歩き・み・ふれる歴史学(火曜3限 服部教官)レポート

 

太良町・道越の場合    1LT01065 佐藤来未・1LT01134 松下千絵

 

 バスから降りた私たちは心地よい潮風の吹くなか、今回お話を伺うことになっている上戸兼松さん(72歳 昭和3年8月25日生)との待ち合わせ場所である、旅館・鶴荘を目指して歩いた。途中、大浦漁業組合や幾隻もの漁船が停泊する船着場を通って鶴荘に着き、上戸さん宅にお電話を入れると、数分後、上戸さんが軽トラックに乗って現れた。車から降りた上戸さんは「あんた達は車は持たんとねえ。」と、やや緊張気味の私たち2人に気軽に話し掛けてくださり、徒歩でいけるお宅までの近道を教えてくださった。鶴荘の横にある階段を上ると、神社があり、私たちはそこを抜けて、軽トラックに乗って坂道をあがってきた上戸さんの後についてお宅にたどり着いた。部屋に案内されると、「あつかねー。」といいながら私たちの席を用意し、扇風機を出してきてくださった。上戸さんの貴重なお話を録音させていただこうと、上戸さんのお洋服にマイクを付けたところ、上戸さんはどこか恥ずかしそうに私たちに微笑みかけながら、「この辺には特徴のある歴史ちゅうても、なんもなかもんねー。」とお話を始めてくださった。

 

 昔、ミチコシ(道越)という小さな集落があった。それは、私たちが最初にバスから降ろされて海岸沿いを歩いてきた、あの大浦漁業組合があった周辺の地域だ。上戸さんはそこを“モトミチコシ”と呼んでいた。その呼び方にはなんとなく、自分たちとは別ものという響きがにじんでいた。今からおよそ160年前、諫早から14人の入植者がやってきた。ミチコシ周辺の山を切り拓き、新しい集落をつくった。それがヒラハマ(平浜)とヤコダニ(孤谷)だ。この2つの集落は、その後子孫を増やして発展していった。どうりでこの村は上戸という苗字が多いはずだ。これだけたくさんの上戸さんは、みんなある一人の祖先につながるのだろう。そしてそれはきっと、最初の14にんのうちの1人なのだろう。先に記した3つの集落から少しはなれた北西の方角にもうひとつ、イワシタ(岩下)Iという27戸から成る集落がある。これも、モトミチコシと同じく古くからある集落だそうだ。以上、道越地区は、ミチコシ(道越)、ヒラハマ(平浜)、ヤコダニ(孤谷)、イワシタ(岩下)の4つの集落から成り立っている。263戸の家々が立ち並ぶ、海の

香りのする漁村だ。私たちが訪ねたその日は風が強く、(もしかすると、いつもあんなふうに風が吹き荒れているのかもしれないが)、天気もあまりよくない、雲の流れの速い日だったので、鶴荘までの道中は、たった1人の小学生しか見ることなく、とても静かで、なんだかノスタルジックな気分にさせられた。

 

 「しこ名を教えていただきたいのですが・・・。」 緊張していたので、どう言葉を選んでよいのかわからず、私たちはいきなりそう切り出した。「しこ名といっても、ここはそうあるもんじゃなかもんねえ。」やはり困った様子でいらっしゃる。先に記した、ヤコダニなどがそうじゃないか、とおっしゃったが、それは役場に登録されているので、どうやら違うらしい。「4つの集落をさらに細かく呼ぶ言葉はありませんか。」と尋ねてみたが、ないということだった。しかし、「シュウジを呼ぶのにこの地域に伝わる独特の呼び名はないのですか。」と尋ねると急に照れくさそうに笑われた。やっぱり、どうやらあるらしい。

  “ウーガキのキのミチ”

最初、私は「ウワキのキ」というふうに聞こえた。怪しげな名前の道だなあ、と思い、「ウーワキのキ?」と聞き直したら、どうやら違ったらしい。「大きな柿の木の道」という意味だそうだ。「そこで以前、タヌキにだまされて、なんかかんか事件が起こったらしかもんねえ。」「それはどういった事件ですか。」と尋ねると、笑われて、「だまされて、夜どこさんじゃい・・・」と言って言葉をにごされた。とにかく、誰かがどこかに連れ去られた、という話が残っているのだそうだ。残念ながら、それ以上お話は聞けなかった。イワシタからの旧道にある道で、昔は大きな柿の木が確かにあって、そう呼ばれていたようだが、今はもうその木もないそうだ。

  “ビックリさん通り”

これもまた、イワシタの「森ん中ん墓地んごたっとこ」にあるのらしい。その由来は、と問うと、また笑われて、「そりゃ分からん。」と答えられた。

  “トーチャンマチ”

