公民館に来るようにとの指示にしたがい、道に迷いながらもなんとか公民館にたどり着くと、溝田光輿さん夫妻と溝田さんの紹介で来ていただいた松瀬さんが待っていてくださった。溝田さんは我々のために地域の開拓の歴史を記した書物を持参してきておられたが、我々が、「公的な機関によってまとめられた地名ではなく、田や畑につけられた私的な名称を集める作業を行っているので、そういうものを教えていただけませんか。」と聞くと、少々困惑なされている様子であった。しかし、松瀬さんのほうが、「それは私のうちのあたりを<ナクバタケ>とよんどったようなのか。」とおっしゃられたので、「それはどのあたりのことですか。」と聞きながら森林計画図を見せ、作業に入ったが地図がいまいちよくわからず、なかなか進まなかった。しかし、住宅地図を渡してみると、やはり森林計画図よりも見やすかったらしく、作業は軌道に乗り、集落ごとの名称を集めることができた。このころには溝田さんのほうにも趣旨をつかんでいただけたらしく、話に参加していろいろと教えてくださった。皆さんによると、松瀬さんの自宅があるところから、永渕養豚場の西のあたりまでを、<ナクバタケ>と言うらしい。漢字はわからないとのことであった。そして、<ナクバタケ>の北が<フウノキダニ>(これも漢字不明)、北西にある健康の森公園の南部が<アテギノコタニ>(当木小谷)、北西部が<アテギノオオタニ>(当木大谷)、東部が<フウノキ>(漢字不明)と呼ばれていたらしい。また、<フウノキ>と<フウノキダニ>を分ける道を、<トノサマミチ>または、<トンサマミチ>と呼んでいたらしい。この道の名の由来は、江戸時代に殿様が長崎の茶屋から佐賀に入るときに通った道であるかららしい。この<トノサマミチ>は現在ではよく整備されて立派な道路となっており、溝田さんらの話では我々がバスを降りた地点からこの風配地区まで一本道としてつながっているらしかったが、我々はそんなことはつゆ知らず(後に詳しく記すが)かつて、お話を伺ったかたがたが若かったころ使用していた、細く、険しい山道を四苦八苦しながら、通ってこの風配地区までたどり着いたのだった。続いて<ナクバタケ>の南溝田さんのおたくがあるあたりを<ツブロガワ>(粒呂川)、南西の開拓農協があるあたりを<ジャタニ>(漢字不明)、<ジャタニ>の北の田中弥太郎さんのお宅があるあたりを<カイキワラ>(漢字不明)と呼んでいたとのことでした。最後に<ナクバタケ>、<ツブロガワ>、<ジャタニ>、<カイキワラ>の四つの地域に囲まれた狭い地域を、<クビノタニ>(首谷)と呼んでいたとのこと。松瀬さんによると、<クビノタニ>は昔のサムライに関係がある地名だとのことでした。集落ごとの名称をまとめると次のようになる。
次にいよいよ今回の調査のメインである、水田の私的名称についてたずねたところ、(後に詳しく記すが)水源がないために、水が不足していて水田がほとんどないとのことであった。(確かに言われてみれば道中全く水田を見なかった。)本当は水田を持っている数少ない人物の一人田中弥太郎さんにも来ていただけるはずであったのだが、急に都合が悪くなられたらしく不在であったとのことであった。しかたがないので、たくさんある茶畑についてたずねたところ、茶畑もそこまで広いわけではなく、水田も畑もその所有者の名前で誰々さんの田。とか、誰々さんの畑と呼んでいるとのことであった。 続いて、村の水利についてたずねてみた。現在では、飲料用兼農業用の水道が引かれ使用されているとのことであった。ちなみに水道水の水源は中尾というところにあるということだ。このときついでに、電気・水道・ガスがいつ頃集落にきたかをたずねてみたところ、電気は昭和30年頃、ガスはプロパンが昭和40年ごろ、水道は20年前程に来たとのことであった。ここで、水道が引かれる前はどのようにして水を確保していたのかのかをたずねたところ、川などもなく、(川がないので当然水遊びをしたとか、牛や馬を洗ったなどという場所もなかった。)小規模な湧き水の源泉が<カイキワラ>と小字当木地区の両地域にあるだけであったので、その水源でたるに汲み上げ肩に担いで畑まで運んだとのことであった。