭和20年 以降、うん。それまでは、もうほとんど、電気を利用するという、洗濯機がないし、扇風 機もないしですね、はい。こりゃ、もう、ほとんど、軍事用に電気を使いよったですね、 はい。 ――はぁ。この辺の共有の山林とかはありますか? はい、共有あります。 ――どのあたりになりますか? えーっとですねぇ、(地図を見る)う〜ん、これが、このへんの山はですね少しずつ、あ っちこっち、あの、だいたいこれを部落というですもんね。部落、あの、上岩屋部落、上 岩屋ですね。そして上岩屋の次は、こんたいを大字でいえば、あの、岩屋川内ですね。し かし、小字、あの、それをわけて上岩屋ですね。そしてこちらのほうが下岩屋ですね。そ うて、あの、この部落での所有ですね、山が共有、はい。だいたい、まぁ、部落が150 個、これで、まぁ約5,6丁ですね、5,6丁ぐらい。5,6丁いうたら分からんから、 あー、千が一反だから、一万平米で一丁。それは、そいけん、5万平米ばかいもっとうで すよ、山。 ――(地図を指して)この辺の山を部落で少しずつ分ける。 そうそうそうそう。 ――ここではどの辺にあたりますか、この部落はどのあたりを? えーっとねぇ、この辺になっですよ。この辺の山ですね。小杭、小杭の上に、その辺です ね。この辺に山、これが1番高いところじゃろか? ――そうですね。 そうじゃろね。だから、まぁ、この小杭の上、ん?どこやったかな小杭は。 ――この辺ですね。 はい。これの1番高いところからですね、このへんあたりに、まぁ、少しずつ何ヶ所か、 もっとうですよ。 ――何ヶ所かあるんですか? はい。何ヶ所かあっですよ。3ヶ所か・・・共有。 ――ガス以前の燃料は? ガス以前の燃料はだいたい、まぁ、重油ですね、をちょっとだけ重油とか石炭とかばって ん。それ以前はほとんどですね、薪ですね。 ――薪はどのへんから、やっぱりこの共有からとってくるんですか? はい、そうです。共有から、あの、とってみたり、そいから、個人の山からですね、個人 の山。 ――個人の山もありますもんねぇ。 はい、個人の。今ですね、見てみれば、あの、ほとんど植林しとっですもんね。そいけん、 杉だヒノキだとこう、あぁ、例えば、それ以前はですね、やはり薪用の、もう、あの、枯 れてなくなったばってんが、松ですね。あれを植えとったですよ。はい・・・そいけんが、 年度からいえば、昭和の40年以前はだいたい、まぁ、あの、薪ですね。はい。 ――動物とかは飼っていたんですか? 動物はこの、今、機械化になって田んぼでもなんでも機械でやっでしょ、耕運機で。それ 以前の昭和30年代までは、あの、馬・牛ですね。もう必ず一戸に一頭。 ――一頭ぐらいですか。 うん。一戸に一頭、あの、牛か馬か飼って。 ――それはメスでしたか? いや、それは面々その人のすき好みに合わせて、はい、メスでもオスでも。 ――この辺に馬とか牛とかを洗ったりする場所とかは? はい、ある、あったですね、はい。 ――どのへんに? どのへんていうかですね、この川ですね、さっきの、あの、ダムから下の塩田まで。あの、 ま、いえば、川には、あの、いろんな(ことに)川ば使いよったけんですね。洗濯をして みたり、ものを洗ってみたり、だから、そういうところから馬を下ろしてですよ、下ろし てちゅうか、まぁ、あの、坂道をちょっとこう歩かせて、そして川に連れて行って、そし て、あの、川の中で洗っとったですよ。夏はもう毎日洗って、はい。 ――川が中心ですか。 川ですね。 ――隣の村とか部落に行く道とかはありますか? はい、そりゃあ、あるですよ。あの、今は町道だ県道だとか、こういうですもんね。しか し、以前はまぁ、あの、自動車の通るようなああいうふとい道じゃなくて、まぁ、三尺道 ですたい。 ――人が通るくらいの。 そうそう。