野崎

1EC00210T 佐々木彰宏 1EC00168S 吉原晋介 1EC00208G 坂井俊之

 バスで三時間かけて太良町に到着した。そこから徒歩で20分海から少し坂を登ったところに平川さん宅があった。「こんにちは、九州大学のものですけど」と家に向かって言うと、平川さんの奥さんが出てこられて、部屋へと案内された。「暑かね」といいながらジュースを出してくれて、扇風機を2台つけてくれた。平川さんは今日用事でおられず、奥さんに話を聞くことにした。僕たちのほうも緊張していたが、奥さんのほうもどうしたらいいのか分からないみたいで、はじめは重苦しい雰囲気の中で話をはじめた。

 まず僕たちは1番の目的である「しこ名」について質問した。「しこ名?この辺の呼び方でええんか?」といって僕たちの地図を元に範囲とともに教えてくれた。奥さんの話によると、最近この辺は、1班、2班、3班、4班とよばれていろらしい。しかし、それは十数年前からで、それまでは、アライダシ、シオハマ、ミズタニ、エンデンと呼んでいたようだ。僕たちは、さらにしこ名を聞いたが、「この辺は割と新しい村で、しかもさ、たんぼがなかとさねぇ。」と困った顔をされた。そんな時、向かいの家に住んでおられる平川さんの息子さんが裏口から入ってこられた。平川さんの息子さんは近くの教習所で教官をされていて、今日は休みだったらしい。「やっちゃんか?ちょっと入ってきて」と奥さんが言うと、中にタバコを持って入ってきた。「こんにちは」僕たちは少し緊張が緩んでいたが。また少し緊張し始めた。奥さんが息子さんに僕らの趣向を説明してくれると、「また大変なことをしよるね」と親父さんから教えられていたことを僕らに説明し始めてくれた。僕らがしつこくまた「しこ名をしりたいのですが」と言ったのだが。奥さんと同じように苦笑しながら、「このへんはなかとねぇ」と言われた。息子さんは、僕らの持っていたマニュアルをとって読み出すと「はっはっは」と笑いながら、「しこ名はしつこく聞けって書いとるね。それでこんなに聞きんしゃるか。でもないもんはなかとやけんねぇ。残念、割り当てられた地区に運がなかったね。」と言われた。この辺の歴史は浅く、しかもみかん畑と漁業で生活している人が主なので、水田もなく特別な呼び名は全くない、とのことだった。確かに古い水田にしこ名がつけられるので、しこ名がないと言われるのも納得できたが、非常に残念でその思いが表情に出たらしく、「すまんねぇ」と言われた。仕方なく、その4つの地名を聞いたら、その一つのエンデン(塩田)に面白いエピソードがあった。昔この地区では中学校のあたりで塩を作っていたことからエンデンという名がつけられたそうだ。「なるほど」と思いながら次の質問へ移っていった。

 次に聞いたのは、野崎地区には水田がないということだったので、どうやって生活してるのかを尋ねた。ここは海に面しているので漁師さんが村民の大半を占めておられるようだ。昔は、夏は網でわたりガニをとり、冬はたいらぎ漁をしているらしい。僕が「たいらぎ漁?」と困った顔をしたら、たいらぎ漁とは、潜水で海のそこにある貝をとる漁業の一つなんだということを教えてくれた。ここの辺りの人は潜水のスペシャリストらしいが、今はもう貝も取れなくなって漁業からはなれ、その特技を生かして港湾工事の作業員として働いてるらしい。またこのあたりは山の斜面を生かしてみかんを作っているらしい。平川さんの家まで海に沿って歩いたが平野はほとんどなく、水田がないというのにも納得ができた。その海に沿って歩いたという道も昔はなかったということには、現在結構主要な道路だっただけに驚いた。実は海沿いは砂浜で、満潮時にはずっと近くまで海水がきていたのだという。初め砂浜のことを、「ハマコラ」と言われていたので何のことだかさっぱり分からず聞いてみると、丁寧にほかの方言までいろいろ教えてくれた。また、この辺では「ウソをつく」というのを「ソラゴト」というらしい。そんな話をわいわいしていると、僕はふと長崎出身の先輩の口調に似ているなぁと感じた。そういうことも聞いてみると、やはりこの地区に住んでいる人の祖先は長崎の島原に住んでいたそうで、それで口調も長崎っぽかったのだった。余談にはなるが僕は本州出身なので方言には苦労しました。しゃべり方が早い上に言葉が理解できなかったので、三人とも聞き取れなかった時などは、聞きなおし聞きなおし話を進めていきました。平川さんの奥さんや息子さんも僕たちに理解させるのに大変だったのではないだろうか?本当に心遣い感謝しています。

