★ 一日の行動 9時15分 出発 11時40分 バス下車 (その後、神社で昼食をとり、聞き取りの準備および付近の散策) 12時30分 待ち合わせ場所の山本川内公民館へ 12時35分 区長さんの車で集落センターへ 13時 上不動地区の方が7,8人来られて、お話を伺う (各地域に別れてお話を伺いました。) 16時 バス乗車 18時 学校到着 ★ 伺ったお話から 〈しこな〉 しこなを聞き取り、さらにそれを地図に落として いくという作業は思っていた以上に困難を要した。私たちの方では、なんとか一つでも多くのしこ名を聞き出したいと考えていた。話者の方々にとってしこ名はあまりに日常生活に溶け込んでしまっているものでなぜ私たちがそれに執拗にこだわってくるのか理解できない部分があったと思う。相互の意識のずれが障害となった観がある。そこで私たちしこ名を聞きだす意図というものを上手く伝えることができればよかったのだが、いまいちそれも上手く相手方には伝わらず、、結局しこ名を聞き出すという課題は十分とは言えない状態で終わってしまったように思う。 字地番とは別に呼び名はある。町の字とは違い、〜のどこどこという自分たちなりの呼び名は存在する。例えば「コナコウ(小中尾)」や「マエダ(前田)」などがあった。「前田」の「ミチゼマチ」や「ミゾゼマチ」などのように、道の側の場合には「ミチゼマチ」、溝の側の場合には「ミゾゼマチ」といったような言い方をした。この地域にはキリシタン、焼き物、お茶に関する史跡が多く、それらに由来した字も多い。「コヤシキ」、「コスケダニ」「ノゾエ」という地名がそうである。 「コスケダニ」現在では、「幸助谷」という漢字をあてているが元々は「子捨谷」という漢字をあてていた。昔、キリシタンがキリスト教弾圧から逃げる際、どうしても子供を連れて逃げることができず、やむを得ずそこに置き去りにしていったことからそのように名づけられたようだ。そして、「野添」という所から捨てた子供(子捨谷)を覗いていたことから「ノゾエダニ」となったらしい。 「コヤシキ」では子を寄せて守り、宗教的なことが行われた。保育所、託児所でもあり、勉強させたりする所でもあった。 「子捨谷」という字は、あまりよくないということで変えられ今では、「幸助谷」とかく。同様に、他の地名でも字が変わったところは多い。今は「ナカクラ山(中蔵)」と呼ばれる山も、昔は「ナキガクラ山」と呼ばれていた。‘蔵’が無くなって泣くということである。また、木に含まれる水分が多く、木が湿気っていて、炭焼き屋さんが泣かされていたとも言われている。 馬場のしこなに山口というのがある。下から馬で上がってきて、馬を馬場においていた。山口という所から、山が厳しくなっていた。 ※「田んなかはね、ふとかとはね、『ウウゼマ』ちって言うってかっさ、こまあんかつは、『コウゼマ』ちって」 「田んぼの呼び名はあっとよ。私の田んぼではね、あそこの、なんのかんのっていうのはあるばってんが、字地番とは別でさ、私たちなりの呼び名はあっとよ。」 <村の動物> 牛は一戸に一頭いた。馬(牛?)力があることから飼われていたのはオスばかりであった。やはり、オスとメスとでは、かなり気質が異なるようである。牛は各戸の納屋で飼われ、死んだ場合には山中に埋葬された。何百キロの巨体を運ぶのも一苦労であった。当時の生活に牛は欠かせないもので、牛を持っていない家庭はないほどであったが、農業の規模により、飼っている牛の大小は様々であった。牛は農業と運搬に用いられた。 牛の他にニワトリも、床の下で飼われており、盆、正月の祝い事の時に食された。 <長崎県波佐見町との経済交流> 長崎県波佐見町と交流があり、薪に米やその他の食料を牛に積んで運搬していた。もちろんその時、人も荷物を背負っていた。波佐見の窯元にも炭、薪を収めていて、それが経済的基盤でもあり、当時の農村を支えていた。波佐見に行くには桃の木峠を越えていった。道のりは山道で地元の人だから迷わずいけるものの、よそ者が行くときには迷うこともあった。一日の農作業で朝暗いうちに出発し、お得意さんを回って、その日のうちに帰るという日帰りであった。佐賀の他の町に比べると長崎県波佐見町との交流の方がより深かった。 現在では、物々交換などの交流はなくなったが、人的交流は続いている。