私たちの行動記録 私たちは九州大学六本松地区の正門に午前9時に集合、出発した。今から行く嬉野町がどのようなところか、期待に胸膨らませていた。 バスは午前11時頃に嬉野町に着いた。バスに乗っていて目にしたのが多くのお茶の看板。私たちは嬉野町がお茶の名産地であることを知らなかった(現地の方すみません)。バスは調査員を次々と下ろしていった。私たちは牛ノ岳を調査することになっており、一番後にバスを降りることになっていた。最後ということで、次々と降りる現地調査の仲間達を見送りながら少し不安であった。 そして、バスからおろされると、そこはかなりの山奥であった。嬉野市街とは打って変わって周りには山、山。バスも上がれないところだったので、私たちは徒歩で上がった。約束の1時までかなりの時間があると思い、日陰で休んでいた。するとある男性がこちらにやってきた。その男性は、これから訪問しようとしていた北野徳浩さんであった。少し早かったのだが、お宅にお邪魔させてもらい、よく冷えたおいしい嬉野茶などをいただきながら、お話を聞くこととなった。 私たちは北野さんのお家で少し話を聞いた後、軽トラの後ろに乗せてもらって上不動地区の集落センターまで行った。そこには上不動地区の方々が集まっておりとても温かい雰囲気の中いろいろなお話を聞くことができた。その中でもお茶とキリシタン討伐のお話を熱心にしてくださったので、そのことについても報告しようと思う。 調査報告 ●村の水利について 牛ノ岳は嬉野町の山間、長崎県との県境に近い場所に位置し、標高もかなり高い。そのため、水田は平野に比べかなり少ない。そのため、少ない水で対応できる。その水は山から引いている。飲み水についても、水道管は一応来てはいるが、山水を利用しているそうだ。山水を山林にあるタンクに貯め、家にそれを引き、さらにそこでろ過をする。雨の日などでは多少にごるらしい。そのため、水にはそんなに困っていないそうだ。 ● 1994年の早魃 この早魃では、牛ノ岳でも被害を受けた。飲み水は確保できたが、田の収穫はかなり減った。上不動地区より下の地区には水があったため、困ったときには下の地区に行った。 ● 村の耕地 牛ノ岳は標高が高いため、他の地区に比べ全体的に収穫が少ない。昔は化学肥料が無かったため、人糞を使用していた。今でもその方法は利用されている。 また、田には保障制度があり、田の大きさで掛け金が異なっている。 ● 耕作にともなう慣行 農薬のない時代、牛ノ岳の地域も菜種油を使っていた。菜種の油の皮膜で防虫できたという。農薬を使い始めたのは終戦後から。それまではこの方法で耕作してきたそうだ。 手間返しというのはなく、牛ノ岳地区の各家庭には牛が1頭ずつおり、その牛を使って田を耕していた。私たちが訪れた北野さん宅は30年前まで飼っていたそうだ。牛の子供を売ったりもしていたそうだ。 ● 村の発達 牛ノ岳地区はかなり山奥に位置するが、電気は大正2年に通電。プロパンガスは昭和35年に来た。これらが来る前の生活は、薪での火起こしによって家事などしていた。薪などは、近くの山林で伐採し、使っていた。 ● 米の保存 米は30kg袋に入れて納屋に保管。家庭の食料分は保管しておいて、あとは売るらしい。田が小さく収穫も少ないため、刈り取ったら地区共同で農協に乾燥のため出荷する。一回農協に売り、そして家庭の食料分をまた農協から買い取る方式である。 50年前は、米と麦を一緒に炊いていたそうだ。粟は餅にして食べていたらしい。 ●村の道 昔の道と今の道は、道筋は大して変わってない。今では舗装などされて道は良くなっている。昔は牛ノ岳の奥に長崎県と結ぶ道があり、長崎県側の地区と物資交換や嫁ぎ等の関係があったそうだ。陶器に利用する薪と米や野菜などを交換したらしい。去年そのルートに林道ができるまでは、歩いて県境を越えていたらしく、今では便利がよくなったとおっしゃっていた。 ● 祭りごと 地区ごとに田の成長を祈って、祭りをしている。