◎ はじめに 6月30日、僕らはバスで太良町津ノ浦へ向かった。12時頃に着くと思っていたのだが、予想より早く11時半頃に着いたので、今回お世話になる平井さんのお宅に伺う前に道草をくって熊野神社に寄ることにした。この神社は部落の行事でも使われているらしいのだが、かなり汚れていて、あとからこの神社がまだ使われていると聞いたときは本当にびっくりした。まあ、使われている行事については後述するとして、ここでしばらくの時間を過ごした後、それでも約束の時間よりも早かったので今里という津ノ浦の隣の部落に足をのばした。なんとここのキャッチフレーズは「月の引力が見える町」である。偉そうなもんだと思いながら、どうしてそう言われるのか歩いてみると、そこには潮の満ち引きがはっきりとわかる入り江があった。そういうことかと納得してから、そこをあとにすると、時間もちょうどいいくらいになっていたので平井さんのお宅に向かうことにした。 平井さんのお宅に着くと、なんと平井さんは2時からだと思っていたらしく慌てて部落について詳しい方々を呼びにいかれた。アポのとり方が悪かったのかと少し申し訳なく思いつつ長老の方々の到着を待った。 ◎ しこ名について しばらくたつと3人の方々が来られた。最年長80歳の内田勝夫さんと宮崎国蔵さん・73歳、そして「はっちゃん」こと69歳の山中初次さんである。それに平井俊哉さんを加えた4人で僕らの質問に答えてくださったのだが、4人ともとても気さくな人たちで非常に質問がしやすかった(仲間内でしゃべるときの佐賀弁は全くついていけなかったが)。 僕らは最初にこの調査の目的が「失われゆくしこ名や伝統行事、独自の文化を記録に残し,後世に伝えるためである」ということを話して本題に入った。まず、しこ名について田んぼとかについている名前ですという説明を加えた上で尋ねてみると、昔から田んぼ一枚一枚を名前で呼ぶことはなかったと言われたので、どうしたものかと少し戸惑ってしまった。そこで、津ノ浦の人たちの間で呼び合っている場所の名前はないですか、と質問を変え、小字が書かれた地図を広げて尋ねると、その地図を見ながら「このスジチガイてゆうとこはシチキャーて言いよった、シチキャーて。」、「うん、シチキャーて言いよんね。」と津ノ浦特有の言い方を教えてくださった。これは何か出てくる雰囲気なのでは、と思いつつ他にはないかと尋ねていくと、出てくること、出てくること。「ツノウラバルてゆうとこはツジ。」、「ドウリュウち書いてあんね。そこはドウリヤマちいいよった。」、「ツボイはツべーてゆう、ツべーて。」などなど。4人が4人とも同時に話してくださるので、ありがたいんだか、どうなんだか・・・。でも、みんな一生懸命話してくださるのでへこたれるわけにはいかない!気合を入れなおし、おっしゃっていること全てをメモっていく。そしてついに!「おんなじクボのなかにもね、ここは谷んごつなっとるでしょうが。だけんここはタニてゆう。」そういうのが聞きたかったんだ、僕たちは!この流れでどんどんいくぞ!と思いきや、思ったほどたくさんは出なかった。実は、それもそのはずで、話によると、ここ太良町はもともと大浦村というところだったらしく、その頃に今の部落名が付けられたそうで、そもそも津ノ浦というのも今日、しこ名と呼ばれるものであったらしい。そのため、いま太良町の役場でも配布されている小字図に記してある小字が実は僕らが探しているしこ名と同様のものであったりするのだ。数があまり出ないとわかっていても、平井さんをはじめ他の3人の方々もすごく悩んで、必死で僕らの力になろうとしてくれていた。ほんとに感謝感激雨あられである。「ツべーの下ん方、あのへんはなんて言いよったかいね。」、「んー、はっちゃん、なんて言いよったかね。」、困ったときの「はっちゃん」こと山中初次さんは「あのへんはシュウジてゆうど?」、「ああ、そぎゃんゆうね。」。やっぱり「はっちゃん」はスゴイ!ほんとにいろいろ知ってらっしゃる。「シュウジてゆうとこがなんでそうよばれるかてゆうと、ようわからんばってん、昔はそこに囚人が集められとったけん、そっからきとるんじゃなかろかと思う。うちのじいさんがシュウジてゆうとえらいおこりよらしたけん。これは私の考えばってん。」いや、たとえこれが個人的見解であってもかなり説得力がある。一度時間をかけて調べる価値はありそうだ。「ナカイマザトてゆうとこに墓地はなか?そこにシュウジノハカてゆうとがあるよ。」「クボとドウリヤマ(ドウリュウ)の間で、ツノウラの下んところはササバルて言いよったね。」