林道ができ、自動車の往来が可能になった。 <村の発達> 電気は大正10年ぐらいに流れはじめて、電灯がとりつけられた。それまでは、ランプが用いられた。ガスが通るようになったのは、電気よりもおそく、戦後のことで、昭和30年〜40年代のことであった。釜焼きさんでも薪であった燃料がガスにとってかわられ、薪がいらなくなっていった。長崎の波座見ゴウに薪や米、食料を運ぶことによって支えられていた生活も次第に嬉茶の生産のよって支えられていく部分が大きくなっていった。かやぶき屋根が瓦にかわったのは、昭和35年くらいである。 <村の水利> 水は自然の山の水を利用。その年々で雨年であったり、旱魃の年であったりしたが、自然災害には、どうにも抵抗しえなかった。普通は大体平年並みの収穫はできるように、「シオワラ」なるものをしていた。かねがね手入れをしているので、極端な不作になることはなかった。 昨年は雨年であったが、今年は旱魃になりそうである。自然は気まぐれで予想することが難しくいので、自然に対してどうこう抵抗するよりは、「今年は不作だったのう、豊作だったのう。」と話して済ませる程度であった。ここ数年では、1994年の旱魃が最も目立った旱魃であったが、3,4割の減収程度に留まった。 最近では、若い世代が企業に勤めて、農業と全く別枠の収入があるため、不作せであっても、そちらで補うようのことを今では少しは可能なようである。 幸いなことに、今までにはそれほど深刻な旱魃になったことはなかった。山の木がしっかりしているため、地下水が豊富なことが重要な要因のようである。終戦後の伐採で、山を切った後は、水不足であった。今はこれだけ木が成長したので、自家用水の水でもほとんど干上がることはない。 ほとんど、この部落は簡易水道を持っていて、昔は井戸もあった。簡易水道は町のもあり、部落自体の飲料水を引いた水もあった。(カキミズ) 昔から、部落で取り決めた定款があった。ここの井出はどこどこの川から出ていて、水田の持分で、みんなで管理していた。境界がはっきりしていて、水利権が違っていた。水利権というのは普通谷で分かれていた。 水利に関してはかなり丁寧に説明してくださった。ただ、佐賀弁が私にとっては結構わかりにくかったことと、知らない単語が所々のでてきたことがあって、話してくださったこと全てを理解するというわにはいかなかった。 ※「三月の年度末にはカケサク負担金っていうとのくるわけ。カケサク負担金ちゅうとはね、田の持分でおったんっが田は、サンタン、おったんっが田は、ゴタンって水利権ばとらっるわけ。大体年間、下の部落の人が作業したり、なんしたりした、作業金となんとん計算して最終的にあがったとば、田ん別にひっかけて、『いただきまーす。』っていうてから、とらすわけたい。そいぎと、カケサク負担金っていうとたい。」 「みんなね、うちのばあちゃんたちも、貧しかったけんが、奉公ちゅうてから、昔は奉公にいきよらした。余計に持った地主さんなんかにね。」 <入り会い山について> 部落で、あちこちもっとんさっと。昔から。(春好さん) (管理は?)部落で皆出てしよると。今は太くなっとっけんね、毎年する必要はなかもんね。(大きくなるまで)十年あまりがちょっと、そんくらいまでが手の入るけん。(今は)3年越し、4年越しなっと。(弘さん) <お米について> 組合長あたりが、部落ば把握しとっけんねぇ。あのー、山本川内の耕地がどのくらいで、だいたい収穫がいくらっていうことは、農協に行くと、じきわかりやすかもんね。 (保存は?)昔は我が家にね、あのー、それぞれ保存しよったった。食うとば、だいたい一年に一石二斗二十三合というのが割り当てやったもん、一人前。戦後はね。30年くらい前は、そがん食べよったと。 (それぞれの家に米蔵はあったのか?)米蔵はまぁ、だいたいその蔵っちいうとは無かろーたい。だいたいあの、保存するとは保存しよったよ、俵でね。(春好さん) 昔は俵やったけど、今はカンブクロにいれて、こがん。3俵でいくら・・・(弘さん) 今はほとんどが食べんもんね。(春好さん) 80キロ、90キロぐらいかね、一人でね。私どもは今、二人で年間で60キロぐらい、そげん食べんもんじゃけんね。保存すっとも少のうてよか。(弘さん) (種もみは?)