太良町牟田レポート (歩き見ふれる歴史学レポート) 6月30日実施 太良町牟田担当 1LA01111M 鈴木 研郎 1LA01154M 中村 博光 質問に答えてくれた人 島田 八郎さん 86歳 鳥井 新 さん 65歳 僕たち二人は太良町牟田の歴史を調べるために、バスで牟田に向かった。外は小雨がぱらついていて、不安な気持ちでいっぱいの僕たちの心の中を表しているようだった。牟田は思ったより山の中にあって、自然がたくさん残っているとともに、有明海の近くということで水産物が豊富に取れるようだった。まさに自然の宝庫といった感じ。僕たちは、まず腹ごしらえをするために太良町の名物であるかにめしを食べた。シャコも入っていてびっくりしたが、とてもおいしかった。あまり車の通りの少ない道路に面しているのに、結構人が入っていたところを見ると人気のあるかにめし屋だったのだろう。 その後、牟田を探して歩き始めた僕らだったが、地図とはだいぶ建物やバス停の位置が変わっていて、何回も同じ道を往復するはめになってしまった。横道に入ったところで、うろうろしていると、やさしそうなおじさんが「お前さんたち、九大の学生やろうがー。」と、声をかけてきた。この人が鳥井新さんで、僕たちを公民館に案内してくれた。鳥井さんはいかにもやさしそうなおじさんといったような感じで、僕たちはすぐに打ち解けることができた。公民館に着くと、もう一人もっと年を召されたおじさんが座っていた。厚い眼鏡が印象的だった。 僕たち四人はまず自己紹介をはじめた。鳥井 新さんは、65歳、この区の区長さんで牟田の中では、結構有明海に近いほうに住んでいるそうだ。島田 八郎さんは、86歳、この区の男性の中で一番年を召されており、長老的存在らしい。ちなみに女性は90代のひとが4〜5人いるそうだ。さすが女性は長生き・・・。僕たちが最初に感じたことは、佐賀弁(?)ともいえる方言がわかりにくいことだ。僕たちに話をしてくださるときは、二人とも結構標準語っぽく(それでも時々何を言っているのかわからないときがあったが・・・)話をしてくださっていたが、むこう二人だけの間での話しになると、ほとんど何を言っているのかわからなくなるほどだった。「あいどん」という言葉をよく使っていた。「だけど」とかそういう意味の言葉かな・・・? 自己紹介も一段落着いたところで、僕たちは本題に入ることにした。僕たちはまずしこ名について聞いてみたが、牟田の田んぼにはこれといってしこ名はないようで、ほとんどの呼び名は小字と一緒だった。しかし、いくつか微妙に呼び名が違っているものがあった。(例:ムコウヤマをムカウヤマと呼んでいるなど) また、他にも色々と昔の地名を教えて頂いた。{例:山の中に刀などを作るところがあって、その山のふもと一帯を鋳場下(いばした)と読んでいたらしい。溜め池(飲料水、洗濯、井戸端会議の場として、牛を洗う場として)があった場所を湯の湖(ユノコ、イノコ)と言っていた。有明海の海沿いにも様々な名が付いていた。(ハマグリ、センドドマリ、ハゼガタ、オノリガワなど)} 次に水利について聞いてみた。牟田周辺は地下水が豊富で湧水地であったため、それを利用して溜め池を作り、牟田にあった20戸全部が共同に生活用水も農業用水もそこの水を利用していた。そのため、水が豊富だったので水争いはほとんど起こったことがないらしい。(ただし2,3回は起こったよ、と鳥井さんが恥ずかしそうに言っていた。)また水の利用に関する上下関係みたいなものもなかったらしい。やっぱり平和が一番!!水利に関する行事としては、川祭り、お払いなどがあっていたらしい。 その次に、有明海において、なにか独特の魚法があるかどうか聞いてみた。