地名のおこり

 

 栄町は、旧多良村の中のひとつの集落で、明治以降昭和28年(1953)頃まで、町、本町(中心の大通りを指して使われることが多かった)等と呼ばれていた。糸岐村でも、村の中心地を本町とよんでいた。明治22年(1889)に多良村と糸岐村が合併して多良村になると、町、本町を区別するために糸岐本町(または多良町)と呼ぶようになった。昭和28年(1953)4月に町制が施行されて多良村が多良町に変わり、多良町を栄町と改称した。多良町が大浦村と合併し現在の太良町となったのは昭和35年2月である。

 地代帳によると、小字地名は峰、尾べた、蝶円町、川良瀬、堀の内、町の6区である。この6区を合わせて次第に多良町と呼ぶようになった。江戸時代初期には、北多良村の中心地として栄えていた。江戸時代、多良宿には上僅屋(お茶屋ともいう)がおかれていた。また幕末の頃、多良村に医者が5人と記されている。(諫早新日記)このことから、江戸時代は、浜宿から湯江宿へ行く中鍵地として栄えていたと見られる。栄町の上使屋は大魚神社の横(現在、永渕家屋敷)にあって、明治時代になると多良村役場として、大正年(1916)まで使われた。

 多良町には、円教寺、大魚大明神、北多良津(港)があった。江戸時代はじめには、相当大きな集落ができていたのではないかと思われる。多良町は、太良宿のあったところで、浜町、矢答、古賀、片峰、多良宿、九町分、打越、などの街道の中継地であった。