歩き み ふれる歴史学 現地調査報告レポート
藤津郡太良町 黒金
1LA01014 伊東千尋
1LA01081 越口沙織
私たち二人が調査したのは藤津郡の黒金という地域である。
そこで永渕義雄さん(大正5年生まれ)にお話を聞くことができた。
当日の一週間以上前から先方とは連絡がとれていたので大した心配もせずに実習にのぞむことができたのであるが、バスの到着の遅れなどで予定が大幅にずれ調査結果の成果が思うようにあがらなかった気がして残念である。
とはいうものの、お世話になった永渕さんはたいへん親切な方で、この方のおかげでなんとか目標は達せられたと思う。
永淵さん宅到着までについて
えらく狭い道を選択したのか、バス一台通ることができるか否かの瀬戸際のような道をゆっくり(本当に鈍行!)としたスピードで森の木の枝に阻まれつつバスは進んで行く。
時間は刻々と迫っている。
11時くらいに着くと伺っていたので1時に永淵さんと約束をしていて、それまでは外で働いている方に尋ねたりしよう! ・・と予定していたものの、バスの中はっと気づくともう12時過ぎている!!
かなり焦ったがなんとか12時30分迄にはバスは降車予定地まで辿り着いた。
慌てて先方宅にむかおうとしたものの地図が読めない。
無論用意していなかった訳でも地図について予習していなかった訳でもない。
・・目印がないのである。
しょうがないのでとりあえずここの三つ角は地図上ではここだろう・・と見当を付け、
歩き始めた。
地面は赤土で、先日の雨により滑りやすくなっていて坂を下ったりするのにたいへん苦労した(妹の運動靴を拝借して来て大成功である)。
その後あーでもないこーでもないとのろのろ歩くと婦人センターが!!
感涙にむせびつつ(嘘)地図で確認し永渕さん宅を目指した。
後述するがこのセンターは永渕さんの発案で作られた施設であるらしく、こんなしょっぱなからお世話になってしまっていいものかと後で頭を抱えた。
調査結果
* 太良町について
多良と大浦の二つの地区がS30年に合併され、大浦の大+多良の良に点を加えて太良となった。
“月の引力”が見える町といううたい文句は日本で一番干満差がある場所であるというところからきている。
* 黒金について
この地名は大字ではなく、また正式な名前でもない(正しくは藤津郡太良町
大字大浦巳(キ)である)。
→この巳という地名は廃藩置県のときに政府が作った地名であり、むしろ記号のようなものである。
由来は昔黒金(と後に呼ばれる地域)で黒い木が沢山見つかり、それを売ったらお金が貯まった・・ということらしい。おそらく黒い木とは木炭のことであろう。
戦後の開拓地であるためその他の地に比べ比較的歴史が浅い。
ゆえに古くから続く夏祭りや墓地、馬洗い川もない。
無論古い村にあるような水路のありかたなども存在しない。
戦後の農地改革の際に山は対象とされなかったので、この辺りの山を持っていた人々は一時期左団扇の如き生活を送っていたらしい。
現在地図を見ると目立つ豚舎などもすべて戦後のものである。
戦後十数戸が黒金地区にやって来たが、開拓地であるが為の土地配分についての苦労があったようだ(私は思慮が浅いので開拓地であれば計画的な開発ができて都合が良いだろうと思った)。
食料不足の戦後であるので、入植者は皆より収穫率の良い部分を望んだらしい。
そんな中永渕さんの提案から生活に良い計画的土地割が実行され、若者から順に好きな場所を獲得して行ったそうだ。
その為黒金地区は自宅を中心に2ヘクタールの耕地をそれぞれ持つ理想的な構造になっているのである。
また同時に将来のことを視野に入れて、墓地や公共施設(前述の婦人センターのこと)、遊園地(村おこし的意図もあるのでは・・?)などの土地も前もってまとまった形で用意してあるとのこと。
* 黒金の周辺地域について
周辺も殆ど同じく戦後の開拓地であるが、いくつか維新前からの地域もある。
広谷・・・武家屋敷があった。
そこの武士達は裕福ではなく傘張りなどの内職をして生活をしのいでいたらしい。
維新の時期には鍋島の藩主の避難場所とされていた。
しかし佐賀の乱勃発後武士(士族)はこの地域から引き上げていき、代わりに農民が入植して牛を飼い始めた。
船倉・・・刑務所があった。
これらは肥前国の中でも栄えていた場所で、近くに参勤交代に使われた街道が存在する。
大町・・・商人屋敷があった。