これは人によってちがうでしょ、私どもは乾燥させてから、袋に入れて庭先の梁のところにつりさげとく、これが一番よかもん。ねずみが来るけん。(弘さん) あのー、種もみはねずみの好物やもんね。(春好さん) そして撒くときは竹釣竿で下ろして使う、これが一番安全で確実。(弘さん) (50年前もお米が主食?他は?)昔は、あのう、強制出荷ちゅうごたっ風で、強制的に割り当てて出荷せんばやったけんね。もう、我が家でけんとでも、食うとこなかっても出さんばやったけんね。やっぱ、無理なやり方やったったい。今は、飽食時代けん、何でもあまっとっけんよかけど、昔はもう・・・。(春好さん) 我が家食うとがなかっても出さんばやったったい。(弘さん) そういうときは、今の近代農業じゃなかけん、タンシュウもすくなかったったい。昔は・・・、 今は100キロ、一反に10俵ぐらいになった。昔は、6俵か、7俵しか取れんやったと。 あのー、肥料とか、色々の関係でね。そういう時代、乗り越え取るけんね。あのー、米のありがたみとか、昔の人しかなかなかわからんとたい。(春好さん) (お米が無いときは?)そりゃあもう、何でも食べよったと。食べれるもんはね。団子汁とか芋んことか、あれもまたうまかったった・・・。(春好さん) 鯨とかも・・・。(弘さん) (麦は?)裏作は麦やったと。そして、カラシも作りよったね、菜種。山間部はね、どうしてもあのう、冬は早よ冷え込んだりするけんね、割にタイシツのあがらんけんね。 <お祭り> お茶ん祭りはやっぱ、あのう、一番ムードが出る。春先が一番祭りがある。お茶ん祭り、こ れは、町長さんたちも、皆来て県議もきて。そいから、夏祭り、ここで、わっかもんたちの集まって、 それから、神さん祭り・・・(秋ですか?)んにゃあ、春、田ば植えてから、神さんにね、そん ときも・・・(田の神さんの祭りの時も)皆よー来て、ここ上不動部落で、そして、神主さんよ んでね、そして、あのう、神主さんからいただいたお礼を田の隅に立ててね、そして、そいが、 夏祭りは子供でも集まってね。これはわっかもん主催でここで・・・(不動ですか?)そう、こ こが会場。(注:集落センターのこと、ここでお話を伺いました。)そして、なんやかんや催し て、カラオケとかね。そして、他んとこからも若いもんが来さっと。お茶ん祭りは、(吉村)新兵衛さん(注:嬉野でお茶作りをはじめた人)の記念碑のところで、皿屋谷の方で・・・(春好さん) <テレビとかが無い時代の若者は?> よう聞いた(一同笑)。昔はね、ほんとね、あの各地区のクラブっちゅうとのあったね、泊まっとこんのね。(春好さん) 所によっては、わっかもん宿って言うとよ。そこで、悪い事ばかりしよったと。(弘さん) ヨバイばしよったと(一同笑)んにゃんにゃ冗談よ。何もなかもんじゃけん、なんやかんや、わっかもんなりの色々な事を話したりなんたしよったなんのね。そりゃぁ、昔の事やけん、今ごと、テレビやなんもなかもんじゃけん、腕相撲どんしたり、何やかんやして遊びよったった。あまりそげんして、なごーおるもんじゃっけん、ほら、親なかが「ほらー、なんしよっか、はよー」っちゅって迎えに来たりなったった。(春好さん) (力石とかは?)力石はあった。皆、若いもんでしよったと。そして夜中、柿ばアマホシガキばちぎりや行ったりなんたりしよったと。(春好さん) ほんなこと、そんな悪さもしよったと。(弘さん) 皆、歩いてねぇ、嬉野まで下りよったっさ。学校のねぇ。(春好さん) 自転車のはやったとが、わしどんが今の中学のときぐらいなってからじゃった。・・・「早く帰って来いよ」と(親から)言われとったが、あすこの柿の熟れと、ほんな見にいこかって言いながら(笑)・・・悪さばっかりしよった。(弘さん) (学校はどの辺にあったか?)嬉野ね、中学校は嬉野やった。(春好さん) 小学校は中不動やった。(弘さん) そう中不動、ここが分校(注:狩立分校があったところが集落センターになっている。)で、四年までやったかの。(春好さん) (昔の人の結婚とかは、部落の人どうしが多かったのか?) うん、そうそう。(春好さん)他のところからくる結婚はなかなか。(弘さん)昔はね、青年団のわっかもんの仲間でつき き合うて結婚しよったった。