牛ノ岳は上不動地区の一つであり、六月に稲の束を植えて観音様を祝う祭りごとをしている。これは、昔から伝統的に行っているもので「田祈祷」と言われている。 ● 昔の若者 テレビも無かった時代、若者は各部落、「青年クラブ」というところに集まった。その青年クラブでの集会は終戦直後からあり、農道会と呼ばれ、若者が作るチームのようなものである。農業の事を話していたことからその名前がついたが、今では農業のことだけではなく、交流の場となっている。その農道会のとき、泥棒というわけではないが、近くの畑から野菜などを取って食べるなどということを当たり前のように行っていた。これらは公認されていたらしい。よその村の若者が遊びにくるということはあまり無く、同じ地区のものだけで遊ぶことが多かった。 男女が知り合うきっかけとして、近所の人ということ以外に、牛ノ岳は県境に近く、長崎の村と交流があったので、そこからお嫁さんをもらっていたりもした。そして、茶摘のときに白石(有明海のほうをこう呼んでいたらしい)から女の子に手伝いに来てもらい、田植えの時には逆にこっちから白石に手伝いに行き、その時に出会いもあったりしたそうだ。 ● 村のこれから 一番の課題は後継者問題である。 若者はいったん町へ出ると、帰ってこなくなる。牛ノ岳ではそれほど大きい農業をしているわけでもないので、このような小さい農業はなくなるだろうとおっしゃっていた。実際、昔15件あった家は8件にまで少なくなり、この問題があらわになっている。牛ノ岳では、農業は小規模だがお茶は盛んであり、嬉野町のお茶の水準も高いため、これからもお茶が主な原動力となるであろう。 ● キリシタン討伐 上不動地区にはキリシタン討伐の史跡が数多くあり、県も調査を行っているという。皿屋谷辺りまではキリシタン討伐の史跡が残っているが、私たちの調査した牛ノ岳には何も残っておらず、事実はわからないそうだ。 ● 嬉野茶 嬉野町は、とにかくお茶で有名な所である。お茶栽培は550年前から続いており、元祖であるらしい。このお茶はシーボルトが江戸に持っていったことから、1826年に日本全国に知れ渡った。そして1859年幕府の解禁令で世界にまで知れ渡ったそうだ。 地図についての説明 牛ノ岳には家が8件しかなく、周りは山々に囲まれており、しこ名もあまり多くはないそうだ。牛ノ岳には「北野さん」が多く、それぞれの家を言うときは、名前ではなく、土地名(つまり「しこ名」)で呼ぶという。 ここで地図に記載してある番号の「しこ名」とその名前の由来を説明しようと思う。 1 柿の木の下 私たちが訪ねた北野徳浩さんのお家のこと。名前通り、由来は柿の木の下にある家だから。 2 倉谷(くらだに) 北野栄さんのお家のこと。由来はよくわからないが、昔からこう呼ばれていたらしい。 3 庵谷(あんだに) 北野元康さん、北野誠さんのお家のこと。 4 横町(よこまち) 地図にある二件の空家のところ。 5 上(かみ) 広川原一帯を指す。由来は牛ノ岳の上のほうにあるから。 E 荷越え(だごえ) 長崎との県境周辺。昔、牛に荷物を積んで県境を超えていたことからこの名がつい た。 調査を終えての感想 上不動地区の皆さんは、歓迎してくださり、私たちの質問に対してとても丁寧に答えてくださった。また、集落センターで話を聞いた時には、地酒をふるまってくださり、とても嬉しかった。 お話を聞いて感じたことは、終戦ということが一つの区切りとなって、他の町と同様、牛の岳も少しずつ発達してきたのだなぁということだ。また、いろいろと新しいものが導入される一方、昔から変わらずも残ってあるものもあって、それを大切にしてきたのがわかった。 今回の調査は、最初はよくわからなくて不安もあったが、実際現地に行きお話を聞くうちにとても意味のあることだと思った。少しずつ消えていく昔のさまざまなことを次の世代に伝えていくことはとても大切だと思った。先生の研究の調査に少しでも参加できて、自分自身すごく勉強になったし、自分たちのよい経験になり、とてもよかったと思う。 |