佐賀県太良町田古里について
1lt01081Y 田中かほり
1lt01074G 鈴木くるみ
たずねた人
北島福義さん 昭和3年10月10日生
しこ名一覧
田古里 | 田畑 | 小字 土穴(ツチアナ)のうちに・・・・チチャナ(土穴)
小字 鬼塚平(オニツカビラ)のうちに・・・・オンツカ(鬼塚平)
小字 坪井(ツボイ)のうちに・・・・・ツベ(坪井)
小字 柏木(カシワギ)のうちに・・・・・ミネヒラ(柏木)
|
ここ田古里では、田畑は基本的に小字の名で呼ぶそうだ。(たとえば、小字次郎丸にある田なら、ジロマルと呼ぶ。)上にあげた4つは、しこ名と小字の漢字は同じだが、読み方が違うものをあげた。また、「桜並木(サクラナミキ)」という小字は、地図ではそう書かれていたが、地元では「桜並(サクラナミ)」と表記するということだ。
村の班の名前 | 現在の戸数 |
小字 | 出口のうちに・・・・コエナカ(越中) | 12戸 |
小字 | 上田古里・下田古里のうちに・・・・イバ(射場) | 12戸 |
小字 | 出口のうちに・・・・ニシ(西) | 7戸 |
小字 | 柏木?桜並のうちに・・・・デグチ(出口) | 9戸 |
小字 | 多於・上田古里・多太良のうちに・・ヒガシ(東) | @4戸A8戸 |
小字 | 唐津・根若・下田古里・鬼塚平のうちに・・シモ(下) | @9戸A8戸B8戸 |
このうちヒガシは第一班と第二班に、シモは第一班、第二班、第三班にそれぞれ分かれている。元はヒガシ、シモと一つにまとまっていたが、人口が増えるにつれ分かれたそうだ。範囲は地図に示す。
使用している堰の名前
小字 五郎八のうちに・・・・ウーゼ(大井手)セキ
小字 桜並のうちに・・・・ブクブクセキ
小字 前田のうちに・・・・ナガフチゼキ
小字 土穴のうちに・・・・キシノシタ(岸ノ下)ノセキ |
用水源はすべて田古里川だそうだ。この川を共有しているのはノアゲ(野上)、中畑(ナカバタケ)、ツノウラ(津ノ浦)の三ヶ村だ。堰の名の由来はわからないという。
乾田・湿田・肥料について
乾田・湿田について尋ねると、「湿田は今はもう廃田になっとう。」とのことだった。そのわけは減反にまわしてしまったからだそうだ。おそらく湿田はあまり収穫もよくないからだろう。また昔はどんな肥料を使っていたのか、という質問には「硫安と灰石」だということだ。今はBB肥料を使っているが、特に育ちに差はないという。ちょっと驚いた。ただあまり使いすぎると稲が倒伏してしまうので、量には気を使うそうだ。祭田(マツリタ)について次に、「村が共同作業することはありませんでしたか。」とたずねると、しばらく考えたあと、「祭田じゃんねぇ、この場合」と、祭田というものを教えてくださった。それは部落の何ヶ所かにあり、村の中の3〜4戸が田植えから稲刈りまで、共同で農作業にあたるというものだそうだ。祭田は一年で作る人が交代する。その年の祭田耕作者の中の一人が祭元(マツリモト)となり、
12月2日〜3日に、祭田耕作者が祭元の家に集まり、米を供え豊作を祝う。これを「霜月祭」
という。この祭田のある場所をチチャナというそうだ(地図参照)。しかし、今はもう祭田の共同
耕作は行われていないそうだ。祭田の土地はあるものの、これも減反のため放置されている。減
反も圃場整備も、少なくとも古い農村の姿をとどめるという観点から見れば余計なことだったよ
うだ。
田のあぜについて
田のあぜには小豆を植えていたそうだ。お正月用だったり、あんこでおはぎを作ったりしていた
らしい。
農薬について
農薬がないときは灯油を使っていた。20cmくらいに竹を切って、節をほかし、下のほうに穴
をあけて田に流していたそうだ。「効果はどうでしたか」との質問に、「今の虫とちごうて虫がい
なくなりよった」とおっしゃった。強力な農薬に慣れてしまった今の虫は、昔よりはるかにしぶ
とくなっているのだろう。
農作業の楽しみ・共同田植え