この名の由来は少し悲しい。太平洋戦争で長崎に原子爆弾が投下された。その長崎からこの道越に疎開してきた人々がいた。彼らは口々に「トーチャン」という言葉を発したのだそうだ。私たちはそれが何故かという質問をわざわざすることはなかったのだが、当時この土地には「トーチャン」という言葉はなく何のこと言っているのか分からなかった。土地の人々は自然とこの新しくやってきた人々の住む通りを「トーチャンマチ」と呼ぶようになった。「昔はここは山やったとぞ。それが次男坊、三男坊の分家で集落ができとっとよ。」ヒラハマにある長い一本道だ。

他にはないのか尋ねたが、「いやもうちょっと・・・。」とおっしゃった。この三つの名は今の小学六年生ぐらいの子はわからない。今ではこれらの道をあまり通ることがなくなっているからと淡々とおしゃった。60代くらいの人々でなければ通じない言葉になっているらしい。ということは、もうしばらくすれば、やはりこれらの名を知る人は全くいなくなってしまうのだろう。今では老人部落となってしまっていて、拡張整備をしてバスを通すという話が出ている、ということである。さて、では詳しい場所はどこなのか、と地図を広げてみると、「図はわからんもんねえ。」とおっしゃって、虫眼鏡を取り出された。それでもやはり見づらかったようだ。苦労してなんとか場所を地図におとせたのだが、実際にその場所を訪ねてみる時間がなかったのは残念だった

 

 私たちが上戸さんの家にたどりつくまでに、たくさんのカニの直販の看板を見た。「ここはカニがそんなにとれるんですか。」と尋ねた。ガザミというカニがとれるらしい。この道越には12軒もの旅館がある。それらの旅館はカニをシンボルとしていて、そのカニをめあてに、はるばる北九州から訪れる客もいるらしい。上戸さんは、「今日は泊まってカニを食べていけばよかとに。」とおっしゃってくださった。日帰りだったので道越自慢のおいしいカニを味わうことができなかったのは残念だったが、上戸さんのお心遣いが本当にうれしかった。また改めて伺いたいと思う。「道越の漁業はお魚よりもカニなんですか。」と尋ねると、「うん。」とおっしゃったかと思うと、「んにゃ、魚もとれるよ。」と慌てて付け加えられた。観光のシンボルはカニだが、漁業で主にやっているのは“モグリサン”。その言葉を聞いてキョトンとしている私たちを見て、上戸さんは、「モグリサンって知らんじゃろもん。これが方言たい。」と言って笑われた。潜水士のことらしい。そのモグリサン達が、海に潜ってとるのがタイラガイ。タイラガイというのも、またよく分からなくて、私たちが「え?」と言って笑っていると、上戸さんは親切にも紙に図を書いて教えてくださった。三角形の形をした二枚貝だ。有明海に豊富に生息するらしい。昔は、村で2、3人のお金持ちの船に他の住民も乗せてもらって、一日に150ほどとっていたそうだが、今は道越にモグリサンが300人にも増えているのに反して、タイラガイはどんどんとれなくなってしまってきているそうだ。「日本で一番モグリサンが多いのは、ここ道越で、技術も相当なものだ。」と上戸さんは誇らしげにおっしゃった。実際、道越ではこのタイラガイが一番の収入源となり、今日のように発展してきたそうだ。しかし、現在ではタイラガイの生息数が減ってきていて、それと同時に収入も落ち込んできているらしい。上戸さんは、家庭排水の垂れ流しや諫早湾干拓に原因があるのではないか、とおっしゃった。現在、タイラガイは11月1日〜4月31日の期間しかとってはいけないことになっているそうだ。タイラガイの他には、有明海特産のタコ、シャコ、アナゴ、そして春にはタイやスズキもとれるということだ。収入とするための漁業だけではなく、道越の人々が楽しみで行う漁もある。有明海は最大6mもの干満差があるらしい。その最大干潮時には、大きな石が現れる。これをジネンセキというらしい。「うち達は通常、セイと言うとさ。」上戸さんはどことなく照れながらそうおっしゃった。これを利用した漁があるらしい。「セイの出っけん、今日はウオといげいこか。」、結構気楽な感じだ。小潮ではない、大潮のときに、石の下に隠れている魚を求めていく。みんあ網をひとつ持って出かけていき、セイを丸く囲んで、棒切れで石の下をつつく。そして出てきた魚を捕獲する。割と簡単なように思える。「うちたちんごたっとはしいさらん。きつうして。」どうやら若者がやるものらしい。また、今から7,8年前まではアサリ、カキ、そしてビナという巻貝もとれていたそうだ。「鶴の瀬でとれるアサリガイ、カキは他んところでとれたんよりも特別味のちごったばってんね。」と上戸さんは少し悲しそうににおっしゃり、「そのおいしさは地域の人しか味わえなかったんですね。」というと、「そうそうそう。」と早口で答えられた。これらは出荷するものではなく、道越の人が趣味でとってきて食べていたのだそうだ。海の町ならではの新鮮な魚介類。地元の人でも、それらを口にする機会が最近では減ってきているようだ。

