上不動

1EC99160T 山田詩織  1ED99012S 小林由佳

調査にご協力頂いた方     高月 勝馬 さん
              (大正13年12月5日生 75歳6ヶ月)
村の方々のご配慮により3地区の調査員計7名合同で公民館にて
インタビュー  (以下敬称略)


<しこ名一覧>
   上不動区
  *田畑*   
 どの田でも自分の家の前にある ------ マエダ(前田)
 自分が所有している田
(どの小字でも)
(高月)「結局、自分の家を中心にして、その前にある田が前田ったい。」

  *その他*
 小字 藤ノ元・当尾のうちに -------- ナガレアイ→ナガイヤ(流合)
 小字 野添のうちに     -------- ナキクラヤマ(泣倉山(中倉山))
 小字 樽木谷・馬場のうちに -------- ヤマグチ(山口)
小字 馬場のうちに      -------- ジョウ(城)  
 小字 門ノ元のうちに    -------- コヤシキ(子屋敷) 
 小字 門の元・中川内のうちに ----- タチハライ川
 (上の付近の川)

<高月さんのお話> 
 〜小字・しこ名の由来について〜
この付近の村はキリシタン関係の史跡、またお茶と焼き物が盛んに行われている。よってこれらにまつわる小字・しこ名が多いらしい。
小字、しこ名の由来についてお話くださったことをまとめることとする。
 *ジョウ(城)*
  高月さんの自宅の坂の上に慈眼庵というお寺がある。そこの地形は切り
立った丘の上にある。昔はそのお寺の上にお城があったようだという
ことから、その辺りを「ジョウ(城)」とよぶらしい。
(高月)「うちの家の上にお寺があるがねー。あそこの上をジョウって
言うったい。そいで、あのー、あそこにはお城があったとや
ないかねーって。」

* ナガイヤ←ナガレアイ(流合)*
川の合流点であるから、こう呼ばれているらしい。
(高月)「川の合流しているところはナガイヤ言うね。ナガイヤっていうんは ナガレアイ(流合)ね。」 

* ヤマグチ(山口)*
馬場までは馬でやって来る。昔、馬を止めておく馬場があった。ここから
は谷が険しくなり馬では先に進めなくなるので馬を馬場に置いて山に入って行った。そのことから山が険しくなる入口という意味から山口と呼ぶようになったらしい。
  (高月)「馬場っちゅうところは山の入口になっとってねー、馬場で馬から
下りて、馬をつないでおいて山を登ったと。」  
   
次の地名はキリシタン関連に由来して名前がついたらしい。

*タチハライ川*   キリシタン弾圧を逃れてきた信者が最終的に捕らえられて首を切られ処刑
された川であった。

*小字:コステダニ(子捨谷)→コスケダニ(幸助谷)*
もともと子捨谷であった。キリシタン弾圧を逃れるため、子供は邪魔になり
親が子供を捨てた谷であることからコステダニ(子捨谷)と呼ばれる。
しかし、漢字の感じが悪いということから「子捨」が「幸助」と変えられたらしい。
しかし、今も村の人々にとっては「子捨谷」の方が一般的なようだ。

* コヤシキ(子屋敷)*
キリシタン弾圧で捨てられたり、親が処刑された子供達をかくまったり
守ったりした屋敷が存在したことからこの名で呼ばれる。ここでは、勉強を教えたり、宗教教育をしたりしていたらしい。
* ナキクラヤマ(泣倉山)→ナカクラヤマ(中倉山)
キリシタン弾圧で子供を捨てた親達がこの山から下の地区(子捨谷・子屋敷)にいる子供達を泣きながら眺めていたことからこの名で呼ばれる。
これも子捨谷と同様に漢字の感じが悪いということからナカクラヤマ
(中倉山)に変えられたらしい。

〜その他教えていただいた小字の由来等〜
* カンネイザカ(葛根坂)*
葛のよくとれるところであることから。
(高月)「そのへんにカンネイザカってなか?そのへんがね、山たいね。
そんで、カンネイっちゅうんは葛。葛の根が多かとこ。それで
つけたとね。」 
* フカダニ(深谷)*
深い谷が多いことから。
(高月)「あー、フカダニね。わりと深か谷が多いけんたい。」
* ヒラコバ(平古馬)*
水田のまとまった良い土地。
(高月)「えーっとね、ヒラコバっていうんがあってねー。そのへんがね、
わりに水田のまとまったよか土地やもんね。そいで平古馬って
ついたとやなかとー?。」
* シャーレン(才連)*
通常はサイレンと読むらしいが、地元の方はシャーレンと読む。
(高月)「そいからー、サイレンね。私どもはシャーレン言うけどね。」

<村の水利>
農業用水は塩田川からひく。ツツミ(=ため池)を作って茶畑や田に水をひいている。しかし、ここの土地は川が付近を流れているのでツツミは比較的少ない。多いのは上流で水をためて田から田へと落としていく方法。川に数ヶ所、関が石を積んで作られており、水が必要な時に関を上げて水を流していく。下流に行くほど水が少なくなるかというと、そうではなく適時、山や谷から小さな川が塩田川に注ぎ込んでくるので水は上流の田にも下流の田にもほぼ同量の水量が保たれる。現在は動力により水を上げている。
水量が基本的に豊かで、大きな旱魃にはあっていない。しかし、1990年(平成2年)7月の大水害、1991年(平成3年)の台風19号で関が倒れ河川沿いの田が被害を受け、家も一軒流された。3年間かけて復旧工事が行われた。

