太良町野上(のあげ)      

                1EC00166 吉田麻紀子   1EC00172 渡辺愛子

手紙を出したのがお宅を訪問する五日前。このように無礼な我々を杉崎さん夫婦は暖かく迎えて下さった。

バスを降りたのが十一時過ぎ。一緒に降ろされた中畑地区の二人と共に、ひーひー言いながら急勾配の坂道を上った。両サイドには見慣れぬ自然が広がる。背後には海が見える。一本道をずんずん歩いていくと、二股に分かれた場所に着いた。中畑地区の二人と別れ、すぐそこに杉崎さんのお宅があることを確認した我々は、これからの調査の進め方の再確認と昼食をとることにした。と、その時。「杉崎さんちに行くんでしょ?」と、トラックに乗った女性から声を掛けられた。その方こそが杉崎さんの奥様だったのだ。「はい。」と答えると、「今いるから来てもいいですよ。」と言われた。時計をみるとまだ十二時前だった。約束の時間には一時間以上ある。「まだ早いのでこの辺りを散策してから伺います。」と答える。

近くの広場で相談をしていると、奥様と息子さんが車で迎えに来てくださった。時間は早かったが伺うことにする。杉崎さんのお宅は戦前からあるそうで、とても古く、趣のある家だった。上がり口は土間である。その上面には燕の巣がたくさんあった。突然のお便りの非礼を謝り、さっそくお話をうかがうことにした。杉崎さんは昭和八年一月十八日生まれ、御年六十八歳である。ミカンと米を作っていらっしゃるが、田んぼは他の地区にあるとのことだった。ミカンの種類は温州みかんである。この辺りはもともと麦とさつまいもの畑が広がっていたそうである。夏にいもを作り、冬に麦を作る。麦わらは屋根を葺くのに使ったそうである。なにしろ屋根は広く大変な作業なので、屋根を葺くのはいっぺんにやってしまわず、二年に一度くらい少しづつ葺いていくそうだ。芋と麦の畑は儲けとの折り合いから、昭和三十年頃からミカン畑に変わっていった。昭和三十五年頃がピークとのこと。やはり最初の印象通り、野上地区には田が少ないそうである。

近くに溝があって水が流れているのだが、これを大根川というそうである。そしてその辺りを「うねご」といったそうである。「大きい」を「うーい」というらしい。また「川」は「ご」という。よって「大根川」が「うねご」とよばれていたのである。これは我々が求めていたしこ名のようだ。他にもないか尋ねてみる。すると、「東雲谷(しののめたに、これは、しのめんたい、もしくはしろめんたいと呼ぶそうだ)」、「射場(住吉神社付近に住んでいた侍が弓の稽古をしていたのが由来)」「くるまど」「おごろ」があった。今ではめったに使われていない呼び名で、若い人は殆どが知らないそうだ。また「しょうぶの坂」、ここは昔の学校道らしい。舗装されておらず、ぬるぬるしていて、よく転んだ思い出があると話して下さった。

次に小路について尋ねてみた。小路とは村をいくつかに分けたものというと、家を中心として野上は五つに分かれていてそれには名前が付いているとおっしゃった。それに違いない。まず一班を「辻組」という。二班が「上組」、三班は「向(むかえ)組」。四班は「日当(ひあて)組」、五班が「烏賊浮(いかぶ)組」である。ちなみに杉崎さんのお宅は上組に所属する。