普通の子供や大人がムツゴロウやハゼを捕る場合には、4mぐらいの竹の先にこうもり傘の骨を尖らせたものをつけ、それで刺して捕っていたらしい。また、プロになると、7〜8mある縄の先に針をつけて遠くから縄をうまいこと投げて、ムツゴロウやハゼを引っ掛けていたらしい。これなら僕もテレビなどで見たことがある。あれかなりすごいよね。ほんとにびっくりする。しかしこの漁法で魚を捕る人は最近かなり少なくなっているらしい。せっかくここにしかない伝統だから、ずっと後の世までこれが残ればいいなぁ・・・。 次の質問に入ろうとしたとき、ふとしたことから話が逸れて、最近の子供のだらしなさや、親の過保護について鳥井さんと島田さんが熱く語り始めた。二人曰く、最近の子供は言うことを聞かなすぎるらしい。昔は先生が怖かったし、聞かなかったら先生から叩かれていたから、先生の言う事は絶対だったらしい。今ではちょっとでも手を出したら親がPTAだの、教育委員会だのに言いつけるからますます子供が調子に乗るんだ・・・(以下省略) おいおいと思いながら聞いていた僕たちだが、確かに合っている点も多いかな〜。 ここで島田さんが分厚い本を取り出してきた。本の表紙には、太良町牟田の歴史というタイトルが大きく書かれていた。全部で上・中・下と三冊もある本であった。島田さん曰く、島田さんのほか四〜五人の人が集まって昔を思い出しながら書いた本だそうだ。これは、かなり貴重だぞ!!ここではその本に書かれていた事を紹介しよう。 まず、「牟田」という地名の由来についてだが、この本には二つの説が書いてあった。一つ目は、「牟」が「増す」「増える」の意味で、干拓によって田圃が増えたという説。二つ目は、牟田は昔土地の殆どが湿田で、腰までねり込む深い所もあったほどで、「ぬた」(沼地、湿田)が変化して牟田になったという説。どちらもなるほど、といった感じ。「沖田」も干拓で出来た「田」という意味らしい。島田さんも言っていたが、「沖田」あたりは干拓するまで海で、井戸を掘ると今でも貝殻などが出るらしい。なるほど〜。またこの集落の祭りもここでまとめてみたい。 ★ 集落の祭り 一覧 ★
干ばつはほとんど起こらなかったそうだが、水害はよく起こるらしい。潮の満潮時には100mmも降れば、下の方の土地はほとんど浸水していたそうだ。昭和37年、1962年7月8日にはかなりひどい水害があり、大浦駅の上の小学校が流されてそこに避難していた40人余りの人が死亡したそうだ。「不幸中の幸いというか、たまたまその日が日曜だったからよかったが、もしその日が平日だったらそこに通学していた多くの小学生が被害にあっていただろうからもっと多くの被害者が出ていただろう・・・」と言っていた。この話をしてくださったときの二人の顔はとてもつらそうで、僕たちもとても心が痛んだ。今でも台風のときは、大変らしい。牟田は山みたいに傾斜になっているところにあるのだが、山の下に住むとすぐに水につかってしまうし、かといって、上の方に住むと吹いてくる風がもろに当たるらしい。鳥井さんも何年か前までは下の方に住んでいたが、あまりに水が入ってくるので上の方に移ってきたらしい。 次に田の耕作で牛や馬を使っていたか聞いてみると、馬はいなかったが牛は一戸に一匹ずついたようだ。牛洗い場は湯の湖の半分をこれにあてていた。牛や馬を交換して儲けていた。博労(ばくろう)について聞いてみると、少しかたまって何のことか分かってもらえなかったが「あー、ばくりゅうのことか!!」といって分かってもらえた。「こっちの部落にはおらんかったけど、隣の部落にはおったそうだ。」と教えてもらった。変わった仕事があるな〜と思ったが、昔は結構いたそうだ。すごい・・・。 「若者は何をしていたか?」