今も使ってるんですか?、という僕の質問に、「今もつかっとるよ。ササバイてゆうかね。」、「ササバルてゆうね。」。・・・ササバルなのかササバイなのか?多分これは個人によって違うようだ。「昔はササバイ通って海に行こうかとか、こっちから行こうかとか言いよったよ。」若い頃の話をなさるときの宮崎さんたちの顔はとても楽しそうでもあり、懐かしそうでもあった。 ここで今まで聞いてきたしこ名を地図におとす作業を行った。しかし、たとえばササバルにしてもシュウジにしてもあくまで津ノ浦の人が自分たちの部落の中で呼んでいる名称であるから、今、小字として機能しているのに比べると、小字のほうはあざ道と呼ばれる道で分けられているのに対して、しこ名のほうははっきりとした範囲が定められていないのだ。そのため、地図に落とすのは大まかな範囲となってしまった。まあ、区画がはっきりしていないほうがかえって逆に、いかにもその部落独特というか役所が決めたわけではない感じがあって、事実っぽいと思ったのだが。だいたいの範囲は別紙の地図におとしてあるが、ここに知ることのできたしこ名を列挙しておこうと思う。 小字ツボイのうちに・・・ツべー、スキザキ(鋤崎)、シュウジ 小字スジチガイのうちに・・・シチキャー 小字ツノウラバルのうちに・・・ツジ、マツヤマタニ 小字ナカイマサトのうちに・・・シュウジノハカ 小字フルサトのうちに・・・フッサト 小字ドウリュウのうちに・・・ドウリヤマ、ササバル(イ) 小字ナラヤマのうちに・・・ホイキリ 小字クボのうちに・・・タニ 一応上のようになるが、津ノ浦の方言で言われた小字もしこ名として含めてある。これは前述したように、現在の小字としこ名の名称が同様のときがあることを考慮したためである。 ◎ 行事について ここ津ノ浦で行われている年間行事について下にまとめてみた。 * 1月4日 初祈祷 * 7月 田祈祷 * 8月8日 薬師堂千灯篭 * 8月16日 若宮神社千灯篭 * 12月1,2日 霜月祭り 1月4日に行われる初祈祷とは部落の者みんなで一年の無病息災と家内安全を願うものである。これは薬師堂で行われ、108個の玉でできた直径3メートルほどの数珠をみんなで持ち、この数珠に含まれる5個ほどの大玉(直径10センチ)が手元にきたときに拝むというものだ。鐘と太鼓を鳴らして行われ、この数珠で体を巻かれた人は健康になるといわれている。 7月の田祈祷は津ノ浦の氏神様が祭ってある熊野神社で執り行われる。これはその名のとおり田植えが終わったあとに米の豊作を祈るものである。こういう風習は多くのところで行われているだろう。 8月8日の薬師堂千灯篭は多くの灯篭を並べて祭るものである。昔は子供が主にこれをやっていたが、近年では子供の数の減少が進んでいるため、かつてのようにはいかなくなった。心なしか、このことを話しているときの平井さんたちの表情は少し寂しげだった。少子化が進んでいることに加え、若者が都会へと出て行ってしまうための結果なのである。 8月16日の若宮神社千灯篭は薬師堂千灯篭と違って、青年たちが主体となって催される。大人の祭りであるから、お茶や御神酒がふるまわれる。かつては出店があったが、最近では前ほどの盛り上がりを見せなくなったなってきたため出されなくなった。 12月1,2日にある霜月祭りは熊野神社で行われる一年で最後の部落の祭り。これは五穀豊穣を神に感謝するためのものである。 ◎ 過去の津ノ浦・1(水について) しこ名、行事の話を聞いたあとは今までの津ノ浦の歴史について尋ねてみた。 まず、田んぼに引く用水のことだが、昔は若宮神社のふもとから湧き出る水と今の池田さん宅の下の湧水を使っていたらしいが、40年前に亀の浦からの町水が通ってからはそれに頼っているらしい。今は、とてもじゃないが湧き水は使えないということだ。「あらあ、もういかん。もう使えん。」このときの感じからして、相当汚いのだろう。また、水に関連して台風のときの影響などについて聞いてみた。すると、過去に人的被害が出たということはなかったらしいが、田んぼや家屋に大きな被害が及ぶことはあったそうである。まあ、このへんは他とあまり変わらないのではないかと思う。では、逆に旱魃のときはどうだったのか。ここでは、僕らが期待していた答え、つまり雨乞いの風習について聞くことができた。今ほど用水設備が整っていなかった昔の農家にとって、雨が降らないことは死に等しいことであった。ただ雨を待つしかない農民がすがるべきものは唯一、神だけである。