確かに地図で確認しても、数少ない田んぼもこの水源があったというところのすぐ近くにのみある。ところで、この時点ではじめてわかったことだが、風配という地域は第二次世界大戦(地元の方々は大東亜戦争と呼んでいた。)前までは、人が誰もすんでいない未開の地で、第二次世界大戦の時の空襲で焼け野原になっていたところに、戦後になってから松瀬さんのご主人の松瀬春好氏等が昭和26年に佐賀県の開拓事務所からすすめられて開拓をはじめてから人がすみ始めた土地であることがわかった。この地域の水田にも茶畑にもしこ名が存在しないのはこのことが大きな理由かもしれないと思った。お話を伺った皆さんの中で最もお年を召されている松瀬さんが、この土地に移ってこられたのが松瀬春好さんが開拓をはじめてからわずか3年後の昭和29年であるとのことなので、松瀬さんがなかったというのならまず間違いなく水田や茶畑にしこ名はなかったであろう。三名に開拓当時の様子を知っている人物が誰かいらっしゃらないかとたずねたが、開拓第一世代の方々は皆さん、もうお亡くなりになっているとのことであった。お一人だけおられるようなことを言っておられたが、その方もおからだを壊されているらしく聞き取り調査はできなかった。 そして次に、山や谷、山道や岩や大きな木など目印になるものにつけられた名、草きり場の名などがなかったか聞いてみたが、ほかの昔からある集落にはあるかもしれないが、この地域にはもともと人がすんでいなかったため、存在しないとのことであった。また、草きり場についても、昔は自分たちの家の目の前以外は開拓されていない未開の地であったため、わざわざ草切り場のようなところを作らなくても、家の前の草で事足りたので草きり場はなく各自周囲に生えている草を使用していたとのことであった。 次に、1994年の大旱魃の際の集落の様子についてたずねてみた。溝田さんによると、1994年当時にはすでに水道が引かれていたので大被害はなかったが、井戸がかれてしまい時々水が足りなくなったとのことであった。そこで、周辺の集落(船倉・大町・黒金)と共同で、風配地区の南にある大浦ダムにそそぐ川のうちのひとつ(川の名はわからないとのこと。)からホースで水を汲み上げ大浦ダムにもっとも近い船倉地区に溜池を作り水をため消毒し、そこから山の中に通したパイプラインを通して風配地区まで水を持ってきて各家々の畑や水田に水を供給したとのことであった。しかし、この地区に水田が少なかったことが逆に幸いし、水田のいくつかが干上がるとか、どの水田や畑に水を入れるかもめるなどといったいざこざはまったくおきなかったとのことである。また、旱魃時だけでなく、平時もどの水田から順番に水を入れるかは決まっておらず、各家が自由にやっているとのことであった。それにしても悔しいのは、この地が戦後に開拓が始まった比較的新しい土地であり、しこ名というものが存在せず、また開拓第一世代の方々のほとんどが亡くなられており、残った方々も体調を崩されておりお話を伺うことができなかったことである。もう数年早くこの地を訪れていたらもっと数多くの人からいろいろな話を伺うことができたかもしれないと思うと残念でならない。だが、<カイキワラ>というしこ名が皆さんなかなか思い出せず、悩んだ末に松瀬さんがついに思い出されたときは思わずみんなでいっしょになって喜んでしまった。 次に、風配の数少ない田の土地についてお聞きした。風配の田は、水が入ってもすぐに乾いてしまう乾田であり、さらに先に述べたように、風配には水源が少ないため、水田での稲作ではなく、畑での陸稲が行われてきたそうだ。陸稲とは、もみを畑に直接まく農法で、収穫時期は、水田での稲作より一ヶ月ほど早いと教えてくださった。しかし、雨があまり降らなかったら、収穫できないこともあったともおっしゃった。それから、松瀬さんが、「風配は、開拓当初から土地が悪く、開拓には苦労した。主人は『ささごろし』という地中で複雑に絡み合っている笹の根を腐らせる農薬を考案して、ようやく農業ができるようになった。