という問いに島田さんは懐かしそうな顔をして「わらを叩いて縄をなったり、草履を作ったりしていたよ。」言っていた。今の若者と全然違うことにびっくりした。若者が夜集まる場所を「青年宿」と言っていたらしい。集まる日にはラッパを吹いて知らせていたそうだ。軍国主義の影響らしい・・・続いてとても聞きにくかったが、ヨバイの話を聞いてみると、島田さんは少しニコッとして、12km位遠くにも行って、朝には農作業のために帰ってきていた人もいたことを話してくれた。やるね〜っていった感じかな。ヨバイに関しては、親も黙認だったらしい。 ここで、よその村との交流についても聞いてみた。よその村から人の立ち入りを禁止していたことはなく、自由に出入りしていたらしい。「このへんの村でこれといった争いはなく、よその部落とも仲良くやっていたぞ。今は人と人のふれあいがないからいかん。だから・・・。」ここからまた二人の熱い話が始まった。この話を聞いていて、昔と今の「人と人とのふれあい」の差を感じたと同時に、都会と田舎での「ふれあい」の差も感じた。「人と人とのふれあい」。簡単そうでかなり奥の深い問題のように感じた。これからますます都市化というものは進んでくるであろうが、我ら人間が絶対ぶち当たらないといけない大きな壁になるだろう・・・ 最後に戦前の肥料について聞いてみた。島田さん曰く、「みかん畑の雑草をこつんで作ったり、有明海のガタば汲んで、かきがら(2mぐらいの竹を浅瀬に立て、干潮のときに引っかかるカキなどの貝殻をナタなどでこそぎ落として肥料としていたようだ)を使ったり、牛の糞を使っとったよ。」とのこと。だから殆どの家に最低でも一匹は牛がいたらしい。牛は田を耕したりするのでも必要だしね。しかし、戦後肥料は化学肥料に代わってしまった。このことについて島田さんは、「化学肥料になって確かに農作業は楽になった。しかし、野菜などは薬臭くなるし、環境は破壊するし大変なことが起きてしもうた。それに何といっても土地がアルカリ性になってしもうて土地がやせてしもうた。もう土地は使いものにならんぐらいやせてしもうておる。」と、言っていた。農業のことについて聞いてみると、昔は35軒ぐらいあるうちの、20軒以上は農業をしていたそうだ。しかし今となっては、それがたった2軒になってしまったらしい。「お前さんたちのような若い衆が都会に行ってしまい帰ってこないからじゃよ。」と、言われたときには少しどきっとした。僕たちは宮崎と熊本出身で、福岡に今こうして出てきている。二人して「自分はもう田舎に帰らないんだろうか・・・」と考えて、顔を見合した。「確かに都会のほうが自分にとってプラスとなる刺激がいっぱいある。自分がどこまでやれるか力試しもできる。しかし、若いうちはいいが、年をとってもこのごみごみとした町で過ごすのはどうだろう?田舎に戻ったほうがより人間らしい生活が出来るのでは・・・」などいろいろなことを考えさせられた気がした。 そしてとうとう時間がきてしまった。だいたい一通り聞きたいことは聞けたような気がする。島田さんたちの話をうかがって、牟田の歴史や昔の人の生活様式だけではなく、もっと他の多くの大事なことを聞けた。言葉ではなかなか表すことの出来ない、僕たちが忘れかけていたような温かいものを思い出すことが出来たのではないだろうか。この経験を忘れたくないし、忘れないであろう。 僕たちは、何度もお礼を言って、牟田を後にした。僕たちが歩いて帰っていると、鳥井さんが車で追ってきて、「お前たち乗らんか?」と言ってくれたが、すぐ近くだったのでお礼を言って断った。このことからも牟田の人たちのやさしさが伝わってきた。 こうして僕達の牟田レポートは終わった。最後に、最後まで丁寧に質問に答えてくださった島田さんと鳥井さんに心から感謝したい。 |