私たちが担当することになった殿木庭(とののこ)は塩田町と嬉野町の町境にある、全戸数12戸の小さな部落である。事前に用意した地図によると、山の斜面に続く一本道に沿って民家が点在しており、そのほとんどが野中姓を名乗っている。今回の調査の中では一番山の手にある部落らしく、バスの路線からも少し離れたところにあるようだ。 「殿木庭はここからちょっと離れてるけど、まあ地図を見ればわかるから。」という先生の言葉に不安になりつつ北山の停留所で降りた私たちは、とにかく地図の示す方向に歩き出した。しかし辺りは一本の車道を隔てて左右にいくつかの小道がのびているだけであり、どこが殿木庭に通じる道なのか見当がつかない。こうなったら道をたずねるほうが早いだろうと、おじさんに声をかけてみると、殿木庭まで車で送っていただけることになった。 車は細い坂道を登っていく。 「殿木庭まで歩いて上ったら40分はかかるもんね。殿木庭はこがん山にあるけんが、上の者って呼ぶ。(山の)下の方に電気がきたのが30年くらい前かな。上の方はもっと後やった代わりに、みんなトランジスタラジオを持っとって、畑仕事しながらそれを聞いとったもんやけん、情報は上の方が早かったもんね。」 少し行くと左側にため池が見えてきた。桂尾溜池である。この地帯の重要な水源らしい。斜面は細い上になかなか急であるが、おじさんはすいすいと登って行く。 「せっかくやけん、一番上まで行かんと。殿木庭の者はこの道を通って峠を越えて学校に通いよったけど、電気がなかったけん暗くなったら提灯さげて行きよった。あ、ここは野外風呂。そしてこれは猪除けの鉄板がしてある。」 野外風呂とは、簡単な小屋のようになっているところで、確かに煙突がついている。斜面にそって耕された畑と山の境界線上に並んでいる鉄板が猪除けらしい。いちばん上まで行くと、そこはもう行き止まりになっていた。下から車だと15分程度の距離である。昔はもっと先まで道が続いていて吉田方面との行き来が盛んであったが、殿木庭が塩田町に入ってからは下とのつながりの方が密接になったそうだ。 少し下ったところに、わらぶきの屋根が見えた。この隣のお家が、今回お話を聞くことになった野中重男さんのお宅である。ここまで送ってくれたおじさんにお礼を言って車を降りると、野中さんのお宅の小犬にさっそく見つけられてしまい、約束の時間にはまだ早かったが、お邪魔させてもらうことになった。 野中重男さんは大正12年生まれ、今年で78歳になられるそうだが、大変お元気で、またクールな感じの方である。小学校2年のときに八幡から越してきて以来、70年この殿木庭にいらっしゃるそうだ。奥さんは吉田から来られたそうで、小犬のジュリーちゃんととても仲がいい。地図を広げ、さっそく殿木庭について質問してみることにした。 −まず、この小字はどう読むのですか?しこ名はありますか? これはツガニシ(津蟹石)、ツガニのいっぱい採れよったけん。しこ名はアナンタ。ここはフランタン(フラン谷)、漢字は無かし、ただみんなそう呼びよう。ここはイシザシ(石指)、しこ名はイッサシで・・・ …と、小字の読みとしこ名を教えていただいた(※レポート最後の一覧参照)。しこ名については、殿木庭は山であるためになかなか人が行かないところが多く、あまり多くは収集できなかった。 −おもしろい岩とかはありますか? ふーむ、岩ねえ。あ!岩って知っとうね?こがん大きか石さ。 −はい、知っています。 岩、岩・・・。うん、このハリノメンズ(針目頭)っていう所に針の頭のごと穴の開いた岩がある。人もくぐれるし、上にのぼったら有明海とか大牟田が見える。このイシワリダケ(石割嶽)にはメオト岩(夫婦岩)ていうのもある。あと、このウシノアシガタ(牛ノ足形)ていう所には、下駄で付けたみたいな跡のある岩があるもんやけん、牛若丸が空から降りてきたときに付けたっち言いよるけど、そんな岩に足形の付く訳がなか! <奥さん>あと、タテワ(立岩)ていうのがあります。こがん大きゅうして立っとうもんやけん落ちてきやせんかって思いよったけど、50年しても60年しても落ちて来んねえ。 −橋とか、道、田んぼに名前はありますか。 橋は、観音橋っていうのがひとつある(注:トノノコ川に架かっている橋。