でも、ちょっとでも放っておくとすぐにまた笹が地に根を張りたいへんやった。」と話してくださった。風配の田の歴史はまだ新しく、戦後、生活のために、池水でわずかな田をつくったのが始まりであるそうだ。風配では、田ではなく、畑での茶の栽培の栽培のほうが多かったと教えてくださった。私たちが、公民館に向かっているとき、(風配全体を見たわけではないが)田は全然見ることができなったが、茶畑は見ることができた。溝田さんと松瀬さんのこのお話を聞いているときに、そのことを思い出して、改めて納得した。 進んで、風配には入り合い山があるかどうかについてお聞きしたところ、松瀬さんも溝田さんも入り合い山のことを知らないわけではなくて「ない」とおっしゃたので、私達も納得してこの話についてはこれ以上質問するのは控えた。 次に、風配の動物についてお聞きした。私たちが、風配は馬と牛のどちらが多かったかをお聞きしたところ、松瀬さんが、「馬も牛もおらんやったよ。だけん昔農業は、全部手作業やった。」と教えてくださった。ただ、少し牛はいたらしいが、肉牛用であったため、農業の担い手としては使われていなかったそうだ。今では、牛などの畜産が行われているそうだ。 続いて、かつて塩や魚はどのように調達されてきたかをお聞きした。風配は海から離れた山の中に位置しているため、塩や魚は定期的に業者が売りにきていたそうだ。それから溝田さん、松瀬さんは加えて、「昔は必要なものは下(多良町)まで自分たちで買出しに行って、一日かけてかついで運びよったよ。」と話してくださった。さらに松瀬さんは「昔は何でも要るものはかついで運びよった。車でするようになったのは昭和五十年代になってからかな…。」とおっしゃった。私たちは一時間かけて風配まで歩いていった。到着したとき皆さんに「歩いてきんしゃったと!大変やったやろ。」と驚かれた。どうも私たちがきた道は古い道だったらしく本当にきつかった。当時の風配の方々は生活のために想像を絶する過酷な労働をなさっていたのだろう、とお話を伺いメモをとりながら感じていた。今では中央道が通っており、帰りは親切にも溝田さんがその道を通って車で送って下さった。 最後に、村のこれからについてお聞きした。私たちがお聞きしたところ、溝田さん、松瀬さんは揃って大笑いして答えづらそうになさっていた。風配はどんどん若者が出て行ってしまって戦後まもなくは六十世帯あったが、今では十分の一の六世帯にまで減ってしまっていて、過疎化進行中であるそうだ。私たちは風配が六世帯であることは事前に知っていた。正直言ってその時はかなり驚いた。失礼ながら「本当に行くの」と思ってしまった。しかし実際に行ってみると風が涼しく吹いていて、僅かの滞在時間であったが居心地が良いところであった。溝田さんは「これからは畜産中心になるやろうね。」とおっしゃった。茶畑が多いというお話を伺ったがその茶畑も減少傾向にあるそうだ。松瀬さんが「将来には希望も何もないよ。」とおっしゃったとき、思わず笑ってしまったが、正直ちょっとさびしさを感じた。 私達の質問が全て終わったあとも溝田さん、松瀬さんは昔の風配について様々なお話をして下さった。子供たちの学校に行く姿や、松瀬さんのご主人の話だ。松瀬さんは「主人は何でも人に教えてあげないと気がすまない人で、ただ自分だけが知っているのは申し訳ないっていう考え方やったけん、近所の人になんでも教えてやりよった。」とおっしゃった。『ささごろし』の事といい、すごい人なんだなあと感心して聞いていた。それから、「風配」という名前の由来についても教えて下さった。風配は、いつも風が強く吹いていたことから最初は「風早」と名付けられていたが、いつの間にかそれが「風配」と表記されるようになったそうだ。このように興味深いお話をたくさん聞くことができた。 溝田さんご夫妻、松瀬さん、親切に私達を迎えて下さって、そして、有意義なお話をたくさん話して下さって本当に感謝しています。この場を借りてお礼を述べさせていただきます。ありがとうございました。 溝田光輿さん 昭和17年生まれ 奥様 昭和23年生まれ 松瀬さん 昭和4年生まれ 昭和29年入植 |