まぁ、牛・馬を連れて通るぐらいの道。これをずーっと、隣村まで、そいから ずーっと村々ですね、はい。そいけん、そがんた、まだ残ってはおる。残っとっですもん ね、ほとんど。 ――どのへんになりますか?(地図を見て)この地図で分かるかな わかる、わかる。こういうその藤の川、清水、そいから、このへんになると溝口やろか、 溝口ね、そいから、こがんた、あの、小字になるばってんが、こんだぁ、吉田ていうのは なかですか。吉田とか彼杵とか、んー(地図で必至に探す3人)そういうところさんずー っと道はですね。今いうごと三尺ぐらいの道をですね、ずーっとあったですね、あるです よ。まだ残っとですよ、はい。 ――村の神様や祭りは一年を通してどんなものがあったんですか? あー、行事が、あの、だいたいこのお宮がでけたという、この起源ですね。これはあの、 江戸時代にですね、各、あの、藩主、まぁ、佐賀でいえば鍋島、そいから黒田、この藩主 がですね、戦争に祈願するためにだいたい作っとですよ。しかし、それ以前にまぁ、ギオ ン様ていうじゃろか、まぁ、いろんなことをお願いに参りよったわけですね、その土地の 人たちが、そのあとにですね、そして、きしっと、その、鳥居を建てて、そして社殿を作 ってしたのが江戸時代ですね。これは、あの戦争、昔は戦争ばかいがんしよったでしょう が、祈願、戦争の祈願のために、まぁ、あの、大名、まぁ、佐賀でいえば、佐賀の鍋島の あれですね。そがんしとっですよ、はい。 ――行事は? 行事はですねぇ、まぁ、あの、農業に関しては、あの、田を植えるでしょ、そしたら豊作 でありますようにということで、なんていうかにゃ、あー・・・(思い出し中)・・・まぁ、 いえば願掛けですもんね。そいけん秋が願成就ていうですもんね、秋の収穫が。 ――願いが成就したという。 うん。秋がですね。そいけん田を植えたときが、あー、なんていうたかな・・・(隣の部 屋の奥さんに尋ねる「田植えのすんでからの、あの、なんじゃろか、あい、なんていうじ ゃろか」奥さん「タキトウ」)タキトウ、タキトウ。 ――タキトウ。 うん。タキトウていうてね、田の祈祷、田を祈る。(祷の字が書けない2人のため調べよ うとしてくれる)田祈祷ていうですもんね。ちょっと忘れたもんね、もう、はは(笑)田 祈祷と願成就ですね。そして、その間にですね、まぁ今さっきあなたたちが言うた、まぁ、 雨が降るようにと水乞いですね。それから風が吹かんように、あの、9月の初め、んにゃ、 初めになっかにゃ、終わり・・・初めじゃろ、9月、210日、210日ねぇ。これは風 を鎮めるためのお願いですたいね、はい。それから、だいたいまぁ昔からのなんはそのく らいじゃなかですか、はい。 ――参加する人は、この地域の人は全員参加ですか? みんなですね。氏神、氏子ていうですか、氏子ですね、もう、あの、だいたいこれは、ほ んとからいえば、その人が、まぁ、なんていうか、望んで、望むというと、まぁ、お参り して氏子になるわけばってんが、もう昔からの習慣上ですね、ほとんどもう、一戸、戸主 がそこになんするわけですね。ええ、昔そのままですよ。今ほんとからいえば、もう、そ の人その人のね、この、まぁ、信心だからすっとばってんが、しかし、習慣上もう全部、 全戸ですよ、全戸。うーん、氏子になっとうわけですね。そいけんが年間いくらばかいに なるかな、やいよっですよ、お金を、納めよっとですよ。はい、維持費、維持管理費を。 ―――ここでまた沈黙。質問の準備をしていないとこうなってしまいます。 ――昔、テレビも映画もなかった時代は若者は何をしていたんですか? ん、若いもんはですね、だいたい、まぁ、あの、この風立ですね。こういう暇なときに は、もう、クラブに集まってですね。 ――クラブ? はい、あの、青年クラブていうばってんが。