共同作業についても聞いた。今は作っていないそうだが、昔はお茶を自家用に栽培していたそうだ。各家で茶を摘み、釜煎りをする。その後四、五件づつで順番に加勢しながら茶揉みをするそうだ。麦刈りをした後、せんばでこき、「どんじ」という道具で麦の穂を叩いて実を落とす。芋植えと言って畑に畝を作り苗を植える作業。稲作では牛を使ってすいたり耕したりしていたそうだ。ここで家畜について聞いてみた。牛は主に雌牛を、一家に一頭以上飼っていたそうだ。雌牛は子を産ませると換金できるし、雄牛に比べて弱いので、女性でも制御できるからである。牛は牛小屋で飼い、草(藁など)を食べさせていた。ものを運ばせたり、先に述べたように農作業をさせたりしていた。牛を飼う習慣は、耕耘機が一般的になる昭和三十年頃まで続いたそうである。また、にわとりも四、五羽から十羽ほど飼っていて、自家の毎日の食料として卵を生ませていたらしい。これも昭和三十年頃間で一般的だったようだ。食料と言えば、わりと海の近くのこの地区では、潮が引く日に貝や魚、海草を取りに行ったそうだ。天日に干して貯蔵したりもしたとのこと。

水の便はどうだったのだろうか。資料によると、かなり昔は水利の悪い地域だったようである。しかし、昨今は地下水が豊富で、水に困ったことはないそうだ。1994年の大早ばつの際も特に断水もなかったらしい。水道が整備されたのは二十年くらい前だ。それまでは、広場にあった湧き水を各々が天秤を担ぎ、汲みに行っていたとのこと。または、家にあった井戸水を使用した。畑は雨水まかせだ。水田は出水からとった。ガスが通ったのは昭和四十五年頃だ。杉崎さんの家には今も釜がある。三十年くらい前までは実際に使っていたそうである。

農薬がない頃の害虫対策についても聞いてみた。杉崎さんも何度かしたことがあるそうだが、「虫追い火」というほうほうがある。これは、夜、松明を藁で巻いて燃えやすくしたものを持って、大勢で田に沿って歩く。すると害虫(米に付く虫、ウンカや青虫)が火に集まってくる。何もない場所まで行き、誘導してきた虫を焼き殺すのである。また、田の水の所々に軽油を垂らし、草取り時に虫を草から落として油で殺すという方法もある。肥料はもちろん化学肥料ではない。人間の屎尿、堆肥(牛などの糞)、海の潟を干して砕いたもの、そしてジメキがある。ジメキはフジツボを集めたもので、海に竹を差しておくとこれが大量に付着するので、削り集めて肥料とするのである。

田植えが終わってひといきついた頃、「たきとう」というお祭りをする。これは稲が順調に育つよういのる祭りだ。特に日にちは決まっていない。酒を飲んだりして騒ぐそうだ。また、四月の三日頃に「四月の節句」がある。この日は仕事を休んで知人の家を訪ね、お酒を飲むらしい。夏には「せんとろ祭り」がある。七月二十八日、住吉神社に提灯を灯し、夕涼みをする。秋の「くんち」は収穫前後にする感謝祭である。そして、一月の二十日には二十日正月がある。これは皆で集まって一年の部落の計画を建てるのだ。このほか「花入り十五日」「報恩講」「茶前仕切」「田祈祷」「千灯籠」「八天祭」「浮立」という祭りがある。「浮立」(ふうりゅう)は、以前はどんなお祭りでもなされていたことで、太鼓や笛を鳴らしながら舞うものである。普通、鬼の面を付け(黒)装束を纏い、胸に小さい太鼓を付けている。この踊りは各部落にあったが、今では踊ることの出来る人がおらず、殆ど見ることができないとのことだ。