そこで、津ノ浦の人々は部落の者で多良岳にある牛尾呂水神にお参りに行っていたそうである。特に旱魃のひどかった昭和35,36年には太良町の者みんなで参拝する、千人参りが行われたということだ。みんなの力で神頼みし、雨を降らせようとする努力は果たして報われたのか?ところが・・・。「こんときゃあ、かえって陽のかんかん照ったもんなあ。」えてして努力とは報われないものである。さらに、不幸はこれだけにとどまらず、「しかも、そん次んは年は大水んでたしなあ。」これは神のいたずらか?なにも旱魃のときの分もまとめて降らすことはないだろうに。とにかくこの頃の人には同情します。 ◎ 過去の津ノ浦・2(農業について) 日本は第2次大戦後の農地改革があるまでは地主と小作人という関係が農村の基本的な形であった。津ノ浦でのそれはどのようなものだったのだろう。聞いてみると、やはり相当厳しいものだったようだ。ここらへんの大地主は中野さんと北嶋さんであった。特に中野さんは津ノ浦のおよそ8割を所有しており、ほとんどの人がこの人の土地で耕作していたと考えられる。収穫高のだいたい5〜6割を納めていたため、生活は苦しく、きついものだったらしい。手元に残る米のうち大半はお金と引き換えるため、実際に食べるのはほんの少しで、主食となるのは麦や芋だったそうである。さらに入会地と呼ばれる土地の管理もしなければならず、それも大きな負担となっていた。このあたりの入会地はシチキャーヤマと呼ばれる山であり、部落の者で草刈や枝打ちを行っていたそうである。食べ物も満足に食べられないなかでの労働がいかに大変かは、今の僕たちには容易に想像できるものではない。 またこの頃は、農家一軒一軒に牛がいたらしい。これは、農作業に使う牛であり、牛洗い川としては田古里川が使用されていた。しかし、今となっては牛(=乳牛)を飼っているところは全部で3軒しかない。またブロイラー(食用鶏)を飼っているところはわずか2軒、かつて20数軒あったみかん農家も今は12,3軒にまで減ってしまったらしい。しかも、ほとんどが兼業農家というから日本の第一次産業従事者の減少が顕著であることがわかるだろう。 ◎ 過去の津ノ浦・3(若者について) 一昔前までは青年宿、青年クラブといわれる若者の集会場があったらしい。これは戦後10年ほどして自然消滅したらしいのだが、それまでは若い男子青年の格好の溜まり場だったらしい。年頃の男たちは毎日のようにここに寝泊りし、ときには柿泥棒やすいか泥棒をやっていたらしく、悪事がばれると年配の者たちにひどく叱られていたそうである。しかし、同じ青年クラブ内での上下関係はさほど厳しくなく、オープンな間柄であったと言えそうである。こういう集まり場は他の地区にもあったらしく、そこの者たちとの交流も頻繁に行われていたらしい。たとえば他部落の者と相撲をとったり、他部落の祭りに出かけたりということである。また、部落の伝統的な仕草をしながら部落内をまわったりもしたそうだ。 ここで男女の関係について触れておくと、昔は今のように人前で平気に手をつないだり、べたべたすることは周りから軽蔑されることにつながったそうである。青年宿に女子青年といって来る者もいたが恋愛関係になることはなかったそうだ(夜、飲んで話すだけ。)。事実、結婚相手は親が決めるものであり、親の意見は絶対であった。だからこそ夜這いというような風習が生まれたのだと思うが、それについて具体的な話は聞けなかった。これが唯一の心残りである。 また、ここであげた青年宿があった場所は現在津ノ浦公民館となっている。 ◎ 最後に 今回津ノ浦を訪れてみて、一番印象に残ったことは、部落の子供たちの話になったときに平井さんをはじめ4人の方々がとても悲しげな表情をされたことである。今すでに多くの部落の若者が都会に出て行き、この地区の過疎化が進んでいる。話によれば、後継ぎがいなくなってしまう家がいくつもあるらしい。自分たちの育ってきた部落がこのような状態になってしまうのは、何とも言いようがないものだろう。今回の僕らの調査が、失われつつある津ノ浦の伝統的なものを残すことに貢献し、過疎化に少しでも歯止めがかけられたらと思う。 最後に、今回の調査に協力してくださった平井さん、内田さん、宮崎さん、山中さん、そしていろいろ気をかけてくださった平井さんの奥さんに心の底から感謝の意を示したいと思います。本当にありがとうございました。 お世話になった人 平井俊哉さん夫妻 内田勝夫さん 80歳 宮崎国蔵さん 73歳 山中初次さん 69歳 |