次に、農作業の楽しみについてたずねたところ、「そりゃーおやつやね」という返事だった。一瞬
ポテトチップスのようなスナック菓子を想像してしまったのだが、もちろんそうではなくて、お
茶と一緒に小麦で作った団子とたくあんを食べるといったものだったそうだ。3時くらいに「お
茶のもうか」といってみんなでおやつを食べたということで、なんだかのんびりとした雰囲気だ。
「共同で田植えをすることは」と訊くとそれはイリというのだと教えていただいた。それぞれの
家が苗床(ナエトコ)という苗用の田を持っていて、それぞれ自分の分を育てておく。まいてか
ら40日〜45日で苗が育つそうだ。それからがイリと言う事になる。きょうはAさんの田、そ
のつぎはBさんの田という風に順番をまわして植えていくそうだ。田植えのあと、田でみんなで
お昼を食べたりしたらしい。一方稲刈りは共同ではなく自分たちの分は自分たちだけで刈ったそ
うだ。「今は機械があるので、ずいぶん楽になったが、昔は苦労した」と北島さんもおっしゃって
いた。
入りあい山・牛のえさについて
このことについてたずねると、最初は「入りあい山は、なか」とおっしゃっていたが、共同山は
あったと思い出してくださった。昭和30年代くらいまで8人の人が共同山にはいってまき(燃
料)を作り、もって帰って分けていたそうだ。また牛には主に田のあぜに生えている草を食べさ
せていたそうだ。またふすまを牛の飼料として農協から買うこともあったそうだ。
祭りについて
このことについては、北島さんが詳しく紙に書きとめていらっしゃった。それによると、
昭和22〜23年ころまで田古里は50戸あまりの部落で、大小7つの祭りが行われていた。
初祈祷や八天祭においては、県道(旧国道)を境に西班、東班、下班の三つに区分され、それ
ぞれの班毎に祭元と呼ばれる家があった。祭元の左右両隣の人が世話人で、祭元の家で料理を
作り、他の人は祭元へ夕食を食べに行くという風習があった。祭元は一年交代制である。しか
し、現在はこの祭元制度は行われていない。
1月4日 初祈祷
これは百万遍初祈祷という四百年の伝統ある行事で家内安全・無病息災の仏事の祭である。
当日は午後から部落の人は子供から大人までお寺の本堂に集まって、太鼓・鐘を打ち鳴らし、
大きな念珠を繰り回して一年間の無事を祈る。
2月25日(旧暦) 天神祭 (天神ごもりといっていた)
八坂神社(祇園さん)の境内に部落一同が集まり、神様へ酒を供え、境内にむしろを敷き酒盛
して祈る。現在は行われていない。
7月 田祈祷
田植が終わり次第(当時は7月8日〜10日)、神様に、「田植えが無事に終わりました。今年
もよい稲穂ができますように」と祈願する行事。当日は、八坂神社(祇園さん)の境内に部落一
同が集まりむしろを敷いて酒盛をし、笛、太鼓、鐘を打ち鳴らす。また浮立(フリュウ)を八坂
神、お寺、観音様へ奉納し、太良岳神社や牛尾呂神社へは宮田政一氏宅前で奉納していた。
現在田祈祷行事は行われているが、浮立は行われていない。
7月14日 千燈呂(祇園祭)
この行事は古くから青年団の行事であった。前日から青年男女が青年倶楽部に集合し、古い
燈呂の張替え、神社の掃除、燈呂祭りの準備等をする。また千燈呂のほうがいといってメゴ
を担いで米や麦、野菜、お金等もらって、神様へ奉納し、夜は燈呂に灯をともして祭る。
当時は野中岩男さん宅が青年宿といい、千燈呂のときにはそこで青年女子の手料理で食事を
し、翌日は後かたづけ、夜は仕事祝い等して青年団の収入源にもなっていた。
11月3日 くんち祭
この日にくんち(秋祭)が行われていた。この祭りは神様へ新米やお酒を備え、「おかげさま
でよいお米ができました」と感謝する祭りである。当日は、八坂神社(祇園さん)の境内に部落
一同が集まり酒盛をし、笛、太鼓、鐘を打ち鳴らして浮立(フリュウ)を奉納し、豊作を喜びあ
う。また区長さん宅や、お寺、観音様、病院、部落の有志の家々にも浮立奉納をしていた。現
