(1) 鳥坂 昔は本河内(ホンゴウチ)といって、長崎県だったらしい。(いまでも年配の方の中には鳥坂をこう呼ぶ人もいる) 今の谷所村は明治4年に三ヶ崎村・新村・石垣村・下童村・鳥坂村・谷所村が合併してできた。 (2) あざな 基本的には小字とほとんど変わっていないようだった。しかし村を整備した際に『岩崎』が『中村』に併合され、『小甫敷(コボシキ)』は『小城(コジョウ)』に併合された。 (3) 川について この土地は川上から見て鹿島川の左岸が高く、右岸が低くなっている。現在は川幅も広がり、川の氾濫による水害はなくなったが、昭和37年までは川幅が狭く、鳥坂は右岸にあるので、大雨が降ると堤防が決壊し川の氾濫によって床下浸水どころか、床上浸水もしばしばあったということだ。昭和37年に建設省によって川も整備され、中村のあたりの川もまっすぐになった。また、当時の橋は木製で、しかも高い位置にあったわけではなかったのでよく流されてしまったらしい。 また鹿島川には堤防が少なく、今でも厳しい水利権争いがある。川上のほうの村は水不足のときに水を自分たちが多く使うために、堤防の管理を自分たちの村だけでやっていたという。 つまり、鳥坂は大雨になれば土地が低いため水浸しとなり、雨が少ない年は川下にあるため水不足によって田が被害を受けてしまうという大変な土地であった。 (4) 旱魃 1994年に大旱魃があったとき、鳥坂には溜池がないので川上にある大山堤に頼っていたけれど、その周辺の田にとられてしまっていた。お盆返上で必死にポンプで水をくみ上げたけれど、労力もむなしく枯れてしまった稲も多かった。 1222年と1300年にも大旱魃があったと資料に残っていた。 (5) 雨乞い 雨乞いは山の上に行っておこなっていた。1300年の大旱魃のときは唐泉山に行って雨乞いをしたらしい。話をしてくださった方も子供のころ山に行って雨乞いをしたことがあったそうだ。 (6) 産業 鳥坂は稲作中心で、昔はみかんも作っていたそうだが、価格が暴落した後は作らなくなっている。今はその他に花卉栽培やいちごのハウス栽培もおこなっている。 今は兼業農家がほとんど。林業も昔していたが輸入材に負けていって、手入れもしなくなっていったため、雑木林となっていった。 現在、稲は刈り取ったあと共同乾燥場に持っていき、そのあとで農協に持っていく。農協ができる前は各自で天火干しして、売買していた。昭和3年ごろまでは千歯扱きや唐其を使っていたそうだ。 農耕には牛馬を使っていた。 (7) 家庭 鶏、やぎ、羊、牛などを飼っていた。やぎの乳を搾って飲んでいた。羊の毛ははさみで刈っていたので時々失敗して血が出てしまうこともあったとか。 (8) 名所 ・ 味島神社(私たちも行ってみました) 祭神 倭姫命(ヤマトヒメノミコト) 戦国時代にできた 樹齢700〜800年の椎の木があるが、一度枯れかけたらしい ・ 鳥附城跡 城主 嬉野越後守直道(嬉野町とは関係ないらしい) ・ 多久図書茂富公の墓 以上の名所はみせていただいた塩田町の資料に載っていたものです。「この本には塩田町のことは全部書いてあるからねぇ。読めば大抵のことはわかるけ、見てみ。」とのこと。かなり古い本でした。 (9) 祭り 1月4日 成人式(出席率はかなりいいそうです) 2月1日 宮座 8月1日 五社参り(味島・五の宮・大神・琴路・救世神社の五つを回る) *8月31日 鉦浮立《カネブリュウ》=風日祭 210日 (台風がこないで豊作になるように) *9月1日 風籠り 彼岸 彼岸籠り 11月15日 御日祭《オヒマツリ》 (餅つきをします) 12月1日 神祭 * 印のものは谷所全体の祭です Q「何か鳥坂の祭とかあるんですか?」 ―いろいろ教えてくださった後― A「祭っていっても、飲むための口実だったなぁ。祭のたんびに酒盛りだ。べろべろになってしまう人もいたよ。」 Q「地酒とかあるんですか?」 A「“東長東一“ていう有名なのがあるよ。