【太良町牛尾呂】 1TE00009R 内山芙美子 TE00055W 村上恵 6月30日午前12時、私たちは牛尾呂公民館の前に降り立った。目の前に民家と牛舎。民家の2階の窓から見られているようだったが、とりあえず地図を引っぱり出して現在地を確かめた。すると、めざす土橋さん宅はすぐ近くで、あっという間に家の前に着いてしまった。しかし、手紙に記した約束の時間は13時。まだ一時間もある。先に昼食を食べようということになったが、辺りには座れるような場所もなく、呆然と立つばかりだった。通る車や牛に凝視されるままに5分ほどたっただろうか。青いトラックが近づいてきて、窓から顔が覗いた。「あんたたち、九大の学生さん?」ハイと答えると、「うちここだから、ちょっと待ってて。」しばらくしてトラックを置いて戻ってくると、「どうぞ。」その人はまさに土橋さんだったのだ。あまりに早く着きすぎたことを申し訳なく思いながら家に上がらせてもらうと、最初に電話をかけた時に出られたおばあちゃんと思われる方が出てこられた。始めは誰か分からなかったようだが、後で思い出してくださった。そのうち奥さんも帰ってこられ、少し話をした。家を離れている大学生の子供さんがいらっしゃるということで、共通の話題で話も弾んだ。それから、「先にご飯ば食べんしゃい。」ということで、私たちは用意していった昼食を食べ始めた。すると、「ラーメンでも作っちゃろうかね。」と、ラーメンを作って、炊き立てのご飯と共に出してくださったのだ。ラーメンもさることながら、特に自家製米だというご飯は普段食べるものとは格段に違うおいしさで、それまでの緊張は一気に感激へと変わった。私たちが食べている間にも、古老の方に電話をかけてくださっているのが聞こえ、本当に感謝の気持ちでいっぱいになった。 その後、地図を広げてお話を聞かせてもらうことにした。土橋さんはずっとこの辺りで育ったわけではないので、あまり前のことは分からないということだったが、奥さんは近くの多古里で生まれ育ったということで、積極的に色々なことを教えてくださった。まず、牛尾呂の範囲と、事前にもらった小字資料には牛尾呂の範囲のものが見あたらなかったので、そのことから聞いてみた。すると、牛尾呂は戦後入植してできた部落なので、小字に当たるようなものはないということだった。 そのうち、ご近所の古川さんが話しに来てくださった。古川さんは昭和21年の入植された方の中で、唯一今も牛尾呂で生きていらっしゃる方だ。そこで再び同じことを聞いてみると、かつてはギュウロウ(牛老)という地名が記録に残っているという。また、明治18年の記録には、多古里村の小字として牛尾呂が記載されている。そして、周りの部落の人たちは誰も住んでいないこの地域をノンナカ(野ん中)とよんでいた。戦後、入植し、「郵便の来るようになってから」牛尾呂とはっきり定められたようだ。現在、牛尾呂は2つの区域にわけられているが(上組・下組)、これは便宜上決めたもので、入植当時は4つに分かれていて、それぞれ1班・2班・3班・4班 と呼んでいた。その境界は、地図に示すとおりだが、基本的に土地が家ごとに分配されているので、班も家単位で区分されている。それで、住宅地図に落とすのが最も分かりやすく、思わぬところで住宅地図が役に立った。 つぎに、しこ名に当たるものがないかどうか聞いてみた。すると、土橋さんも古川さんもないという。私たちが聞いているのがどういうものかはよく理解してくださっていたので、本当にないのだろうと思われた。それで、堀や水路、橋についてはどうかと聞くと、現在牛尾呂橋と呼んでいる橋はもとは堤防で、その周りは今は田だが、昔はため池だった。一度洪水で堤防が決壊してから橋になった。そして、そのため池をシシアナ(猪穴)と呼んでいた。ということを教えて下さった。名前の由来を聞くと、「イノシシの出よったとやろ。」ということだった。 ここで、土橋さんの奥さんが、「月の岩」について教えて下さった。大浦ダムのそばにある岩なのだが、逆向きの月、つまり水に映ると通常の形に見えるような月が天然で描きだされているらしい。ウシオロさんという水の神様をまつってあるので、雨ごいをしていたという。それをフリュウ(浮立)というが、太鼓や鐘を鳴らしたり、踊ったりしながら月の岩のところまでやってくる。隣接する部落、多古里や今里からも月の岩まで登ってきていたそうだ。94年の干ばつについて聞くと、その時にも雨ごいをやったということだった。