歩き・み・ふれる歴史学
1LT01086K    土山 直子

<日程>
平成13年 6月 30日 (土曜日)

<調査地>
佐賀県 富士津郡 太良町 大浦甲 竹崎

<お話をしてくださった方>
大鋸廣海さん   大正15年生まれ

まず、竹崎に到着したときに到着地が港であったこともあり、ものすごく風の強い土地柄なのだなと思った。私がお話を伺った大鋸廣海さんは、調査地である竹崎の区長さんをしていらっしゃる方だった。調査に向かう以前に、調査の申し出をしたときから親切なことに「心配せずに調査にきてください。」とか、大鋸さん宅までの道はわかるのか?と、電話を下さったり、図書館にていろいろとあらかじめ調べていてくださったりと、温かな心遣いがとても嬉しかった。

大鋸さん宅を捜し歩いていると竹崎の人々が大鋸商店というガソリンスタンドそばにたくさん出てらして、区長さんの家というとサッと案内してくださった。

いろんな方に声をかけていただいて、心温かなところなのだな、と思った。

大鋸さんは、戦争にも行った経験のある方で、シベリアのバイカル湖付近、イルクーツクで抑留されたりとシベリアで2年を過ごしたことがあるそうだ。日本に帰る際、ナホトカに滞在したそうであるが、そこでは、共産党化が推し進められていて芝居をさせられたり、赤旗の歌を歌わされたりしたらしい。自宅の裏手のほうで、大鋸さんのお父さんの代から造船所を営んでいらっしゃる方で、現在は大鋸さんの息子さんが継いでらっしゃるそうだ。

<港付近のことについて>
戦前までは大鋸商店のあたりまで浜だったらしく、今もその名残を残す石垣が残っている。だから、戦後(昭和25・26年)に埋め立てられるまではゴロは危ないので、造った船は横木をわたして板を置いてすべらせて運んだそうだ。 竹崎の港は噴火口になっているらしい。その噴火口というのは何万年も前のもので今は潟になっているらしい。あまり深くはなく、大潮の引き潮の時には干上がっていて見えるらしい。また、防波堤も昭和26・27年にできたらしい。竹崎で作っている船は平底ものである。港が整備される前は、大鋸さんの家付近まで水がきていたらしい。今年の五月に役場と漁協のほうでしゅんせつしたらしい。

<道について>
私が来るとき通った大きな道は現在県道となっていて、戦後できたものであるそうだ。竹崎にはもう一本大きな道があり、これは、昭和10年にできたそうだ。

 
小字のうちに読み方漢字由来
ミヤノアト グーノシロ宮後 
センカクザキ チカクザキ  
ヌノカワ ヌノカワ *エピソード8
 トモジリ付近の断崖カンノンノホキ 断崖(絶壁)をホキと言うから。
 トモジリ付近の山シカヤマ *エピソード1
 シカヤマミョウケンハナ妙見ハナ 
  ヤモチ山内ホンドマリ
  フナツ船津
  シロウチ城内*エピソード7
  ナカシマ  
ハヤドマリ ハヤドマリ南風止まり*エピソード2
イワブネ イワブネ *エピソード3
ノヤトウ ヤトバナ *エピソード4
ホンドマリ ホンドマリ本止まり 
 道越から竹崎への道ワタシロ *エピソード5
  ナカバト(シンバト)なか(新)波止 
  イワノサカ  
  バンショノハト *エピソード6
  ウキミナト  
  オニイワ 港にある岩の呼び名
  メオトイシ 

* エピソード1
(シカヤマについて)

*エピソード2
(ハヤドマリについて)
4月以降7、8月いっぱいまで激しく南風をうける。台風のときなどこの付近や、道越付近まで船を移動させることが由来となっている。早めに移動させないと道越付近の人も同じように移動させるため、いっぱいになってしまうそうだ。つなぎきれない人は他に、田古里川付近までつなぎに行くらしい。

*エピソード3
(イワブネについて)
船のような大きな石(約10メートル)があったためこう呼ばれている。現在この石は平成5・6年に行われたお城の改修で持っていかれたため、ない。

