1、しこ名について この地域では、圃場整備が行われておらず、小字が、昔から使われて きたしこ名と、ほとんど変わらないようだ。それでも、地図に載って いない、昔から使われてきたしこ名も、いくつか教えていただいた。 * しこ名一覧(小字と重複する) イチノザカ (一ノ坂) チウラギ (千浦木) イワシタ (岩下) チャノキクボ (茶ノ木久保) カガミヤマ (鏡山) チャノキダ (茶ノ木田) カキウチ (垣内) ツガニゾ (津蟹園) カドノモト ツジ カノメンタニ ツルメンズ カミキタムキ(上北向) ナッコチ (中川内) カヤキリバ ナカフドウカミ(中不動上) ギナン (銀杏) ノシロビラ (苗代平) コウクボ ヒラバル コウゼ (川瀬) マキノイジ コウビラ (川平) マツノハラ (松ノ原) コガクラ モトノ (元野) コヤシロ (高野城) モトングチ サルのハナ (猿鼻) ヤグラノハル サヤンカミ ヤマサキ (山崎) シゲンタニ タケノコバ (竹の子場) タチャゴウチ タツブチ タンガシラ (谷頭) * 田畑 小字 茶ノ木田のうちに ヤグラノハル 大舟のうちに タツブチ サヤンカミ 門ノ元のうちに カヤキリバ * ほか(宅地、山林) 小字 元野のうちに ヒラバル シゲンタニ 門ノ元のうちに コガクラ 大舟のうちに モトングチ カノメンタニ ツジ マキノイジ 垣内のうちに ツルメンヅ 2、水利について 用水源:塩田川(一部 支流もあり) →高所にある3,4件の人は、自分で水をひいている @ シノバ井出から ナッコチの田 A コウゼ井出から コウゼ、コウクボの一部の田 B ブンブシ井出から カワヒラ(一部)、チャノキダ(低所)の田 C コウビラ井出から チャノキダ(高所) ↓ ↓ ↓ (高低差があり、高い地域では、上流のコウビラ井出、 低い地域では下方のブンブシ井出からひいている) * この地域については、水争いはなかった。 丹生川部落の水路の末端らへんではあったらしい。そんな時は話し合いでは解決できず、より末端の人があきらめざるを得なかった。 水が多すぎる時も、足りない時も、どちらも大変だった。 * 水の管理について この地域の4つの井樋を、一人のミズヤク(水役)が管理している。 水役は、大舟地区から選挙で選ばれる。任期は2年。 水役の仕事は、主に以下のことである。 * 集会を開き、区長と七つ組(ナナツクミ)とよばれる、各版の班長を召集し、水利用についての様々なことを決める。 * 水路のつくりかえや穴修理の全般を取り仕切る。 (人夫、運搬車、生コンなどの手配) * 6月の3,4日に行う「いであげ」(開けておいた井堰を、水を貯めるために閉めること。コンクリートの穴に草をさしこむ。)の日時を決める。 * 3月に決算をまとめる。:水路、井堰からひく水をひく人々の負担金(人夫代、草刈機代など)を、田の面積に応じて決める。 3、自然災害について @ 平成4年の台風 平成4年の台風で、この地域の多くの多が流されてしまった。 生産組合でポンプを買い、残された田から水を排出して対策した。 流れてしまった田は、(お金の都合もあり)、再び使えるようになるまで2〜3年かかってしまったところもあった。 A 「まわし水」 コウビラ井出から来る用水は二手に分かれている。上から流れる用水の流域の方が田に多く、下のほうが少ない。だから、田が多い方の水路に昼間水を流し、少ないほうの水路に夜間水を流すという交代制にした。 * 雨乞いはしたか? 戦時中までは、旱魃になると雨乞いをした。‘フウリュウ’というかねを、ここらへんで一番高い山の頂上まで持ってあがり、一晩中ならしたという。今はもうやっていない。「若い人達が雨乞いなんて聞いてもおかしいでしょう」と、山口さんはおっしゃる。近くに自衛隊ができてからは、雨の降らないひが続くと、大砲をズドーンっと撃ちあげた。すると、くろいくもがあつまってきて、あめがふるという話だ。「フウリュウにしても、大砲にしても、空気に振動を起こすのがいいのではないか」と、山口さんはおっしゃった。 4、祭り・行事について * 田祈とう(6月) 田植えが終わった時点で、近くの天満宮に行き、今年の豊作を願う。フウリュウと笛、太鼓を鳴らし、酒をお供えする。また、皆で飲む。 * 風日−(カザビ)−(8/31、9/10) 台風がこないように、青年団は酒を飲みつつ、あくる日までかねをたたきつづける。 8/31…210日、いちばん風日という。 9/10…にばん風日、25年くらい前まで行われていたが、今ではいちばん風日のみ行われている。 * 願成就−ガンジョウジュ−(秋) 今年も米が実ったことに対して御礼をする。「台風でみんな流されてしまった年でも、やっぱり願成就はした。毎年やっている。やっぱりしきたりだから。」と、山口さんはおっしゃった。 5、村の耕地 @ 湿田と乾田 ほとんどが乾田。大舟では一枚だけ湿田がある。(→斜面に作られた田で、上から降りてくる地下水が出てくるところだけ。)不動産の一部も湿田。 「動きにくいし、船を浮かべるわけにもいかない。トラクターもはまって動けなくなるから大変。」 「不動産の湿田にトラックがはまった時に、トラックで引き上げに行ったけど、なかなかあがらなかった。」 A 肥料について 化学肥料がない時代、山にあり、各自で水をひいている田などでは、草で化学肥料を作った。まず、土手の草を切って、四月に田に水を張る。