在浮立は行われている。
12月 八天祭(八天さん)
鹿島市谷所にある八天神社(火の神様といわれている)に、区長や各班の祭元の人たちがお
参りをし、おみくじをいただいてきていた。ほかの人は翌日の朝祭元の家に行き食事をして
おみくじを見、来年の農作物のよしあし、水害火災の有無、台風やその他色々の事故等を占
っていた。現在は区長が代表で行っている。
12月 霜月祭
この祭りは稲作農家の祭りで、部落の各ヶ所に4〜5戸の家が共同で田ん中を耕作し、田植
えから取入れまで共同で行い、取れた新米を神様へ供え、12月2日の夜から3日まで祭元
で料理・食事をし、豊作を祝う農家だけの祭である。
※この場合の祭元は八天祭の祭元とは異なる。
浮立について
浮立は、部落の男性が子供からお年寄りまで、そろいのかつらと面をつけ笛を吹きながら
部落の中を練り歩くというものだそうだ。昔は隣の部落と出会ったりすると、張り合って競
い合ったものだ、と北島さんも懐かしそうに語ってくださった。「笛を吹かれていたんですか」
とたずねると、わざわざ笛を持ってきてくださった。箱を開けると、使い込まれた笛が姿を
あらわした。すると「吹いちゃろうか」と、北島さんが口にあてて笛を吹いて下さった。
ちょっとかすれ気味の、なんともいえない素朴な音がする。みんなそろってこれを吹くと、
さぞ壮観だろうなあ、と思っていると、お面もあるよ、とお面までもってきてくださった。
鼻が伸びていて、黒い天狗のお面といったところだ。笛を吹く姿とお面をつけた姿の北島さ
んの写真も撮らせていただいた。一時この浮立は行われなくなっていたのだが、地区の人の
努力によって再び行われるようになったそうだ。北島さんが書かれた「浮立について」に載
っている写真には、子供から大人まで、そろいの衣装と白いかつらをつけて楽しそうに写っ
ていた。これからもまたずっと続いていってほしいと思う。
歌について
北島さんからたくさん歌を教えていただいた。
○夏休みのうた
このうたは、北島さんが子供のころわけもわからず歌っていたものだそうだ。今見るとまるで
夏休みに配られる「夏休みの注意」のようだ。子供はそんなプリントなんか見ないから、これ
を子供たちに覚えさせた先生は、とても上手なやり方をしたと思う。
?今は学校夏休み 体を大事の夏休み 転ばぬ先の杖として つつしみ守れやよ子らよ
?朝は六時に起き出でて 夜は十時を過ごすなよ 昼寝はなまけの元にして 寝冷えは病の元なるぞ
?世に恐ろしきはコレラ病 セキリやチブス腹下し これぞわれらが夏の敵 油断をするなやよ子らよ
?生水だんごところ天 冷やまんじゅうに冷やぞうめん 売れぬ果物かいやえび 病は口より入るものぞ
?腹八合に医者いらず いかほどうまき物とても この上少しと思うても それにてひかえやよ子らよ
?時へし物は食べるなよ はざ食い買い食いするなかれ 世に恐ろしきは口の欲 世に珍しきは良き子供
?坂やる車のあとじさり 読み書き算術そのほかの 復習およそ一時間 朝の涼しきそのひまに
?父母の言いつけよく聞いて 家の手伝い怠るな 言はれぬ先の庭そうじ 日記はその夜の仕事なり
?旅行はその身の得なるぞ 記念に物を持ち帰へれ 水に泳ぐはよけれども 許しを受けよ場所告げて
?一人泳ぐは危うきぞ 太き友達連れよせよ 長き泳ぎは腹下し また熱病のもととなる
?帽子に傘やはきものは 日中外でに忘れるなよ 夜寝るときの腹まきは 寝冷えを防ぐものなるぞ
?命ありてのものだねと 病気は必ずかくすなよ 強き体をひきさげて 集るその日の待ち長さ
※北島さんによる注
この歌は大正5年ごろ、当時この地の学校の校長坂本桝太郎先生が作詞、古賀栄一先生作曲の、
唱歌というよりもわらべ歌に類する。子供たちは夏休みになると、地区の神社に集り、上級生の
指導で自習をして、最後にこの歌を歌って別れるのだった。
○民謡
ほかにも19ほどの歌を教えていただいた。北島さんの親切に、本当に感謝します。
子守唄
