太良町山根地区に関する調査報告
調査日:2001年6月23日(土)
語り手:原田
聞き手:坂口充、石井裕也、上山拓美、下薗昭博
しこ名 地図参照(佐賀県立図書館所蔵)
この日は朝から雨が降り、原田さん宅の周りは深い霧に包まれていた。
原田さんへの質問
・昔の若い人は、何をやっていたのか?
−ずっと昔(原田さんの父親が育った世代)は、スミやきをやっていた。
その他は、タタラギや植林、山木の伐採、椎茸栽培(昭和50年頃)
・米は?
−自家用に少しだけ作っていて、村で1/3位の人
・大干ばつのとき雨乞いなどしたのか?
−うちらの代はやっていなかった。
・田んぼなどに水を引くときはどうしたのか?
−田んぼはもともと水のあるところにつくるから(地図を指して)、この辺に田んぼを
作るったいな。
・村の人だったら、その水は誰が使っても良かったのか?
−水を引いてそれを作ったとき、水利権はその人にあったけど勝手に使っても良かっ
たんじゃなか?よう、知らん。
・山根神社はいつできたか?
−最近じゃなかろうねー。(棚から資料を取りだし)墓の所在はわかっとたけん、そこ
に鳥居をたてたったいねー。墓と鳥居だけ、神社と言えば神社やけど…ははは。
・へぎかんの人というのは?
−(地図を指しつつ)この辺をずぅっと…。この辺では百姓をする人がおらんね。農
業してた人は、6,7人かな。このなかで、米を作っていたのは6人ぐらいね。
・昔、この集落で集まるときとかはどこに集まっていたのか?
−昔は各家に集まっとった。公民館とか出来る前はね。
・昔の若い人は何をやって遊んでいたのか?
−鹿島、多良に映画を見に行くとかねー。はまにいったねー。劇場とかねー。
特に遊ぶ時間はなかったもんねー。映画とか芝居とかが遊びじゃったろ。
・村とかに電気が来たのはいつ頃ですか?
−昭和27,28年ごろじゃなかったかなあ。
・鹿島と多良はその頃から分れていたんですか?
−鹿島市と多良町は昔から別じゃった。
・電気が来る前のご飯や風呂は?
−薪だよね。
・暗くなったらどうしてたんですか?
−ランプたいねー。
・夜は何をするんですか?
−よなべどんしよったねー。勉強するにしても豆ランプで…。あんた達の今から考え
ると、想像もつかん話じゃろうねー。昼間手伝いして、夜勉強せなならんかった。
・映画とか見に行くときは、どうしてたんですか?
−全部、歩きよ。学校とかも。
・学校までの距離はどのくらいですか?
−4キロくらいかな。1時間くらい。
・道に名前は?
−道に名前はなかったろうね。峠をくだったとかいってね。道に名前をつけてよんだ
とかなかったろうね。
・この辺では魚とかを手に入れるときどうしていたんですか。
−魚売りさんが居たろうね。(ちょうちんを見せてもらう)
・提灯はどこで作ってもらうのか?
−ふもとのほうで作るんだろうが。
・村で馬とか牛とか飼っていたのか?
−流矢と山根はいたばってん、矢答にはいないね。居ても犬とか猫とかやね。魚ウリ
とかおってね。戦後毎日きよった。味噌を入れたカメとか、醤油を仕込むカメとか。
・カメ自体を売るんですか?
−そうそう一人でかろうてきてね…。今の時代からは、想像もできんもんなあ。
・それが大体40年くらい前ですか?
−30年くらいかなあ。
・この地域には、祭りとか行事とかそういうのは在るんですか?
−以前はねえ。今は形だけ…。
・台風の被害は?
−1番大きかったのは、平成3年かなあ。木がだいぶ倒れたもんね。風は強かですもん。
南風がね。
・奥さんとどのようにして知り合ったんですか?
−以前はうちに限らず大体同じような状態だったけど、戦時中はだんなさんの顔は写
真だけとかねー。親戚のすすめとかねー。それが正直なところ。
・「夜這い」っていうのはありましたか?
−あの頃は、いっしょにデートするとか街を歩いたりすると、周りからいろいろ言わ
れてねー。昔は今んごて戸締りとかしてなかし、公然とされんけんしとったんじゃ
なかとねー。
・親はそう言うことするなよとか、いわなかったんですか?
−親も黙認しとったんやなかと。いまんごと、おしゃれして手つないでて、かえって
昔はねー。
・動物による被害はなかったですか?
−ごったい多いよ。猪とか烏とか。烏の被害は、スイカとか柿とかやけど、猪はなん
でんくうけんねー。防護さくでもしとかんとなあ。電さくが一番きくたいなー。
・電気が通る前は?
−網をはっとったけど、効果なかねー。電気が一番たいねー。
・捕まえたりとかはしないんですか?
−特別な許可が必要やけんねー。
・実害は台風よりも猪だったりするんですか?
−そうねー。
・季節は関係無いんですか?
−冬がおおかごたっねー。