昔の暮らしについて聞いた。子供はどんなことをしていたかというと、男の子はめんこやビー玉、女の子はおはじきやお手玉、貝殻や石を使って遊んでいたそうだ。その他、川で遊んだりかくれんぼをしたり。外で遊ぶことが多かったようだ。お菓子といえば、芋飴や固いマーブル。青年時代は公民館に集っていたそうだ。その頃は青年クラブというなまえだったらしい。夕飯を食べた後に行って、卓球をしたり、力比べ(足相撲、腕相撲、重たい石などを持ち上げたり)をしたり、悪さ(いたずら、今のような悪質なものではないと強調しておられた)をしたり…。結婚する前の若者達がそこで寝泊まりしていたということである。農家の場合、雨が降ると仕事にならない。そんなときは、家の中で縄をなったり草履を作ったりしていたそうである。よるもしかり。これは男性の場合であるが、女性は繕い物をしていたそうだ。ここでちょっと、男女の出会いについて尋ねてみた。杉崎さん夫婦の場合はお見合いだそうである。奥様は隣の地域からお嫁に来られたそうで、結婚前、杉崎さんは弁当持参で、働いている奥様を見に行ったそうだ。他の人の例でいくと、牛を見に行く口実で、その家の年頃のお嬢さんを見に行ったり、仕事ついでということで娘さんをチェックしたりしていたらしい。何ともほほえましい感じがする。長距離の移動ができないし、今程出会いのなかった時代の男女は、大変だったようだ。今は道も広くきれいに舗装されているが、奥様が初めて来た時は狭かったそうで、タクシーが入りきらなかったとのことだ。奥様は「えらい所にきてしまった。」と思ったらしい。結婚式は自宅で行う。お色直しなどはなく、白無垢、角隠しを纏った、日本のお嫁さんそのものだ。料理は親戚や近所の人と作り、引き出物代わりに残った料理を藁に包んで持って帰ってもらったそうだ。葬式の話も尋ねた。葬式の用意は近所の人がしてくれ、会場も近所の家を使う。当家は何もしないそうだ。ただ、お金や材料を出すのだ。お医者様も近くにおられないので、本当に寝付いてしまった時だけ来てもらうそうだ。ただ、「先生、先生と言っていたが、今思えば藪医者だったのかもしれない。」と、笑っておられた。

杉崎さんがいわく、昔は今より暮らしやすかったという。お金はなくとも生活できたし、経費も掛からなかったそうだ。買うものもないし、買わないでもよし。確かに不便だったが、何をするにもお金がかかる今の方が大変だそうだ。今、この野上地区には独り暮らしの人もいるし、空き家も何軒かある。親を残して子供は都会へ行き、盆正月に帰って来るくらい。野上の子供達が通う大浦小学校の今年度入学者は、たった一人。いかに子供がいないかが分かる。みかん農家も減り、勤めに出る人が増えているそうだ。

今後どうしていくかという質問には、ミカンの施設化を考えていると答えて下さった。ビニールハウスでハウスみかんを作り、時期をずらして出荷するとのこと。ハウスみかんは露地みかんに比べて糖度が高いとのこと。今は、その糖度を高めるために、マルチ栽培を実施しているそうだ。これは、畑にビニールシートを敷いて中に雨がしみ込むのを防ぐ方法だ。みかんは水をあまり吸わせないようにすると甘くなるのだ。驚き。今の時期は、ちょうどビニールを敷いたり傷ものを落としてひと枝の数を制限したりしているそうだ。そんな大変な時期にお邪魔して本当に申し訳ないという気持ちと共に、貴重なお話を聞かせていただいた杉崎さんご夫婦への感謝の気持ちを述べて、このレポートを終えたいと思う。

 

  しこ名   (地図参照)

@     射場

A     東雲谷(しのめんたい)

B     おごろ

C     くるまど

D     勝負の谷

 

      野上を訪れて       1EC00172  渡辺 愛子

雨の日が多い今、農家の方にとって、晴れの日にはしなければならないことがたくさんある日だというのに、杉崎さん夫婦は私たち二人を暖かく迎えて下さった。事前にお電話でお声を拝聴していたとはいえ、お会いするのは初めてである。どんな人だろう、私たちの質問に答えて下さるだろうか、まさか追い返されてしまったりしないだろうか、とドキドキして、前日はなかなか眠れなかった。そんな心配は無用だったと、お会いしてすぐ分かった。