 

 先に記した通り、道越は基本的に漁村である。しかし、道越の中でも地域によって少し事情が異なる。また、昔と今でも異なっている。上戸さんは“半農半漁”という言葉を使っていらっしゃった。上戸さんの言う“モトミチコシ”。ここには昔から水田があり、米の収穫もあったらしい。しかしこれらの米は、収穫量の多い家がまれに出荷することもあるようだが、ほとんどは自分たちの消費分だけにとどまっていたらしい。こうしてミチコシの人々は自給自足の生活を営んでいた。今ではその水田も減っているとのことだったが、水田がなくなることはない、と上戸さんはおっしゃった。ヒラハマ、イワシタでは昔から米はとれない。代わりに麦と芋を作っていた。だから、大切な主食である米は、この地域にただ一軒しかない“ヒャクタケ商店”という米屋で安く買っていたそうだ。麦と芋を作っていた農地も、今ではただの草の繁る山に変わってしまっている。

 

 次に、道越の水利事情についてうかがってみた。今までは、大浦小学校の近くにある“ゴンゲン山”に水源があり、それが大浦地区全体を潤していた。これがちょっと旱魃のときに危険だということで、最近では新しく田古里に水源地を設けた。「その水を・・・ヒノンツイという山があるわけね、そこさんおしあげた水をこのへんで使いよるたい。」「ヒノンツイ」という言葉を殊更ゆっくりとおっしゃった。私たちはこれに敏感に反応し、声をそろえて「ヒンノツイってシコ名ですか?」と尋ねた。早速地図で確かめるとその期待は簡単に裏切られた。イワシタの北の方角にある「日ノ辻」という集落だった。ちょっと失望しつつ質問を続ける。「道越に水不足などの被害はなかったのですか?」すると上戸さんは間髪を入れず「いや、私の記憶でねここが水不足という記憶はなか。時間制限もなか。」ととられるようですよ。で、水道料金もここが一番低いらしかけん。」そう丁寧におっしゃった。とにかく、水不足というのは道越にとって無用の心配であるようだ。

 「家畜はないですよね。」そう消極的に尋ねてみた。「ない。」上戸さんは短く一言そう答えたが、「ばってん・・・」上戸さんが九歳頃まではブタや牛を飼っていたのだそうだ。ブタは堆肥としていもの肥料に使ったり、牛は田を耕すために使われたりしていた。しかし、麦やいもを作らなくなるにつれて減っていき、今では全く見られなくなってしまっている。

 何度も繰り返すが、道越は海に面した集落である。今までに大水による被害にどんなものがあったのかを聞いてみた。一番覚えの新しい被害では、今から十年前、平成三年の台風17号、19号による波の被害を最近のことのようによく覚えていらっしゃるようだ。海沿いにある環境広場という場所はコンクリートなどが激しい波しぶきのためにはげてしまいひどい有様だったらしい。それから防災事業で工事を行い、しばらくは大丈夫じゃないかということだった。浸水の心配も今はないそうだが、以前昭和初期位まではその危険も非常に高かった。「というのもギリギリいっぱいまで台風じゃない時も波が来よったけんがら。ここは昔道路なんかなかったとよ。」私たちが上戸さんの家に来るまで歩いてきた海沿いの道のことだった。「今は考えられんように良くなっとるばってんね。」満潮時には道が通れなくなってしまい。遠回りをしなくてはならなかった。「いつ頃道路の整備がされたんですか?」と尋ねた。「これはね、昭和34,5年ぐらいにしよったとですよ。」それからその道路が国道とつながったのはたった10年前だということだ。「ここはそいけん昭和の初期と現在とはもうめまぐるしく違ってきとっと。」70年という長い歳月を生きる人の感慨深い一言だった。

 