おれろんの焼モチちゃ一銭がて 九つまけて十をいち ちゃんやい
くんちにゃくんちにゃ あとママとベベと炊(ちゃ)て くわすけん なきやんな
ジャンケンポイ
じゃんけんぽいの しんのす から ほけん 出たポイ
ぞうりかくし
ぞうりかくしくねんぼ 橋の下の小ネズミが ぞうりをくわえて チュチュチュのチュ
なわとび
印度がにいさん さつまの嫁さん 神戸の婿さん 名古屋の花ちゃん クラブのじょうちゃん
くまさんくまさん片足上げて くまさんくまさん両手をついて くまさんくまさん廻れ右
くまさんくまさん万万才
あおばしげちゃん(おしと遊び)
あおばしげちゃん ノンキ買って 先生に見せたら叱られた 自分で食べたらうまかった
馬からけられていたかった 母あちゃんに孝行なんじゃろか 白まんじゅうに赤まんじゅう
てまりつき唄
お前の屋敷 お梅が三本桜が三本合せて六本 人が見るから ちょいとかくす
木挽き唄
ヤアーレエ山で子が泣く山師の子じやろう他に泣く子があるじやあゝないようアーヅロツコ
ンゾロツコン
石棒つき唄
ハアーヨウ私(ワシ)が思いは多良岳山の落ちる木(コ)の葉のソリヤ数思いにやアーヨウ
イヨイヨイトナ
ナツチヨラン節
下士官の前に行きや面倒くさい伍長勤務は生意気で粋な上等兵にゃ金がない可愛新兵さんに
ゃひまがないナッチョランナッチョラン
あなづり節
竹崎どんく島どんくおっけかぶせて打ちころせ 白石ぜんむん佐賀ぬすど糸岐すっぽ多良
おゝど
ぼんさんぼんさん(てまりつき)
ぼんさんぼんさんなぜなくの 親もおらずに子もおらずたったひとりのぼんさんが 山から
ころんで死にました 死んだと思えば四十九日 四十九日がすぎたならお墓参りをいたしま
す 人が見るからちょいとかあくす
ラッパ節
今なる時計は八時半 それにおくれりゃ重営倉 今度の日曜がないじゃなし はなせ軍刀に
錆びがつく トコトットット
一かけ二かけ セッセセー手合わせ
一かけ二かけ三をかけ四かけて五かけて六をかけ 七のらんかん手を腰にはるか向うをなが
むれば 十七、八なる小娘が片手に花持ち線香持ち お前はどこかと問うたなら 私は九州
鹿児島の西郷の娘でございます 明治九年の戦争で討ち死になされたお父さんお墓参りをい
たします お墓の前で手を合わせ ナンマンダーブツ ジャンケンポイ
からすじょう
からすじょうからすじょう なし首やなげたかん ひだるかったけんなげた ひだるかいば田
つくいやい 田つくいばよごる よごれたろば洗いややい 洗えばつめたか つめたかろばあ
ぶいやい あぶれはあったか あったかろうばすうだい すうだればしいつく 立てば頭つく
うんと立って死ないた
ラジオ体操の歌
おどる旭日の光を浴びて 曲げよ伸せよ吾等が腕 ラジオは叫ぶ 一、ニ、三
竹崎名物
竹崎名物数あれど 夜道の暗いのにゃちょいと困る 朝の出船のいさましや あゝ貝むき娘に
送られて
*水利と水利慣行について
北島さんの話によると、田に引く水は田古里川から引いているとのことだった。井堰は、ウーゼ
(大井手)堰、ブクブク堰、ナガフチ堰、キシノシタ堰の四つがあった。北島さんは、ブクブク堰の
名前を言うとき、少し照れくさそうに笑われた。私たちもそんな名前の堰があるとは思わなかった
ので面白かった。このおかげで、初めての調査での緊張がほぐれ、和やかな雰囲気になった気がす
る。しかし、ここで問題発生。井堰の位置を地図に示してもらおうとしたが、5000分の1の基本地
図がごちゃごちゃしていて、何がなんだかわからない。三人でしばらく悪戦苦闘した結果、まず住
宅地図(「これの方がわかりやすいねえ」と北島さん。)に示した後、基本地図で探すことにした。
なんとか地図に井堰の位置を示してもらい、次に、田古里川を水利としていた村が他にもあったか
尋ねた。
田古里川を利用していた村は、田古里の他に、ノアゲ(野上)、ナカバタケ(中畑)、ツノウラ(津
ノ浦)だそうだ。今でもこの四つの村が田古里川を利用しているが、水利に関する取り決めなどは