*エピソード4
(ヤトバナについて)
明治頃まで灯台守もいた。海上保安庁の管轄で今も一人職員がいるとか…。海上保安庁がきたころ電気もきたらしい…。それまでは油だったとか…。

*エピソード5
(ワタシロについて)
満潮時にはここを船も通れるらしい。

*エピソード6
(バンショノハトについて)
諫早の番人がいたらしい。バンショゴヤもあるお茶屋敷も在るとか…。殿様の船も泊まっていたとか…。観音寺に参る人もここに来たとか…。

*エピソード7
(シロウチについて)
現在空堀と石垣が残っているらしい。

*エピソード8
(ヌノカワについて)
行基菩薩井戸を収めたら(?)一メートルぐらいの出水が出たため、それを飲み水にしたり、それで衣を洗ったりしたため、ヌノカワと言われるようになったという伝説があるらしい。

<交通の要所としての竹崎>
竹崎は昔から交通の要所であったそうだ。江戸時代など諫早さんが干潮時に竹崎まで来ては、竹崎で潮待ちをし、満潮時に鍋島・厘下の方へ行っていたとか…。主な動力は風・櫓・帆だったらしい。船便が多かったらしい。 また、島原に行く人や、観音様に参る人が寄るための、遊郭(ちとせ屋など…)が港付近には発達していたそうだ。(遊郭の廃止法が出るまでのこと。)

大正中期には竹崎港から大牟田を通る、鮮魚と貨物と人をつんでいく鮮魚船が出ていたそうだ。朝早く(6時か7時ごろ)から就航していたらしい。伊万里の山城町からきたフジイさんと言う方(現在3代目)がしているらしい。病院に行く人なんかもこの船を利用して大牟田に行っていたそうだ。(竹崎にはお医者様がいなかったらしい。)カシマのほうにも行っていたとか…。それゆえに、竹崎は非常に大牟田との関係が深いらしい。

大鋸さんが小学校2年生のとき(昭和9年)に山口〜諫早間の鉄道が開通したそうである。させほ線はそれまでにも在ったらしい。そして、昭和12年のシナジ線の開通に、この山口〜諫早間の鉄道が活躍したらしい。この線を久留米から長崎まで軍用列車(動力は蒸気)が兵隊・馬・大砲・物資・戦車を載せて運んだらしい。今では「長崎線は赤字路線だから廃止しよう」などということが起こっているが大鋸さんたちは反対しているらしい。

<竹崎の水利>
竹崎では出水が出る場所と出ない場所があって、ホンドマリのところでは出水が出るため、ホンドマリの人々は水だめ(イタンコサンノミズ)の水を使っていたらしい。ここでは、たとえ掘ったとしても水は出てこないらしい。かわって、ニシドマリ地域では、どこを掘っても水が出るらしく、家に井戸を掘っていたらしい。今は水道を使用しているそうだ。この水道を町水と呼ぶらしい。

<竹崎の食糧事情について>
一般的に主食である米が、ここではとれない。したがってもちろん水田は一枚もない。畑(段々畑)はあるが、とれるのは、イモ・ムギ・野菜ばかりなうえに、食べることはできても、打ってお金にすることなどできなかったそうだ。特に戦争中は、若い者を兵隊にとられて年寄り・子供しかいなかったため、終戦までものすごく貧しかったそうである。

<竹崎の産業について>
竹崎の主な産業と言えば、漁業である。主なものとして挙げられるのが、タイラギとカニである。

・タイラギ
大正の中期にタイラギが大量発生した。そのときにはまだ、モグリの技術が発達していなかったため、韓国からモグリを雇っていた。これが竹崎におけるモグリの始まりである。
韓国から、昭和初期までモグリを連れてきていたが、昭和16〜17年頃またタイラギが大量に増えたため、地元の人々にその技術を教えさせたため、竹崎ではすっかりモグリが盛んになったそうだ。昭和23年にもまたタイラギが大量発生したそうだ。漁の時期は12月から4月、ヘルメットを着けて潜ったそうである。現在は免許がいるようだが…。竹崎は淡水の村でありタイラギは浅いところ(10メーター内外)のところにいるそうだ。近年、浅海のモグリが3月から4月にかけて行われるが、タイラギがまったく成貝になっていないそうだ。その原因が何であるとは断定できないけれど、海底のヘドロ化か、もしくは干拓か、そういったことを理由にタイラギが酸欠を起こしているのではないかと大鋸さんはおっしゃっていた。