観音様の近く)。 道はここの道が一本あるだけやけん別に名前は無かね(注:私たちが上ってきた道。この一本道にそって部落がつくられている)。この道は狭かったけど、60年前くらいまえに整備されて、そしてでこぼこ道にコンクリが敷かれたのが20年くらい前。ああ、山を越えるときの道は、ある。これが東吉田越え、こうのびるのがアサムラ越え、これは月の坂に行く。 田んぼは・・・アナンタ、カンノンダ、ここはデンネ畑・・・。(※地図参照) −観音様って、どんなところですか? 寺みたいなところ。観音様と加藤清正が祭ってある。 <奥さんが塩田町史と手書きのメモを持ってきてくれる> 伐開:宝永元年(1704)二代目、野中五良右衛門・中嶋長兵衛 記 山神さん:寛政12年(1799) 観音さん:享和2年(1802) −山神さんって? 石のおじぞうさん。ほこら。 −ここでお祭りしたりもしますか? みんなで酒飲むだけ! −二代目、野中五良右衛門ってありますけど、だから殿木庭は「野中さん」が多いんですか? そう。東吉田の方から炭焼きに来よったのが、結構良いとこやし、って300年くらい前にここを拓いた。これが野中家と中嶋家やったけど、中嶋家は浜(鹿島)の方に行ってしまってもう居らん。 −この辺りの水利は? トンノコ川とオオヤマヅツミ(桂尾溜池)から。水路ができる前は観音様まで取りに行ったり、溜池が涸れたときには鹿島から引いてきたりもした。自分とこは山から引いとう。 −水不足は?雨乞いなどしましたか? あー、もうしょっちゅう。15日くらい天気が続くともうだめ。ちゃらちゃら。雨乞いは石割嶽でしよったね。木炭ば、がんして炊いてから、こうして(合掌)。今はもうしよらんけど。 −94年の干ばつはどうでしたか? ああ、もう全部だめやった。 −水をめぐって揉め事などはありましたか? そがんことはなか。でも小さかときは下の者からトンノコ者!いなか!って言われてけんかしたりしよった。 −わあ、小さいころはどんな遊びをしていたんですか? 学校の遠して行きたくなかし、よう学校行かんでメジロ捕りしよった。トリモチの木の皮を剥いで水に浸けて、こがんピチャピチャって石とかでこう、叩くわけ。そしたら粘ってね、メジロのくっつくのができゅうもん、こう、ピチャピチャって・・・。 −何羽くらい? 秋のヤマガキがなるころはいっぱいしかけて、50羽でん、60羽でん捕れよった。メジロ、おいしかよ。2,3日家に帰らんで炭窯に泊まったりしよった。昔はほとんどの者が炭を焼きよらしたけんが。今は無かばい。食料はトリ。もう先生も親も怒りよった。どこにおるかはだいたい分かっちゃあさい。迎えに来よった。 −へえー!じゃあ、学校はどこにあったんですか? 吉田のほう。峠越えて行きよった。50分〜1時間くらいかかって、もう行きとうなかさ。下の子はまじめやった。今はこっちも下の分校の方やけんがまじめに行きようけど。 −じゃあ、農業について・・・、どんなものをつくっていましたか? 昔は麦、米、豆、お茶もやりよったね。今は米と、ゴーヤ。 −牛は飼っていましたか? うん、牛・馬は田起こしのためにどこの家でもおった。一頭ずつ、雌は高いけん、だいたい雄。 −農薬を使う前はどうしていましたか? 菜種油の使いかすを竹筒に入れて、こう田んぼに撒いて、足で、ぱっぱって広げっさい(ジェスチャー付き)。他のも全部手作業。手で田植えして手で刈って、むしろで3日くらい干して、もう夕立でも来たらおおごと。それから臼でひいて脱穀した。今は原田とか野放しの田んぼも多かと。 −農業の他には? 半分は林業ばしよった。今はもう木材の安くなってしよらんけど。木炭焼きもしよったし。 ワン!ワンワン!(ジュリーちゃん、吠える。かわいい) こら!黙っとかんば。ジュリー!・・・じゃあ、ちょっとゴーヤを見に行こうか。 −わあ、やったあ!! 重男さんのお宅を出ると、快晴の空と一面の緑がほんとうに気持ちいい。隣にある、わらぶき屋根の裏側に回るとゴーヤが生っていた。それにしても気になるのが、もう蜘蛛の巣がかかった、水道のついた釜である。大きさはちょうど人がひとり入れるくらい。これは何に使うんだろう? −しげおさん、これは? 野外風呂。 −熱くないんですか?