効果について聞くと、軽く笑われ、土橋さん自身は信じていない様子だったが、今里では翌日にパラッと降ったという話もあるとおっしゃっていた。 次の話題に移る前に、しこ名についてもう一度尋ねてみた。すると、古川さんは「そげんかとはつけちゃなか。」と即答されたが、土橋さんは今でも個人的には、家の中だけで通じる独自の呼び名ならばあるという。それだ、と聞いてみると、土橋さんのところでは、カイショク(改植)・ユウエンチシタ(遊園地下)・ウラヤマ(裏山)・イエウエ(家上)という呼び名を使っているということだった。ユウエンチシタというのは、もと運動公園のようなものがあったからだそうだ。これらの呼び名は、家族の中とごく近所の人に通じる個人的なものなので、皆が付けているとは限らないようだ。古川さんは今も現役で働いていらっしゃるそうだが、田が比較的まとまってあるため、つけていないらしい。あと、4班に分けていたときの名残か、その辺りの範囲の田はヨンパン(4班)とよぶそうだ。牛尾呂にしこ名がほとんど存在しない理由としては、地図を見ると分かるように、「狭かけん、(わざわざ区別しなくとも)分かっと。」とおっしゃっていた。 次に、水利について聞いた。田に引く水は、現在は出水(湧き水)や水路から取っていて、以前は谷を流れる水も使っていたそうだが、今でもずっと自然に流れるの水を利用しているようだ。呼び名についても聞いたが、「なか。」ということだった。多古里川が近くを流れているが、全く関係ないそうだ。水利に関する慣行というのは、特にはない感じだったが水利権については、田頭(たがしら)といって、自分の田より下から汲み上げたりするのはいけないという決まりがあるということだ。 湿田と乾田の区切りについて聞くと、すらすらといくつかあげ、場所と広さを教えてくださった。具体的に地図に示した。米の取れ方に特に差はなく、大体どこの田も一緒だそうだ。肥料は、主に飼っている牛の堆肥を用い、化学肥料はほんのちょっと使うだけということだった。古川さんによると、化学肥料は、戦後牛尾呂に入植した時点で既に石灰硫黄合剤、マシン油などがあったそうだ。その後様々な化学肥料が開発されたが、使うものや使い始めた時期はひとによって違うため、一概には言えないと仰っていた。虫除けのため、水田に油を流し、稲を蹴って虫を落としたりもしたらしい。また、牛尾呂は、戦後焼け野原になったところを国が資金を出して開墾させた場所であるため、個人個人が自分のやれる分だけ耕して、それに応じて賃金を受け取るという感じで、共同作業のようなものは決してなかったそうだ。牛を飼えない人もいたが、他の家の牛を借りてお返しをするということもなかったらしい。 あぜ(畔・畦)に豆などを植えていたかを聞くと、2〜3年前まではやっている人がいたらしい。田小豆(たあずき)といって、田に作るよりしなやかなものができるそうだ。しかし今は、田だけにかかりきれるわけではないので、お年寄りなど、時間に余裕のあるひとくらいしかやらないという話だった。 次に牛尾呂を囲う山の利用について尋ねてみた。入り会い山はナシ。草きり場もナシ。では牛の餌はどうするのかというと、自分の畑に作る、とのことだった。焼き畑もしないそうだ。 電気について。「いつ頃電気は入ったんですか?」と聞くと、土橋さんは「あれはー・・・、いつやったっけねえ、確か私が・・・、」と、その頃の自分の暮らし振りに記憶を照らし合わせつつ思い出そうとして下さる。「ああ、これがあった。」と、太良町誌を出して下さり、正しい年を調べてくださった。ここでは昭和21年の入植以来、ランプ生活が長く続いたそうだ。昭和29年頃電気導入について鹿島電業所と話し合っていたが、佐賀県側からは遠距離であるため工事費が高くつく計算だった。そこで近くの長崎県側のみさかえの園まで電気が来ていたので、諫早電業所に問い合わせた。出来ないとは言われなかったが、管轄外であるため気乗り薄であった。黒金の松本又次郎(町議会議員)の努力によって電気が来たのは昭和30年。資金は夫々の土地を担保にして、年賦償還で農協から借り入れた。初めて電灯がつくと、久しぶりに文明に触れた思いで、この苛酷な世の中が一変して明るくなったように感じたひとも多かったらしい。ちなみに、プロパンガスが来たのは昭和35・6年で、その頃はまだ薪を使っている人も多かった。薪は自分の山からとれていた。 農業について。