じいちゃん、ばあちゃんも「わいとしごろやも、もう持たんばぞ」っていわれてね、そうして「あいがよか、こいがよかじゃ」いいてね、親戚つながりでね、血族結婚ではあったよ。確かに。ずーっとしていきよったけんね。今は血族結婚は全然でけんごとなったでしょ。そいきん、やっぱ、また勤め方おーなったけんね、そういう事でね、現実は、あの、まだぁどうなろうかなぁって思うてね。むかしはねぇ、もう親たちが決めてね、「わいは持たんばぞ」言うて、お互いが決めて結婚しょった。今は全然そがんことはなか。(春好さん) なんかちょっとでもお付き合いしよるとの、あれはあそこの娘とどーしたの、こーしたのいうてね、今とはぜんぜん逆ね。(弘さん) そして、おいどんが時代は、ほら、戦後やったでの、30年代での、ほら25ぐらいで「もう、はよー持たんば遅なるよ」いうくらいの時代やったですたい。ほんと、もう25ちゅうとね、ほんと、はよー持たんば、持たんばいう時代やった。(春好さん) 自分の老後がかかってくるけんの、わっかときゃ自分の事ばかりでよかけどね。年取ってからが大事。(弘さん) (クラブの規律は?)やっぱ会則はどこの青年会にもあったと。会則っちゅうとは、あのう、通常の決まりちゅうと、ほら、時間を守れ、何を守れ、こういうことすっとはなんぞっていうて、そういう昔の決まりね、その決まりはあったたいの。その決まりを破ったけん、どうのこうのっちゅうとは別に無かった。そういうのは、そんなことすんなよっていう教えだけで、あの特別、その公のことではなか、部落のことやけん、あの、そがんまできめられん。(春好さん) 拘束されん。(弘さん) (他の村との交流は?立ち入らせないようにとかは?)他の村との交流はしよったと。皆。その、なんちゅうか、あの、今の差別とかああいうのはなかった。ここの農村は。(春好さん) 今でもよくあるっちゅうけんど、どうしてそがんことのあるのかなって、こっちはおもうくらいで・・・そういうことはなかったね。山ん中じゃけんなかったのかんしらんけど。(弘さん) 農村ちゅうとは、屁ふったとでんわかるごと、隣り同志が親戚のつながり皆がね。そいけん、悪かこったされんとたーね。あれはあーしたこーしたって地域で評判になるわけ。今、都会の人は隣りの人がなんばしよりかわからんっちいうけんのう。何の仕事しんさいど、なんしよるかわからっちね。(私たちは)隣りん家も隅から隅までしっとけんのう。(笑い)そいうことが、また反面よかとこかしらんけどねー。そいけん、絶対ね、農村は都会のごた話のはならんわけたい。(春好さん) 〈農村の今とこれから〉 今ねえ、おいどんは、ちょっと思うよ。親は一生懸命子供を育てるでっちゃ、苦労してきたーて、挙げ句は子供は・・・親はなんてんいわれんね。農村の山村のよかとこっちゅうことは、こんなの近所付き合いというのは大切にするでっちゃ、そいうことですたい。もって、もたれて・・・。子供たちが長崎とか佐世保とかにいっとおけど、都会の人は目の色から違う、なんかとがっとうもんね、ギラギラして。もう、眼差しが真剣かもんのう。なんば考えとるとかねえ・・・。(笑)ほうて、農村はほーってしとるけんね。 そいけんあの、近代化、高度成長っちいうて、すべてがもう・・・、なんかほら、おのずとなんかやっぱ、現金収入 ば上げんばっちいうてね。いやあ、おいどんも、まだ孫がどげんいくかいのう・・・。もう、百姓はおいきりでよかた ていいたくなる。でも、そがんじゃろ、今、なんば求むっかっちいうと、ほんと子供の成長ば、ちょっといっちょ考えん ばならんし、子供の就職を考えんばならん時代にあーし、孫にもなんぎ・・・もう今リストラばっかいでしょ。もう、今 嬉野町でもわっか人もおおくないとじゃなかー。就職率も悪かろうしね、どがんなろうかね。そして、あんま頭ばっか栄、 よーなって、人間もいらんようになって、コンピューター時代になって、まちっとやっぱ労働にふさわしい人間のよいごと せんきさあ・・・、どんこんならんとじゃなかあ。そいけんだんだん孫時代の就職になると・・・にゃあ、おいどんもその 時代、生きとるかわからけんのう。(春好さん) そいけん、あと20年したらどうなるか・・・。(弘さん) 「百聞は一見にしかず」って、聞くって言うか、やっぱり、こうやって、現地を確認することは一番じゃーけん、現地の人 と話して、知るってことが大切・・・。(春好さん) |