金属ですよ? ああ、熱くない。入るときは板をこう、足で沈めて入る。 −女の人とかは・・・? 暗いときに入りよったけん大丈夫。 −! この隣のわらぶき屋根の家は重男さんの家の本家ということだが、今はもう誰も住んでいないそうだ。わらぶき屋根は想像していたよりもずっと重厚な感じで、その褐色と土壁の黄土色が周りの緑色によく映えている。パチリ(写真撮影)。 お家に戻ると、そろそろお昼時。お昼時をさけてお伺いすればよかったのに、はやく着きすぎてしまった。そんな私たちふたりに、お粗末さまですが・・・と、奥さんが本当においしい昼食を用意してくださった。こんなにお世話になって感激してしまう。 昼食が済んだ頃、「こんにちはー!正宏です。」と玄関から声が聞こえた。区長の野中正宏さんが来られたらしい。正宏さんは、初め電話連絡をとった際に重男さんを紹介してくれた方である。 「今日はぬくかですね。この辺は下より3〜5度気温が低くて、ほんとクーラーも扇風機もいらんとですけど、今年は特別で。わらぶき屋根だと夏は涼しくて冬は暖かい。トンノコでももう一軒しかなかけど。瓦は天井のたぎっけん。そう、下のほうの家が最近よしぶきにしたらしか。よしぶきは組むのが難しくて、労力も費用もわらぶきの3倍はかかるけど、もう葺き手が少なくなっとうし、今のうちにやっとこうって。後継者のおらんとですよ。若くても60代。・・・」 こうしてお話を聞いているうち、もう時計は4時をまわっていた。バスの時間は4時半、そろそろおいとまする時間である。「ちょっとあのゴーヤを採ってこようかね。」と、重男さんがゴーヤとオクラをお土産に持たせてくれた。 最後に玄関で、重男さん(ラフな格好からシャツ・スラックスに着替えて出てきてくれた)と奥さん、小犬のジュリーちゃんと私たちで記念撮影をし、お家を出る。 向かい側には東吉田へ続く小道が木のトンネルのようにして続いていて、そして辺りはやっぱり緑が日の光に映え、きらきらしていた。 (おわりに) 自分の足で歩き、生の声を聞き、実際に目で確かめるということから歴史にアプローチするという経験は、机上での文献講読では得られない、もっと豊かなものであることを今回の調査で身をもって感じることができました。忘れられていく歴史を今、書きとめておくことはやはり重要な作業であるし、そして何よりも本当に興味深く、楽しい経験でした。 今回「歩いて歴史を考える」ということでここ、殿木庭を訪問しましたが、また機会があれば是非お聞きした場所を実際に見ることができたらと思います。 そして最後に、大変面白いお話を聞かせてくれ、親切にしていただいた野中重男さんと奥さん、ジュリーちゃん、野中正宏さん、またこのような機会を与えてくださった服部先生に感謝します。 |
小字 | しこ名 | 小字の由来・その土地に関する逸話 |
津蟹石 (ツガニシ) | アナンタ | 川が減水すると、行き場のなくなった津蟹がよくたまっていたことから。また、昔は田んぼがあったのでアナンタというしこ名がついた。 |
鳥燕 (トリカブ) | ||
鈴山谷 (スズヤマダニ) | ||
フラン谷 (フランタン) | ||
鷹鳥 (タカトリ) | ||
殿ノ平 (トンノヒラ) | トンノジャラ | |
北ノ谷 (キタノタニ) | デンネ畑、墓道がある。 | |
石割嶽 (イシワリダケ) | 二つに割れた夫婦岩と呼ばれる岩から。学校道。雨乞いも行われた。 | |
針目頭 (ハリノメンズ) | 針の頭のように穴の開いた岩があることから。 | |
石指 (イシザシ) | イッサシ | ヤマンカミ田がある。 |
山執行 (ヤマスゴ) | アサムラ越え(鹿島へ続く道)がある。 | |
上山執行 (カミヤマスゴ) | ||
伏原 (フシワラ) | ||
楓ノ木 (ホウノキ) | 飛び地。昔、殿木庭の者の所有地だったため。 | |
牛ノ木庭 (ウシノコバ) | ||
重石 (シゲニシ) | ||
観音前 (カンノンマエ) | 立岩、観音様、カンノン田(猪がよく荒らす)、カンノン橋がある。 | |
牛ノ足形 (ウシノアシガタ)※ | 下駄の足形のような跡のついた岩があり、牛若丸が空から降りてきたときにつけたという言い伝えから。 |