実は、佐賀に行く数日前まで「しこ名」どころか「あざ名」の意味さえ分かってなかった。今まで北九州市、兵庫県、そして福岡市に住んできたが、小字も田んぼも無縁の人生であった。祖父母は父方も母方も農家ではない。母方の祖父が、退職後に趣味で行っている畑仕事をみてきたくらいだ。本職の農家の方は大変だろう。今は多少良くなっているだろうが、農業は基本的に天候に左右されてしまうものだ。昨今は、本業農家の人が減ってきているとおっしゃっていたが、やはり、自然の采配で毎年の収入が変わる仕事より、堅実に安定した収入を得る仕事を人々が選ぶのは仕方のないことだと思った。しかし、私たちが生きていくには食べなければならいので、農家が減っていくのは大問題である。私はみかん、特にあの食べやすい大きさの温州みかんが大好きである。野上の方々には是非ともがんばって頂きたい。

杉崎さんのお宅で約二時間、色々なことをお聞きして失礼した後、近くの住吉神社に行った。途中の高台から野上地区を一望できた。素晴らしい眺めだった。真っ青な空と眼下に広がる緑の木々が美しい。持って行ったデジタルカメラにその美しい景色をおさめた。小さなファインダーの中にそれはおさまりきらなかったが。貴重なお話を聞けただけでなく、こんな素晴らしい景色を見ることができるなんて、今日ここに来られて本当に良かったと思った。また、多少の雨を時々感じたものの、基本的に晴れだったという天候にも感謝した。住吉神社に着いて、静まり返った境内を少し散策しながら、夏に行われると云う「せんとろ祭り」に思いを馳せた。それからのんびりと国道に向かった。

 今回の調査では、この授業を取らなければ出会えなかったであろう人々に出逢うことが出来、体験できなかったであろうことを体験できた。調査はうまくいったのかどうか分からないけれど、私自身としてはとても満足のいく実習であった。先生の「教師は教壇の上、大学の中にだけいるのではない。」の言葉を実感できた。ひとえに杉崎家の方々のおかげである。この場を借りて心から感謝の気持ちを伝えさせていただきたいと思います。私たちは、調査というだけでなく、生涯においても、とても素晴らしい財産を得ることが出来たと思っています。本当にありがとうございました。

 

                        1EC00166  吉田 麻紀子

野上を訪れて・・・。私達は、大学の講義の一環で野上を訪れたわけだが、そこで得たものは大学の講義以上に価値のあるものであったと思う。

なにより、うれしかったのは杉崎さん夫婦との出会いである。私達の失礼な質問にもこころよく答えてくれ、前もって野上についての本まで用意してくださっていた。そのお話は、まるで自分の祖父母から話を聞いているのでは??と錯覚するほど、親しみも湧くものであった。

今の時代、私達の普段の生活のなかでは、知らない人の話を聞くことなどほとんどない。

杉崎さんはこんな話でいいの?と何度も言っていたけれど、杉崎さん夫婦のお話はどんな本にも載っていないし、学校でも教えてもらえるものでもない。経験した人が語る話であるからこそ、その話は生き生きとしまるで自分も見てきたかのような実感を感じるのである。私達もレポートにその実感を少しでも再現できていればと思う。 

偉そうなことをウダウダといっているが、つまりは単純に杉崎さん夫婦のお話はとても楽しかったということである。

そして、野上での第二の思い出はその自然の豊かさである。振り返れば広がる海、前にはどこまでも続く緑である。その美しさに圧倒されんばかりだった。お話を聞いている間も幾度か頭上をツバメが飛んでいた。遠くから鳥の鳴き声もきこえた。生活全体に自然があった。その分山道は急で都会暮らしに慣れた私達にはきつかったけれど、体に残った多少の疲労感とお話を伺った後の充実感がとても気持ちよかったのを覚えている。

授業の主旨とは多少ズレているかもしれないが、私はこれだけの体験ができたことを大変うれしく思っている。これからの人生の中でなにかしらこの体験を生かせればと思う。

また、このレポートを作成するにあたって親切にお話して下さった杉崎さん、本当にありがとうございました。