これについては最初米についてしか聞いていなかったのだが、土橋さんのお話を聞いていると、どうやら牛尾呂はみかん栽培もさかんらしい、ということで、みかん栽培についても詳しく尋ねさせて頂いた。・・・田において、地主と小作人の関係はもともとなかったらしい。青田売りもされなかった。牛尾呂は戦後に出来た村であるため、当初から農協に米を出さなければならず、その制度は強制割り当てで、反別であった。「あれは本当にきつかよー。」と、土橋さんは顔を曇らせて仰った。豊作でも不作でも同じだけ出さなければならない、辛さ。自分で、ある程度は想像できていると思っていたりするが、きっとそんな生ぬるいことではないのだろうなぁとも思う。ふと、昼に作っていただいたごはんを思い浮かべた。話の続き。米の保存の仕方はどうでしたか?「もみの状態で置いておくんよ。」玄米では匂いがつくからだそうだ。いる分だけ、もみはぎして使っていた。ねずみ対策はどうしていらっしゃったんです?「あぁ、もみがんかん。」「・・・モミガンカン・・・?」聞いたことのない言葉だ。イントネーションや切るところがよく分からない。「モミ」は「籾」として、「カン」は「缶」として、じゃあ「ガン」って何なんだろう・・・。というのは置いておいて、「もみがんかん」は元は「もみぜこ」といって木製の箱だったらしい。今ではトタン作りになっている。では米については最後の質問。家族で食べる飯米の呼び方はどうだったんでしょうか?「そりゃーハンマイよ。」古川さんが笑いながら即答された。「なんかこう・・・、他の呼び方はなかったんですかね?」としつこく尋ねてみる。すると昔のことをお話してくださった。昔は米は配給されていた。米の代わりに砂糖が配られることもあった。そこで、陸稲が始まった。陸稲というのは畑で米を作ることである。当初は量的にはかなり作ったようだ・・・、その米を、「自家米」、と、呼んだらしい。今は、さっき古川さんが仰ったように「ハンマイ」とそのまま言ったり、最後に土橋さんがつけたして教えてくださったのが、「保有米とも言うねぇ、あと、ハンミャー。」「ハンミャー・・・、ですか?漢字ではどう書くんでしょう・・・?」「普通に、飯米(ハンマイ)って書くのと一緒よ。」・・・ということだった。ではみかん栽培について。牛尾呂では、昭和36年頃からみかん植栽資金を利用してみかんを植えていった。現在平均栽培面積は一戸一町五反くらいで、逐次極は早生栽培に切り替えている。しかし、最近のみかん価格の低迷と後継者難に加えて、老齢化などにより、減反政策を機に廃園面積が増えてきた。そんな中でも質の良いみかんを作ろうと栽培する方々の努力は惜しまれない。みかん栽培だけでなく稲作にも畜産にも言えることであるが、村全体で、地作りをし、最低限しか農薬を使わないでいこうという方針があるそうだ。例えばみかん栽培で使われる農薬は、石灰、硫黄合剤、マシン油。先述したように、水田に使われる農薬はマシン油。研究もなされていて、みかん部会は去年・一昨年までは月一で研究会を開いていたらしい。農協から指導方法がまわってくるそうだ。ちなみに水田研究会は年に一度開かれる。水田では四ヶ月で米ができるので、直接指導されるのはわずか1年である。その後はみかん部会と同じように配布物ですまされる。和牛研究会は毎月開かれ、獣医さんや指導員によって指導がなされるらしい。 牛について。牛尾呂では、昭和46年頃から、農協や開拓農協の資金を導入して、黒牛の肥育をするようになった。肥育以前は役牛(しかし牛に直接働かせることはまずなかった)として牛は飼われていた。子牛は現金収入として売られていた。歳をとった牛は博労に交換してもらっていた。博労とは牛や馬を売買して差額で儲ける職業で、実際口がうまく、牛や馬を買いたい者は博労の袖の内に手を入れて、牛の買値を指を立てて示していた。当時は各家庭で牛が飼われており、一家庭平均20頭くらい飼っていた。多い家庭では130頭飼っていたところもある。一時は村で300頭以上飼育していたときもあったが、昭和48年のオイルショックから値が下がりだし、50年頃から肥育牛の頭数が減少している。現在では3軒しか牛を飼ってはいない。昭和55年頃から肥育牛と生産牛を併行して飼育するようになり、生産牛が次第に増加する傾向にある。牛捨て場はありますか?と尋ねたところ、少し言いにくそうに(?)「牛は死んだら産業廃棄物として扱われるんよ。」と。そして、焼却されたりするらしい。昔はそれでお金が貰えていたようだが、今は逆で、お金を払わなければならない。