牛尾呂・・ウシゴローと読む(注意!!)。
決して牛を飼っていたからではない。
黒金地区のしこなにも同じ名が存在するが別もの。
* 黒金地区のしこなの由来など
まず断っておかなくてはならないのは、我々が調査することが出来たのは大きな範囲でのしこなであり、田畑一枚一枚に存在するしこなではない(・・というか周りに田畑がない!)。
永渕さんも私どもが訪問させていただくということでその地域の最年長でいらっしゃる方の所に尋ねて下さった(ありがたい!!)らしいが、ここが開拓地であるということもあり、現在ではその類の細かい範囲でのしこなを知る人はいないそうだ(・・それに何度も言うが田畑がない!)。
桶中【オケナカ】・・谷や河川沿いの水田につけられている。
シラゲンコチ・・側に崖のある水田につけられている。
牛尾呂【ウシゴロー】・・水田。たしかに現在牛が飼育されているが、決してだからといってウシゴローなのではない。
これらの地名の由来は水田からであるが、現在では耕作は行われておらず荒れているらしい。
五矛【ゴホコ】・・その名の如く五つの道が交差している。
ゆえにそこでは道に迷うという言い伝えがある。
長川原【チョウゴロー】・・川岸。
小石原【コイシワラ】・・小石が一杯ある。
ネボソ・・根細とは書かない。
漢字はないらしい。
この名を冠した堤がある。
税谷【ゼイタニ】
兵衛田【ヒョウエダ】・・永渕さんの自宅がある所。
同じ名が他の地域に当てられていることもあり分りにくい気がする。だいたいその人の生活範囲によって聞いた人は判断するらしい。
* 昔の結婚観について
大抵お見合いである。
親が決めた相手と結婚式の当日引き合わされ、そのまま初対面の相手と式をあげた。
そんな間柄なのに長く連れ添えているのだから不思議だ・・と永渕さんはおっしゃっていた(かなり照れ気味に)。
* 周辺の記念碑について
田中馨治頌徳碑文・・昭和6年建立。
群長だった田中の尽力により明治17年に県道が開通したことを記念して作られた。
正七位田中馨治君記念碑・・昭和7年建立。
中野萬毛頌徳碑文・・昭和9年建立。
この地域の婦人・青年の教化に尽力した人物を記念して作られた。
余談であるが萬毛女史は先述の田中氏のご長女である。
黒金の開墾の記念碑・・明治39年建立。
黒金の桶中に約三町歩余りの水田と用水池が作られた。
この開墾は亀の浦の永田友一氏が個人でしたもので、現在水田はみかん畑になっている。
永渕さん宅を出た後について
行きに迷ったという事実もあり、我々は早めに永渕さんのお宅を失礼した。
またもやぬれた赤土に滑りつつゆっくりゆっくり来た道を辿って行く。
豚舎を眺め、普段はみられない大自然にほんの少し親しんだ。
運良く迷わなかったので割合早くバスとの待ち合わせ場所についたのは幸いである。
ぼーっとしながらバスを待っているとトラックに乗ったおじさんが私たちにはなしかけて来た。
調査に来た学生かと聞かれたのでそうだと答えると向こうに“右足”があるとおっしゃるのである。
一体なんのことかさっぱりだったのだが、何でも今は牛舎になっているが昔水田だった所に“右足の足跡”があるらしい。
足跡とは一体何であろう?
詳しく聞きたいと思いその方に尋ねてみると、長崎に左足があるとのこと。
ますます??である。
おじさんはそう言ったままその場をトラックでスーっと通り過ぎて行ってしまい追及することもできず、とにかくその右足とやらを見ようと思い牛舎の近くまで歩くがさっぱりなんのことか分からず時間になったのでもとの場所へ戻った。
バスの出発は大幅に遅れたのだから、どうせならあのまま足跡とやらについて調査すれば良かった! ・・と今更ながら思う。
実習の感想
知らない方のお宅にお邪魔して調査をすること自体初めてで、「なんか大学生みたい」(←いや本当に大学生なんだけどね)と思いつつ始まったこの実習であったがかなりデンジャラスで体当たり的要素が強かった気がする。
永渕さんと会う直前どうやって話を進めて行こうかと二人で話し合い「これでバッチリ!」と思っていたのに、本番になるとパ〜っと頭から抹消してしまい真っ白になったり、それでいて何故かペラペラとそれこそ流暢にこの調査の趣旨を並べ立てている自分にふと気づいたり・・(笑)。
こんな体験はしばらくはないとは思うが、この経験を生かせる時が来たら「儲けた!」 とほくそえみつつやって行くことだろう。