東京からわざわざ頼む人もいるぐらいだから本当にうまいよ。」 (10) 学校 昭和二十年代は弟や妹連れて学校へ行き、子守りをしながら授業を受ける子もいた。 女子のための「子守り科」というのもあった。鳥坂の子供は近くに学校があったので遠くまで通う必要はなかった。 名称の変化 谷所尋常小学校→谷所教場→谷所分校(昭和54年) 現在、子供の数が減ってきている。 「靴を履いている子供のほうが少なかったね。みんな裸足だよ。だから足の裏が厚かった。服も上半身は裸だった。」とのことです。 (11) 戦時中・戦争直後 当然、食糧難。長崎のほうまで買出しに行っていた。山へ行って無花果をもいで食べたりした。おやつなんてなく、栄養失調だった。 (12) 自然 山にはいのししが今でも出没するそうだ。たけのこや栗などが食べられてしまったりして困っているが、今は駆除をしようにもいろいろ規制があって難しいらしい。 その他にも、アナグマ、野ウサギ、タヌキ、キツネなどが出没し、山から下りてきた親子連れを見かけることもあるそうだ。 蛍もたくさんいたが、昭和40年ごろから激減。今はほとんどいない。「洗剤使うようになってからだめになったんだよね。」と話してくださった。 (13) 遊び ござを敷いて坂を滑ったり、川に遊びに行って泳いだりしていた。 「今じゃ、危ないから川で泳がせんで、プールばっかりになった。だから逆に何かあったときに対応することができん。昔は何でも遊びながら覚えたもんだけどねぇ」と残念そうに話してくださった。 山にウサギバナ(うさぎわな)やトリバナ(鳥わな)を仕掛けたり、とりもちを作ってウズラを取ったりしていた。しかし今はそういったことにも許可が必要である。 川で釣りもしていた。海のほうから魚があがってきていたので、手長エビ、川エビ(方言ではタグマンショ)が取れていた。 鹿島川を挟んで縄張り争いのように、石を投げ合ったりしていた。 子供たちの間にはほかの村の子供たちとの交流はなかった。 (14) 昔の若者(昭和30~40年代) 青年団があって、公民館(クラブと呼んでいた)に集まって、寝泊りし自炊したりもしていた。夜は軒下にあるスイカや饅頭を盗んだりもしていた。民家の人もわかっていて軒下に食べ物をつるしておいたりするので、公認のようなものだった。 (15) 風習 葬式のときなどは部落全体が集まる。 結婚式は昔倭家でおこなっていたので、全員は家の中に入れなかった。そこで時間を区切ったりしていたが、客も酔っ払っているのですぐには出てくれず、家の外で長く待たされることもあった。 集会などをするとき昔は時間になっても人がぜんぜん集まらず、時間どおりに来ているほうが馬鹿みたいな感じがしていたそうだが、今はみんな時間どおりにきちんと集まるので、10分前には来ていないと恥ずかしいような感じになってきている。 (16) 方言 『じい』=酒 『しゃー』=ご飯 『えすかもん みたがひ』=恐いものみたさ 上の二つなどは今でも使うそうだが、三つ目は意味はわかるが日常生活では使わないそうだ。これも見せていただいた資料に載っていた。 (17) 鳥坂のこれからについて 「高齢化が進むんだろうね。谷所分校もだんだん子供が少なくなってきてるから、他校と合併することになりそうだよ。昭和27年に比べると生徒数は三分の一ぐらいに減っている。残っても仕事がないから、子供が家を出てしまうと、残るのはおじいちゃんおばあちゃんだけになり、その人たちが死んでしまうとそのあと家には住む人がいなくなり廃墟となってしまう。そういった家がここ辺にもあるからねぇ。農業だけでは生計は立てられない。酪農をやる人はいなくなったし、兼業する人は有田で陶工やる人が多いね。あと、縫製工場とか役場に勤めたり、先生をしている人もいるかな。そのうち勤めだけになったりする人もいるよ。若いもんは大学にいったらなかなか戻ってこないからねぇ。」と寂しそうに話していらっしゃった。 話をしてくださった方は 永松直樹さん 昭和12年生 63歳 織田義人さん |