(高月)「えっとねー、水はね、山の上に何ヶ所かため池があるし、そいでー、全部にあるわけではないんよ。ない所は田から田に移していくわけよー。」
「ため池の名前?うーん・・・、そういうんはなかねぇー。」
「ここにあんもんね。'井関'っていう。川を関って止めたんよ。昔はあのー、井関って言っても石で積んで作ってあってね。そいけんがー、水の多い時になれば、どひょうとかもね。今はこう動力でガーっと水上げるもんね。水害が来れば自動的に倒れるけんね。そいけんがー、水害は少ないけね。」
「1番水害がひどかったとは平成2年。大水害あったもんね。あとー、平成3年。台風19号が来た時ね。河川沿いの田はほとんどだめになったね。そいからー、家が一軒流れた。3ヵ年で元に戻ったとよ。」
「うーん、水は豊かやね。チョウスイの水源地もあるしね。」

<昔の暮らし>
電灯が初めて村に来たのは大正10年。それまではランプを使っていた。ガスは昭和35年頃で、それまでは薪を使っていた。山へ薪を取りに行くのが日課だったそうだ。もともとはかやぶき屋根の家ばかりだった。瓦ぶきにかわったのは昭和35年以降になる。
この辺りの農家はお茶で生計を立てている。お茶と焼き物は450年位前に中国人が伝える。焼き物は皿屋谷(サラヤダニ)で盛んであった。この辺りは霧が多く、日照時間が短いというお茶栽培に適する土地であるということから先祖代々お茶栽培に携わっている。高月さんも製茶工場を営んでいらっしゃる。
昔は手で摘んで茶揉みをして手間がかかって大変だった。終戦以後に茶摘の機械が導入され、昭和30年ごろから機械の進歩が早くなり今ではコンピューターが導入され作業はずいぶん楽になったとそう。大正14年5月には大茶樹が国の天然記念物に指定されている。
 (高月)「450年位前に中国からお茶が入ってきてねー。お茶を始めたんよ。
      そしたらー、ここの土地がお茶に合うってことでねー。それと、焼き物。そいけんがー、焼き物になればー―、皿屋谷っちゅうところ。この辺で焼き物をやってるわけたい。やっぱ450年位前ね、これも。中国からね。」
     「それからねー、国の天然記念物になっとうもんね。お茶が。沿いがー、大正14年ね。」
「焼き物の窯跡は皿屋谷の方に7ヶ所くらいあるったい。」
「こっちの生活はほとんどお茶でなりたっとうけねー。」

「そしてー、そのお茶関係でね、進んできたんはー、昔は手でお茶を摘んでた。 終戦までは手でね。その頃まではお茶の製造もこのくらいの釜をすえてやってたもんね。」
     「ここがお茶に適しとうっちゅーんはねー、霧が多かとこ。あと、日照時間が少なかとこ。」

<村の祭り>
次の3つは全て千室宮(この村の氏神様で村の人にとって重要な場所)でおこなわれ、上不動区の世帯の全て約80世帯が集まって行われる盛大なものである。
 * 新年祝賀会(元日)*
  千室宮で行われる新年を祝う会。
   (高月)「新年祝賀会っていうんをするんよ。それが年の始まりの会合になるわけ。そん時は県会議員さんとかも来るけね。」
 * 田祈祷(6月)*
  豊作を祈って行われる。日程は決まっておらず、毎年田植えの進み具合によって決まる。笛や太鼓を鳴らして祈る。
   (高月)「えーっと、こっちがだいたい6月に田植えをするもんね。田植えが済んだらー、田祈祷っていうんをする。だけん、こいはその年の家の田植えの時期やけ、日にちは決まってなかとよ。」
 * 願成就(稲刈りの頃)*
  稲刈りの頃に行われる。この祭りの中では相撲がとられる。
   (高月)「そいからー、稲の実った頃には願成就っていうんがあるんよ。この場合は相撲をとるったい。」
  
また、次の2つは部落ごとに行われる行事である。
 
 * 三夜祭(サンヤマ)*
  旧暦の1月23日・5月23日・9月23日に行われる「月」の祭り。作物の豊作祈願を祈って行われる。
 * お日祭(オヒマツ)*
  新暦10月15日(11月15日)→部落によって異なる。
  に行われる「太陽」の祭り。餅をついてお供えしたり、昼からご馳走を食べたりする。

<昔の村の若者>
春は花見や宴会をしたり、部落でご馳走をして若者同士集まったりしていた。
昔は青年クラブというのがあり、(今で言う公民館のようなもの)夜、若者同士集まって酒を飲んで朝まで話したりした。また、夏祭りを中心的に企画したり、劇団や映画を招いて皆で楽しんだりもしていた。
終戦後は「農道会」という30歳以上の独身者の集まりができた。農事研究や社会学習などを皆で勉強していた。4〜5年前から人数が減って活動は休止している。
他の村との間に水の奪い合いなどの争いはなく、農事研究などを共に行っていた。部落内や隣りの村からお嫁さんをもらうことが多かったので、このような青年の集まりでは男女関係の話で盛り上がったらしい。
  (高月)「昔はねー、青年クラブってさー、今言えば公民館みたいな。そのクラブに集まって朝までおったね。そいで、いろいろ話したりしたねぇ。」
      「そいから、勉強的なことを言えば、農道会っちゅーのがあって、年齢は30歳くらいからね。当時はまだ終戦直後でその会で40人くらいは寄りよったよ。ここ4,5年        くらい前から人数が減ってやめとうがねー。」

<これからの村について>
高月さん方村の人々の悩みは村の過疎化である。後継者問題は重大であり、
茶業関係がどうなるかとても心配されていた。
(高月)「過疎化がねー、1番の悩みの種たい。茶園でも今は若い人はほとんど
     サラリーマンたい。専業でやっとー人はほとんどおらんもんね。ほんで、農作業っちゅうか、茶業がどうなってくかが1番の悩み。」