 話もだいぶ進み小腹がすいたところでなんと昼食をご馳走になった。一服して話は昔の生活についてのことに移った。ガスや電話、水道、有線などは昭和40年ぐらいに通ったそうで、電気は終戦後だったらしい。それまではランプを使いお風呂はゴエモン風呂でまきを使っていたそうだ。水はここらでは豊富で井戸も枯れることはなく8年ぐらい前の全国的な水不足のときも、全然影響はなかったそうだ。現在ではもう井戸は使用されていないため閉鎖されているが、どの井戸にも神様がいると考えられていたそうで、コンクリートで埋める際にも、呼吸ができるようにホースを一本中に通して完全には埋めないようにするのがのが決まりだったそうだ。

 いろんなことを話しているとどんどん時間が過ぎていき、平川さんの奥さんは久留米の病院に用事があるということで家を出て行かれた。息子さんと僕たちだけで話が進んでいった。息子さんではこれ以上昔の話は聞けないと思ったので、今に伝わるここの文化をたずねることにした。まずはじめに聞いたのは祭りについてだ。「ここには大きな祭ないからねぇ。」と苦笑交じりで話は進めていった。「別におおきは祭りでなくてもいいんで教えてください。」というと、はっと思い出したように「そういえば夏に恵比寿祭りいうんがありますよ。」と言ってくれた。恵比寿祭りとは海での豊漁を祈って開かれる宴らしい。その日は水谷と塩浜班は船止め(休漁)して、全戸男女が公民館に集まって開くと言われた。「でもそれくらいかねぇ。やっぱここははずれやね。残念。」平川さんの息子さんは何度もそのセリフを繰り返されていた。僕らに言えることがなくてよほど残念なのだろう。しかし、「この地域は何の特徴もない。」と思われているようだが実際の話ほかの地域もこんなもんだと思うし、結構いい話が聞けていると思いながら話していました。

 最後にここの地域の特色の漁業に関することで諫早での工事について尋ねてみた。当然反対すると思っていたのだが意外にも「反対派は多いが実際今はここの人たちの多くがそういう事業に関わっとりますけんね」と話された。そう、ここの人は港湾工事に携わっている人も多くいて、そういう人たちは賛成派だったのだ。賛成派とはいっても、海とともに暮らしてきたここの地域の人たちにとっては、やはりやりきれないものがあるのではなかろうか?そんな想いとは裏腹に歴史は変わっていく。ものなんだと思う。 僕らは話を聞いた後、来た道をゆっくりと歩きながら帰っていった。家をでて見えた有明海はものすごくきれいで、しばらく三人で磯の匂いを楽しみながら堤防に登って海を眺めていた。それから中学校でやっている野球の試合を見てのびのびと育っているなぁと感じた。漁とみかん畑。なんか自分もここで暮らしてみたいと思いながら帰途についた。

 平川さんの奥さん、息子さん、ともにやさしい方で今回の目的であるしこ名こそ聞けなかったが、多くの知識が得られたし、実際に話を聞けて、本当に歴史に歩き、見、触れることができたと思う。こういう機会を設けてくださった服部先生にもここで感謝の意を記したい。ありがとうございました。


村の名前  太良町野崎 平川賀也さん

1しこ名
   平野部 小字:ミズタニのうちに  シオハマ(塩浜)ミズタニ(水谷)アライダシ(洗出)
        小字:カメザキ(地図上ではカミノザキだが平川さんの発音に添う)のうちに
            エンデン(塩田)

  (山間部などほかの地域にはしこ名は存在せず。)

野崎の由来は野原の先という意味

2水利
   水は豊富にあり、地下水を井戸でくみ上げていた。
   1994年も水不足にはならなかったほど水には困らなかったらしい。

3昔の生活について
   子供の遊びといえばめんこなど。
   昔はご飯を焚くにも、風呂を沸かすにもまきを使っていた。近くの海岸につく流木を拾っ
   て使用した。
   電気がくるまではランプを使用していた。
   子供は学校をサボって「山学校」にいっていた。山学校とはいわゆる秘密基地のような
   もので、山の中にあったのでそう呼ばれるようになったらしい。


4現金収入について
   大浦中学校のあたりに塩田があって、塩を作っていた。
     貝などは高く売れたらしい。しかし、今は漁ができなくなり、たいらぎ業で得た技術を
   使って港湾工事をおこなって現金収入としている。


5海の生活について 
     今は漁で車えびやコノシロをとっている。昔は夏はワタリガニ。冬はたいらぎ業。
     海での豊漁は恵比寿様に祈っていて、毎年集まって宴が開かれる。
     今漁を行っているのは年をとった人が中心となっている。