中畑

私達が訪ねた中畑は、野上から少し山の方へ入った地区であった。そして、私達がお話を聞くことになった中島豊さんは「暑かでしょう。お茶でも飲まんですか。」と言って私達を迎えてくれた。(まじめそうな人だなぁ。)と思った。彼は「お茶でも飲んでからせんですか。」と言いながら、ぱらぱらとノートをめくっていた。年輩の方らしい流れるような字体で4,5ページはあっただろうか、ぎっしりと書いてあった。どうやら事前に中畑の歴史や今の人口などを調べていてくれたらしいのだ。早速彼は、中畑の歴史についてノートに書いた事を話し始めてくれた。  授業のマニュアルで、佐賀の方言が聞き取りにくいとあったので、とても不安であったが全くそんな心配は要らなかった。何故なら、この太良町は長崎県にとても近いので、長崎出身の私にしてみると、とても懐かしく馴染みがある言葉だったからだ。太良町の他の地区を訪ねた人も、私が使う言葉にそっくりだったから何も苦労はなかったと言っていた。わたしは、両親とものおじいちゃんと会った事がなかったので、(おじいちゃんってこんな感じかなぁ。)と節々で感じながら話を聞いた。  私達が特に知りたかったのは『しこ名』であったが、せっかく彼が調べていてくれた中畑の歴史から話を聞くことにした。そして農業の話になったとき、「中畑に水田はなかよ。」という発言に私達はびっくりしてしまった。水田がなかったら『しこ名』なんて存在しないのではないか!二人で目を見合わせ、動揺していた。よくよく話を聞いてみると、水田用の土地は他の地区に買って、ここではみかんをつくっているらしい。和歌山の農家もこの中畑に土地を買ってミカンを作っているそうだ。ミカン畑にも『しこ名』はあると聞き、ほっと胸をなでおろした。  印象深かったのは〈水の話〉であった。ここ中畑は他の地区より標高が高いため、水にとても苦労したという。干ばつの時は涌き水を汲みに行っても、最後の方になってしまうと水が濁ってしまっていたらしい。そして各家庭に井戸が掘られるようになっても、標高が高いので、何十メートルも掘り下げなければならなかったため、ここでも苦労が絶えなかったみたいだ。更に、飲料水ばかりでなく、日照りが続くと農作物が枯れてしまう。大干ばつの時は雨乞いをする時もあったらしい。しかし、神様ばかりに頼っていても仕方がないという事で、ある県議会委員の方が、この中畑に水道をひくように計らってくれたそうだ。話をしてくれた中島豊さんは、とてもこの方に感謝をしているようで、何度もこの方の名前を繰り返していらっしゃった。隣で奥さんもしみじみとうなずいていらっしゃったのが、この土地は本当に水に苦労し、水道がひかれた時の喜びは計り知れなかっただろうと、実感させてくれた。そして今では、この中畑が佐賀県で一番水道代が安いということを、彼は誇らしそうな顔で話してくれた。 一通り話し終えると、急に親近感がわき始め、彼の「なんでも聞いてよかとよ」という言葉通り、私はマニュアルに載っていた質問をひっきりなしに聞いていった。この時には初めのころにあった遠慮も消え、私は突拍子もなく質問を次から次にしていった。聞きたいことは全部聞いておきたいという気持ちが芽生えたからだ。そんな風に私の気持ちをしてくれたのは、やっぱり中島さん夫婦の何処か懐かしい雰囲気のおかげだろう。部屋に入ったときから丁寧に迎えてくれ、私達が1聞いたことを10まで膨らまして答えてくれ、代々区長さんが受け継ぐ古い地図や、明治時代の文献を取り出してきて見せてくれた中島さん。中島さんと私達三人が、畳に地図を広げ中畑の大体の範囲を聞いているときでも、一人必死に小字地図を探してくれた奥さん。帰りも国道まで車で送ってくれ、最後まで気を使っていただいた。本当に感謝の気持ちでいっぱいだ。この中畑には数多くの興味深い話が眠っていた。普段の自分の生活(大学生活を含めて)では知り得ないことを、たくさん教えてもらった気がする。それは中畑に関する歴史、情報だけではなくて、中畑の土地、自分の土地を愛しつづけた人々の人生であり、歴史であったのではないかと思う。