クラブに集まって、もう、風立ですよ。他 になんかというのは、まぁ、1つ言えば、部落で、あの、お観音様をまつってみたり、そ いから、ま、お宮の行事とかなんとかの、に行って、まぁ、ほとんど風立をしよったです たいねぇ。 ――昼も夜もですか? はい、昼も夜も。もう、あの、田植えがすんだら、もう、あとはですね、一週間ぐらい 帰らんでクラブに泊まりこんで。風立、もう風立だけですよ。 ――他には? 他にはですね、まぁ、あの、昔のあの、今でいうなんじゃろうか、サイモンカタイちゅ うていいよったとばってんねぇ。サイモン、サイモンカタイさんちゅうて、そして、ゴゼ さんとかね。ゴゼ、ゴゼさんていうのは、あなたたちは知っとんさーやろうか・・・三味 線弾いてみたり、琵琶を、あれは肥後琵琶、なんていうやろうか、琵琶たいね、ちょっと ふとかとの。あれを弾いてあれしてみたり、そういう人たちを呼んで、あの、夜に、まぁ、 楽しんでみたり。ええ、そいけんが、このへんで、昔から、まぁ、その、若い人の楽しみ ていうのは、その、風立ですたいね、うん。 ――それは男の人ですか? そうそう、だいたい男ですもんね。そいけんが女の人の楽しみていうのは、まぁ、今言 うた、ゴゼさんとか、あの、琵琶弾いたり、そいから、あの、なんやったかなぁ、まぁ、 あの、かどかどをまわったですね、尺八を吹いている、あの、コモ僧、コモ僧ていうたろ うて思う。が、かどかどをまわって、そして、えー、聴いて、そして、あの、もうすんだ ら、こんだぁ、あの、なんていうか、茶碗、まぁ、いう、茶碗一杯米をやってですね、は い、お礼に。かどかどは、あの、昔は、まぁ、あの、あなたたちは知っとんさーやろうか、 あの、あれ、物乞い。私たちは、あの、ゼンモン、ゼンモンちゅうてね。こりゃ、ゼンモ ンていうのは、禅宗のこの禅ともんじゃろばってん、まぁ、あの、そがん人たちを全部ひ っくるめて、ゼンモンていいよったですもん。ゼンモン、乞食ですたいね。今もう全然な か、おらんばってんが、あれたちがずっと、かどかどまわってですね、そして、今言うた、 まぁ、あの、三味線とか琵琶とか、そいから、あー、尺八を吹いてみたりしてまわいよっ たですよ、はい・・・今は福祉、福祉が発達しとるから、そういうもんはおらんばってん ですね。そいから、いろいろ、あの、昔はまだ他に、えー、なんていうじゃろうか、えー、 部落たいねぇ。あの、部落。あれはヒニンだ、さぁなんだていうて、家は持たんで住所、 あの、住所も決めんでね、ずーっと、あの川端に、あの、竹がおいとってね、川端、あが んところにね、住んでさ。そして、あの、農機具の、あの、私たちは“ミ”ていうばって んが、ものをこう、風力で、あの、ゴミを捨てっ、あがんすっもんね。“ミ”ていうばって ん、あがんととか、そいから、この、ジンパチとか蓑、こうものを作ってね、そして、売 りに来よったよ。 ――はぁ。(何か得るものがあったらしい) もう不定住、定住してない人間ね。あの、ヒニン、昔はヒニンていいよったばってんが、 ええ、そがんとがおって、それはやっぱい、昭和の、終戦までやったね。終戦前はちょい ちょい、そがんとのおったばってんが、終戦後はもう、あんまいおらんごとなった、はい。 ――青年クラブというのはこの村、地区の人だけですか? そうそう、地区のやっぱい、4,50戸に1ヶ所ぐらい作ってね、50戸に1ヶ所ばか い作って、そして、これは、あの、あれ、ええー、15歳ですか、小学校卒業、それから、 まぁ、あの、結婚するまでですね、22,3ぐらいまで。これは、あの、必ず、そこに、 あの、泊まってですね、そのクラブに、そして、いろんな、あの、教育ていうか、んー、 教育じゃろうね。先輩からの教育を受けながら、はい。そしてさっき言うた風立をしてみ たり、はい、いろんな、あの、まぁ、今でいう、しつけこれあたりを厳格にやおよったで すよ、はい。 ――隣の地区の青年クラブに行ったりとかはしたんですか? んー、その交流は、まぁ、年に1,2回はなんかしよったかもしれんばってんがですね ぇ。それはあんまい聞かんごたったですね。私はもうおらんやったから、それには入っと らんばってんですねぇ。えー、他地区とのあがんとはなんも、あんまい知らん、話聞かん ですね、うん。 ―――この日最後の沈黙。つくづく準備はしておかないといけないと思いました。効率よ く進めるなら準備に妥協は許されません。 ――村が今まで変わってきたと思うんですよ。 はい、変わってきとっです。 ――これからはどうなっていくのか、そして農業のことも。 はいはい、そう、これが問題ですたいね。この日本はだいたい、まぁ、あの、島国でしょ。 せまかですねぇ。中央には山がこうそびえて、そいけん、山間地が多かですもん。しかし、 外国はもう、なんていうか、何千丁でもねぇ、何ヘクタールでも、こう平面。そいけんが、 今国際化、この国際化がある以前はですね、充分この農業の所得でよかったばってんが、 今国際化でもう、米あたいも輸入するのは、や〜すかもんねぇ。3分の1か4分の1か。 この国際化をこう言わるっごとなってからですねぇ、もう農業の所得というのも、あの、 なかなか厳しゅうなって、ええ、あの、今までこのへんも、あの、ほとんどの人が百姓で しよったとの、もう百姓をやめて、そいけんが、今からですねぇ、なお、あの、もう、3 分の1。今の100戸このへんが150戸あって、100戸ばかりが農家ばってんが、3 分の1ですね、さじっこ、このくらいにまで減ってですよ。そして、えー、今まで、うー ん、どがんいいよったろうか、2丁つくいよったのが10丁ぐらい作ってですね、そうせ んちゅうと、あの、生活がでけんごとなっとうですよ。だから、あの、これを維持してい くためには、やはり政府行政として、も少しこう魅力あるような援助というか、これを、 これをせんちゅうことには、続かんですね、はい。もう3分の1になっですよ。はいはい。 今もう、さぁ農薬だ、肥料だ、そいから機械だ、こういうもんをしよればですね、まぁ、 収入はだいぶあっても、にしても残るところはもう、わずかな、ええ、そいけん、この国 際化があんまい、こう、これ以上なんせんちゅうとよかばってんねぇ。なんでも、もう、 工業製品でもなんでも、そうなってくごと、農業のなんもそがんなってくですよ、はい。 そいけんが、まだ、あの、半分以下、3分の1になっですね・・・そいけん、その他のも のは、やはり、どっかに勤めに行ってると、はい。 ―――こうして無事、話を聞くことができた。 interviewed by 原本&藤瀬 <しこ名について> 1件のお家では、教えてもらえたが、他の家では「田一枚一枚にか?そがんとなか」 といわれた。では、どのようにして判別しているのかと尋ねたところ、「〜古賀の〜さん とこ」というふうに、表現しているとおっしゃった。 今回聞くことのできたしこ名 ・ トドロキバル(轟ばる) ・ チャーバル、タバル <シュウジ・古賀の名前> シュウジと言わず、古賀と呼んでいた。古賀の位置と名前は現在の小字(地図参照)とほ とんど一致していた。 今回聞くことのできた古賀 ・ コダケ ・ スミダ ・ ヒマブイ(日守) ・ イデグチ(井手口) ・ カクイ(加杭) ・ イワサキ(岩崎) ・ イカレシ、イカリイシ(碇石) ・ ジンノウ ・ ヨシダ(吉田) ・ ソノギ(彼杵) <水利について> 岩屋川内川を水源として、“イデ”をつくって、水をせき止めて、自分で作った用水路 から田に水を引き入れていた。現在は、岩屋川内ダムのおかげで水に困ったことはない と言う。ダムがなかったころは、水争いが起こっていた。 <旱魃について> 1994年の旱魃は、ダムのおかげで用水には困らなかったとのこと。逆に他の地区が水 を取りに来ることがあったらしい。 <水乞いについて> 水乞いは50年ほど前まで行われていたらしい。内容としては、山に祭ってある“ヒ コサン”と呼ばれる神様のところへ行き、風立(ふうりゅう)をしていた。風立とは、鐘、 太鼓、笛などの楽器を演奏することである。余談だが、この風立は何かしら祝い事など があるたびに行われていたそうだ。 <虫追いについて> 虫が光に集まる性質を利用して、夜、たいまつを持って山に入ることで、虫を山へ追 いやった。6月末頃に行われ、地区の全員参加の行事であった。 <村の発達について> 村に電気が来たのは、大正3年、1915年ごろのことであった。当時は、そもそも電化 製品がなく、一家に電灯一つという、純粋に照明のためのものであった。電気が来る前 の照明としては、ランプやろうそくが使われていた。 プロパンガスが利用されるようになったのは、昭和40年ごろからである。プロパンガ スが用いられるようになる以前は、主に重油が使われており、それ以前は薪であった。 この薪は、個人の、もしくは地区共有の山から調達していた。 <共有の山林について> 地区共有の山林はあったらしい。5、6丁(約5万平米)ほどの山林の土地を150の地区 で分けて所有していた。一位区が所有する山林は3ヶ所ほどあったと。 <村の動物について> 動物は昭和30年代まで一家に一頭飼われていた。そのオス・メスはその家の好み…ら しい。それらを洗うところは主に岩屋川内川であった。生活の中で使われている、川へ 降りる坂から動物を下ろし、夏などは毎日のように洗っていた。 <祭について> お祭りは主なものとして、田植えの後の“田祈祷”、9月上旬(210日)に風を鎮める祭 り、そして収穫後の“願成就”がある。また、水乞いが田祈祷と風を鎮める祭のあいだ に行われた。 祭は全ての家が氏子(うじこ)であり、地区全員参加であった。 <昔の若者について> 昔の青年たちは主に風立をして楽しんでいた。ほかには、地区の観音様をまつったり、 お宮の行事に参加したりして過ごした。農作業が終わると一週間ぐらい青年クラブで風 立をして過ごしていたらしい。また、“サイモンカタイ”や“ゴゼサン”と呼ばれる三味 線や琵琶などを弾く人たちを呼ぶこともあった。 青年クラブは地区の4,50戸に一ヶ所ほど作られており、15才から22,3才の男子が参 加していた。このクラブの中で先輩から後輩へと教育が行われていた。クラブ同士の交 流というものはあまりなく、あっても年に1,2回のことであったそうだ。 一方、女性は家々をまわる禅門(元々は禅宗の虚無僧を指していたらしい)の三味線など の演奏を聞いて楽しんでいた。 <村のこれからについて> 国際化に伴い安価な米が輸入されるようになり、これまでのように所得を農業だけに 頼るのでは生活が困難になってきている。国際化が叫ばれるようになって、すでに農家 は1/3にまで減ったという。今残っている農家は耕作する田を5倍ほどに広げることで 対処しているが、この先、より国際化がすすむとなると、当然維持していくことは不可 能になる。これを維持するためには行政がこの現実にきちんと対処する以外にない。 <まとめと感想> 最も重要であるはずのしこ名の調査がうまくいかなかったのが残念だ。我々の尋ね方 の甘さと、加杭に田そのものが少なく、下流の井手口や轟のほうに田を作っている家が 多かったことが原因であるように思える。 今回の調査で強く感じたことは、岩屋川内川が加杭の人たちの生活になくてはならな いものであるということだ。生活用水として、農業用水として、また洗濯をしたり動物 を洗うのにも使われていた。岩屋川内川は加杭の歴史と深く結びついている。 |