粗大ゴミと同じ扱いかぁ・・・、と思うと、土橋さんのうちの前に立っている牛舎の牛たちを既に見ているだけに辛い。 道について。「道にも呼び方のあっとよ。」牛尾呂の元の道は人馬が通るだけの狭い道であった。昭和25年頃から、1号線が、4期に分けて改良工事が施され、昭和31年頃までに拡幅整備された。昭和34年頃、牛尾呂の尾根を通る2号線と3号線が造られた。現在、1号線と2号線が町道として認定され、舗装工事が成され、3号線は開拓道路としてくの発展に寄与している。・・・というのが公的な情報である。牛尾呂では1号線が生活基盤をなすものであり、尋ねてみると学校へ行くのもこの道であり、買出しなどに使われるのもこの道である。土橋さんも古川さんも、「とにかく1号線やけん!」と仰っていた。また、少し照れたように教えて下さったのは、「銀座通り」だ。牛尾呂の中で特に住宅の密集しているあたりのことだそうだ。牛尾呂は山の中の村、ということで、塩や魚はどこをとおって運ばれてきていたのですか?と聞くと、やはり「1号線。」とのこと。では誰が運んでいたのですか?自分的には例えば昔で言う飛脚のような、今で言うコープのような、そんな職業のひとがいたのかなぁと何となく想像していたのだが、そうではなく、各家庭が、必要なときに必要なだけ買いに出かけていたらしい。これ以前の質問の答えなどを思い出しつつ、基本的に牛尾呂のひとは、自分のことは自分でするんだな、という印象を受けた。峠を越えてくる動物はいましたか(いますか)?いのししやうさぎ、たぬきなどがそうだったらしい。特にいのししは水田を荒らしたり芋畑を荒らしたりと、大変な存在のようだ。最近またいのししによる害が増えてきていると土橋さんは仰った。電木を立てたり、水田や畑を囲う紐にラードを塗るなどしていのしし対策をしているそうである。おもしろい話を聞けたので書いておくと、大坂(オオザカ)峠という峠が牛尾呂の入り口らへんにあるのだが、そこの変化は相当なものらしく、気温の違い、気圧の違いが肌で分かるそうだ。気圧の違いというのは、耳がワーンとなることで察知できるらしい。自分たちはバスに乗ってきたので気づけなかった。残念だ・・・。あと、雪が降ったときにも面白いことが起こる。峠より上には雪が積もるのに、下には雪が積もらないそうだ。その境界がかなりはっきり出る、とのことだった。次にこの調査に行くひとには是非とも体験して頂きたいものだ。 最後に、村の神様の祭りについて。牛尾呂の神様と言えば、なんといってもやはり牛尾呂さんである。「牛尾呂さん」は「お月さん岩」ともいう。多古里、津の浦、今里区民の信仰が厚く、先述したように雨乞い祈願もする。また、牛尾呂さん祭りというのがあって、正五九に祭りをするという。正は正月で、「五穀豊穣」の一対の幟を立てて、五月は今里、九月は多古里と牛尾呂が祭りをする。土橋さんは懐かしそうに、今でも時々見に行くと語っていらっしゃった。部落と部落の親睦を深めるため、他部落の区長さんも呼んでいた。このころから牛尾呂では牛尾呂さん祭りは9月1日と決まっている。現在は、多古里は上がっては来ずに、下で牛尾呂さんの方を向いて行っているが、今里は今でも子どもから大人まで参加して上がってくるそうだ。ちなみにこの日は、区の敬老会と牛魂碑の慰霊もかねている。他の行事はありますか?と聞いたところ、神様が関係ない行事自体は他にもあったのだけれど、子どもがいなくなるのに比例してそういう行事もなくなっていった、と、土橋さんは仰った。「昔子どもがいた頃は、海に連れていったり、花見をしたりねぇ、あったんだけど。」やはり、子どもが少ないというのはいろんな意味で問題なのだと感じた。 時間ぎりぎりまで、土橋さんと古川さんはいろいろな話をして下さった。自分たちにとってはどれも新鮮で、聞くもの聞くもの経験者の言葉ということで、話のひとつひとつに重さがあった。不明確そうな答えはわざわざ太良町誌で調べてくださったり、話の途中でお茶を注いで下さったり、本当によくしてもらった。時間が来て、バスが来る予定の場所まで行く。土橋さんが見送りに出てくださった。私たちに缶コーヒーを手渡しながら「忘るっぎいかんばい。」と仰ったのが印象的だった。バスが来るまで牛舎の前で話をしていた。忘れられない時間だ。バスが来て、手を振るときがくる。感謝の気持ちでいっぱいだった。いつか月の引力を見に来たいです。この場を借りて再度お礼を言わせていただきます。土橋さん、古川さん、本当にありがとうございました。 |