その田のなかに草を広げ‘ねまらかして’発酵させ、肥料にし、牛を使って混ぜる。 B あぜ あぜには小豆を植えた。→畑に作ったら、休ませないといけなくなり、他の作物を重ねられないから。 C 農薬がない時代の様子 石油に菜種油を混ぜたものをまいた。→菜種油を使うのは、油のねばねばが虫の羽について動けなくするため。石油は、人々がまきやすいようにするため。 6、村の発達 @ 電気はいつきたか?→80年くらい前。(「うちのひいじいさんが電柱を立てに行ったからなぁ」) A プロパンガスは?→やったのは、34〜35年前。それまでは、「石油コンロ」をつかっていた。石油コンロは、ちょうど石油ストーブの上にコンロが乗っているような感じ。今でこそ、二口コンロの真中にもう一つついていて魚焼き器もついているガステーブルだが、昔は、二口ついているだけのガスコンロだった。 7、村の生活に必要な土地 いりあい山はあった(地図参照)。そこは、杉・檜の人口植林。生活す るために必要なたきぎや草は、各自が所有する山で取っていた。 8、米の保存について 戦前までは、米商人が買いに来ていた。種籾は別にして保存した。脱穀す るときに、きれいなところだけを選んで筵に広げた。(機械を使わずに) そのたねもみを、ネズミに食べられないように家の中の高いところにつる した。他の品種と混ざるため、種籾は何年かごとに交換する。 (米と他の穀類との割合) 主に米。20年前までは、稗・粟を自分のうちでお持ちに混ぜて食べるくら いだけ作っていた。麦は畑で作った。 9、村の動物 馬:林木を山から引っ張るため。 各家1頭くらい。 牛:田を耕したり、運搬手段として利用していた。 (食べる事はなかった。) 各家1頭くらい。今では地区に1頭くらいしかいない。 牛洗い場は塩田川。 10、村の道 今の県道が、だいたい昔の道を拡張整備したもの。 山あいの地域だから、未知が作られる場所が地形的に限られている。 魚は、30〜40年前までは、行商のおばさんが持ってきた。長崎から、朝、 バスを使って運んでいた。峠は長崎県との境近くの俵坂あたりにあった。 塩は、村のお店に売っていた。 戦争中は、海水をくみに海まで行った。 お話を伺った山口美智雄さんのお父さん、久巳さんは、「戦争中には、大八 車にまきをつんで海に行き、1〜2晩かけて塩を作った。今の、砂糖と間違 えるような真っ白な塩ではなく、黄色い塩ができた。塩は大切だった。塩 を作ったことのあるものには、大切さが分かる。」と、おっしゃった。 11、昔の若者 若者達は、夜になると「青年クラブ」(通称「クラブ」、今の公民館にあた る)に集まり、寝泊りした。昔は、家が「田の字づくり」と呼ばれるもの で、親や家族と、部屋が分かれておらず、若者の寝るところがなかったか ららしい。そこは、ヨコ(若者同士)のつながりを強める場でもあった。 若者は、そこで‘ふうりゅう’というカネを鳴らしたりしていた。 若者は、自彊団という、地区の青年団を組織した。だいたい男性が多かっ た。以前は女性もいたが、入るよう誘っても、「どうせ皿洗いばかりさせら れる」と、断られることも多かったそうだ。 山口美智雄さんのお父さん、久巳さんの若いころは、雨の日には、夜は縄 ない、ぞうりづくりをしていたそうだ。若者達は、正月の3日間と、盆の 3日間、節句の日には、しごとをしないで遊びほうけた。「正月3日、盆 3日、節句1日 力がない」という言葉が、それをよく表している。また、 月の1日、15日は仕事を休みにするところもあった。 12、村の現在 今では、この地区の田は、どんどん減っている。 チウラギにある、4件分の田は、林道ができたため、それまでひいていた 水がひけなくなってしまい、稲作ができなくなった。 チャノキクボでは、イノシシの害で稲を作らなくなった田がある。 また、山奥にある田は、イノシシの害だけでなく、減反政策によって減少 している。山奥の田は、小さなものが多く、トラクターを使えなかったり、 斜面に作るから、平地よりも手間がかかるのだ。減反政策の対象となった 田は、畑作にきりかえられ、ウメ、クリ、茶、柿などが栽培される 。 昔と異なり、今では、この地区のみんなが職場に働きに出る。農業は、土 日など、仕事のあいまに行われている。稲作を専業としている人は、もう、 たった1人だけになってしまったらしい。 13、感想 私たちが調査した大舟地区は山間部にあり、塩田川に沿うようにして田や 畑が作られていた。家は山の斜面に隣接しあうようにして立っている。昔 から伝わってきた、農業を中心にしたこの地区の人々の生活が、今、変わ りつつあることを感じた。米の値段が下がり、田の数が減り、専業農家も 減り、農業が機械化される。しかし、水利を通じた地域としてのまとまり、 一体感は、昔から変わらずにあるのだと思う。ここには、現在あるような 形で昔からの生活が変化しつつ残っている。しかし、そうは言っても、伺 話の中には、もう行われなくなった慣習もたくさんあった。今回の調査の 目的は、失われつつある地名や、村の姿を記録する事であったが、その目 的を、十分ではないにしろ、果たせたと思う。だが、なぜそのような‘記 憶の記録‘が必要なのだろうか。失われつつあるものの価値とは?そう考 えた時に、私は、やはり、農業を中心とした地域の人々のつながりの強さ は、現代の都市に住む私たちにない、かけがえのないものであるというこ とを強く感じた。 |