・カニ
カニは、昔からたくさんとれたそうである。時期的には、6月から11月くらいまで、夏のころに良くとれるのだそうである。(天草、島原はもっと遅くまでいけるらしい。)冬はとれず、カニかごや、カニ網を沖合に入れておいてとるそうだ。しかしとれたからといってもすぐに経済的に良い方向に役立つのではなく輸送が困難であったり、塩水の問題があったりと売るのが非常に困難であったそうだ。(お金にならない。)漁師の妻がいなって、行商に行っていたそうだ。また、このように扱いの難しいカニも「箱に穴をホガして出水のところにつけて常時食べられるようにする」などという努力がされていたそうである。

・その他
はぜ・はじ(たかはじ)はないらしい。
石が並んでいるのは魚をとるためのものらしい。石=つか石(うなぎがま)

<産業と生活について>
ふつうに漁業だけをしていたのでは経済的に食べていけないため、14〜20年ほど前まで四国や岡山のほうにモグリの出稼ぎに行っていたらしい。他県に出稼ぎに行くには相当なモグリの技術と道具が発達していなければならないが、竹崎ではその点で優れていたため多くの人が出稼ぎに出たらしい。

<畑の肥料について>
竹崎の畑で取れていたのはイモ・麦であるが、これを育てる上での肥料となったのは、たい肥(下肥・人糞尿)だったらしい。たい肥は、家の中や、田んぼの隅においた「たんぼがめ」のなかで溜池のようにして作られた。海に竹を立てて雑魚や地抜き(ふじつぼ)がひっついたものを鎌でこさいで加えたり、米のとぎ汁や、干潟のどろどろした土を加えたりして作ったらしい。 また、村で飼っていた豚の敷物などもたい肥の原料となっていたそうだ。肥料が本当によくできているかを確かめるために、それをなめる人(くさっているかどうか)のいたそうである。

<飼育している動物について>
前述した通り、竹崎では牛や馬ではなく、豚を飼っている。 一家につき1〜2匹飼っていたらしい。その目的は、生育して売ること、肥料の足しになることだったという。

<青年たちのことについて>
竹崎にも「青年宿」というものが存在しており、村の青年たちはここに寄って遊んだり泊まったりしていたそうである。一回建て変わって、昭和34〜35年頃まで存在していたらしい。現在では公民館となっている。八畳敷きの大きな布団にみんなで足を突っ込んで眠ったりと、とても楽しかったそうである。また、沖に出られない時化の折には宮相撲を楽しんだりすることもあり、そのための土俵や力比べをするための力石などがあったそうである。そのため、竹崎の青年たちは体格がよく、相撲が強かったそうだ。 夜這いの風習というのも在ったらしい。また、スイカや干し柿を近隣のところから盗むというようなことをしていた人も若干名いたとか…。

「青年宿」の規律(若者会規約)というものがあり、それは、一種軍隊式のようなものでとても厳しかったという。(お正月に行われる「オニ祭り」はこの青年会主催によるもので、行われている3日間はたとえどこに行っても必ず帰ってこなければならない、など。普段はあまり厳しくなかったそうだが…。)これを破ると、リンチ・びんた・しごき・仲間の団体で責任を負う、などと、厳しい制裁が加えられたそうだ。(今は制裁などない。)

また、青年の区切りとしては、昔は15〜40才までであったそうである。40才以上は「しくろう」と呼ばれた。今は15〜31才までと、独身者もこれに加えられるそうである。

<現地調査をしての感想>
本当にふだんなかなか聞けないようなことまで教えていただけてとても貴重な体験ができたと思っています。たった数時間竹崎にいてお話を聞いただけだけれど、あらゆる角度からのむらの姿を感じることができたように思う。竹崎のようなむらの昔からの姿をこれから先の未来に残していくことの本当の意義を現地を訪ねてさらに感じるようになった気がする。 この調査に本当に親切に協力してくださった大鋸さんに心から感謝したいと思う。