ないということだった。そのことを聞いて、私たちが、「じゃあ、特別水で困ったりすることはなか
ったんですか。」というと、「旱魃のときは困るけどね。」とおっしゃって、話は自然と旱魃のことへ
進んだ。
今は旱魃が起こった場合、ポンプで水を汲み上げて田へ入れるのだそうだ。「もし、50年前だっ
たら?」という私たちの質問に対して、北島さんの口から「カワシミズ」という耳慣れない言葉が
出てきた。「カワシミズ」というのは、「交わし水」と書くそうで、このことについて北島さんは大
変わかりやすく、例を用いて説明してくださった。交わし水というのは、時間割で水を汲みとる制
度で、例えば、8:00から12:00までがAさん、
12:00から16:00までがBさん・・・といったように、水路の近くの人々で時間をわけて
水を使っていたそうだ。(ちなみに10a当たり1時間と決まっていた。)
次に、旱魃との関連で、雨乞いや水害について聞いた。雨乞いは、大体雨の降らない夏場、朝5
時から村人全体でタラ岳に登って、神社に参拝したそうで、「効果は?」と聞くと、「うーん、ない
といえばないばいね」と少し困ったように笑われた。水害については、「昭和32年にイサヤ水害(諫
早水害)と昭和37年に大浦水害があって、田んぼが泥に埋まった。」と年号までするっとおっしゃ
ったのが印象的だった。
*村の生活について
北島さんが生まれたときには、もう電気は村にきていたそうで、だいたい大正末頃にきたのだろ
う、とおしゃっていた。それ以前は、ランプを使っていたと思われる。ガスがいつきたかというこ
とについては、「ちょっとわからんが、ここ最近たいね」とおっしゃった。それまでは、お風呂もご
飯もまきを利用していたそうだ。
昔、村では、どこの農家でも雌牛を飼っており、今の車の代わりに、牛を使って田を耕したそう
だ。また、田古里川を牛洗い場として利用していたということだった。馬は飼っていなかったよう
だ。現地に行く前、馬洗い場はあるが牛洗い場のあるところは珍しいと聞いていたので、牛洗い場
の話を聞いたときはちょっとうれしくなった。
次に、昔の地主と小作人のことについてお話を伺った。昔は地主の田や畑を小作人が耕し、小作
人は地主に「カリシイ」を払っていたそうだ。「カリシイ」というのは、田や畑の借り賃のことで、
年に一定の額をお金や収穫した米などで支払うことになっていた。また、逆に、小作人が自分たち
の家族で食べる米のことは「作米」と呼んでいたということだった。
次に私たちは、テレビがなかった時代、若者たちは夜何をしていたかということについて尋ねた。
私たちは、今、テレビを見たり、音楽を聞いたりして夜過ごすのを当たり前のように感じているけ
れど、よく考えれば、こういうことができるのは最近になってからのことだ。個人的に言って、私
にはこれが最も興味のある質問だった。北島さんもなんだか懐かしそうに話してくださった。テレ
ビのなかった時代、若者たちは、青年クラブに出かけていたそうだ。青年クラブには、17,8歳か
ら24,5歳くらいの年の若者が20人ほど集まって、しゃべったり、トランプや花札などをして遊ん
だそうだ。また、隣の部落の、同じような青年たちが集まるところへ行くこともあったということ
だ。青年クラブでは、年少者がお茶を沸かしたり、水汲みをする役割になっていた。若者たちは、
よほどこの青年クラブに愛着をもっていたのか、雨の日はここで縄をなったり、草履を作ったりし
たばかりか、みんなそこで寝泊りしていたらしい。なんか楽しそうでいいなと思ったが、残念なこ
とに、青年クラブに参加するのは男性のみだったということだ。女性はそれぞれ自宅にいたという
ことだが、何をしていたかについては、北島さんは男性なので、当然のことだがわからなかった。
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