平浜と孤谷の歴史について伺っているなかで、私たちは偶然にも道越区の祭りについてお話を伺うことができた。毎年4月3日に行われる“平浜神社祭り”だ。14人の入植者のリーダーを生神として祀った神社での祭りで、私たちが上戸さん宅を訪れる途中に通ってきた神社だ。なんでも去年建て直したばかりの新築らしく、どうりできれいだと思ったが、それでもやはり鳥居には長い歴史が感じられたのを思い出した。祭りでは踊りが踊られるそうだが、その踊りを踊れるのも現在ではごくわずかになってしまっているとのことだ。この祭りは前述のように、入植者を祀った神社で行われるので、やはり“元道越”という意識の根強い道越の参加はなく、平浜と孤谷だけで催されるらしい。一方、道越地区をあげての祭りもある。毎年5月3日に行われる“えびす祭り”だ。これは漁村ならではの祭りで、“りゅうぐうさんまつり”とも呼ばれているらしい。この祭りの踊りを踊れる人の数は多く、子供たちも結構踊れるのではないか、とのことだった。祭りのほかに道越地区が力を入れて取り組んでいるのが少年野球だ。佐賀県内でベスト8に入るほどの強豪チームで、青少年育成事業の一環として30万円の助成金が支給されており、土日の試合ともなると選手の父兄は応援などにつききりになるそうだ。しかし道越少年野球チームはもともと平浜少年野球チームから始まったものなので、道越よりも平浜のほうが力を入れているとのことだった。

 

次に私たちは、道越地区の後継者問題について尋ねた。確かにそれは深刻な問題となっているそうだが、私たちはその背景を知ってとても驚いた。まず、私たちの考えの中では、後継者不足とは、親が海の仕事を子に継いで欲しいのに対し、当の子供が村を出たがって生じる問題だと思っていたが、実際は、海の仕事という不安定さやつらさをよく知っているからこそ、親が子に就職を勧めて生じているのだそうだ。しかし、時代の風は厳しく、なかなか希望通りの就職は難しい様子で、よくてサラリーマン、そうでなければ自衛隊に、という現状だそうだ。このあとも上戸さんは、私たちに意外なお話を聞かせてくださった。

「ほんの十五、六年前まではねえ、逆に跡取りが多すぎたもんねえ。だから組合がね、次男、三男坊対策としてね、後継ぎは長男だけ、他の兄弟は就職をするように、と決めたんよ。それが、今となってはね、間違いだったんじゃなかろか、ち言われてきとうもんねえ。」 後継者問題と言えば、不足ということしか頭に浮かばない私たちにとって、過剰とは思いもよらず、しかもそれが、ここ十五、六年前までの話と伺って驚きを隠さずにはいられなかった。そしてもうひとつ、後継者問題と関連して考えられる“お嫁さん不足”について尋ねてみると、「それは確かにあるよ。」ときっぱり答えてくださった。前述の就職の問題からしても、道越地区の女子は就職して村を出てしまうことがほとんどらしい。合コンもないだろうし、それじゃあ出会いもないのだろうな、と私が考えをめぐらせていると、上戸さんが口を開いた。「でもね、漁で日本あちこち行くでしょうが。それでね、その行った土地からね、嫁さんをもらってくるもんもたくさんおるもんねえ。たとえばあ、山形からとかねえ。」 「それでは、道越の女性はさまざまな土地のご出身の方がおおいんですねえ。」

みたび驚きの声をあげた私たちだった。

 

 「ヒンノツイにはね、偽装大砲があったもんんねえ。」話題は戦時中の道越のことのついてに変わっていた。「大東亜戦争でね、ヒンノツイのてっぺんに、なあんか木でできたもんが埋め込まれてて、そいが偽装大砲やったもんねえ。今はもうなかけどねえ。」 「道越地区に防空壕はあったんですか。」と尋ねると、「それはあったよ。あのころはね、戦争で漁もできないし、防空壕を掘ることが日課だったもんねえ。」とゆっくり答えてくださった。上戸さんは、当時17,8歳の青年で、時分の身を守るので精一杯の日々を送っていたそうだ。道越地区には疎開してくる人も数多く、その中には長崎に嫁いだ女性が被爆後帰ってくるケースもあり、道越でも数人が被爆が原因で亡くなったそうだ。空襲など、直接的なダメージではなくとも、戦争がひとつの集落に与えた影響は少なくはないのだった。

 

 残り時間も少なくなったところで、わたしたちは最後の質問をした。「諫早湾の水門開放問題について、道越地区としてはどういった考えをお持ちなんですか。」とたずねると、上戸さんは、ひとつひとつ言葉を選びながら慎重に答えてくださった。「あれはね、よくノリについてあげられてるけど、ここらの漁にも影響が出てるしね。あの問題については、水門を閉めることから我々はずっと反対してきて、そして最終的には補償金もらっていやなく同意した問題だがね。それを今さらどうこうっていうのがねえ。そりゃあ、調査の結果次第ではうちたちも行動にでるよ。だけど、今の段階では、結果を待つしかないのよ。」

 

 お忙しい中、快く私たちを迎えてくださり、親切に教えてくださった上戸さんのおかげで、調査もずいぶんと進みました。奥様のいれてくださったお茶もおいしかったです。心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。