まず、私たちは事前に手紙を出していた、宮川末継さんのお宅を訪問した。初めての場所とは言え、宮川さんのお家はすぐに見付けることができた。しかしなかなか玄関のドアをたたくことができずにいた。すると宮川さんの奥さんが私たちに明るく声をかけてくれ、家の中まで通してくれた。こんな調査は初めてで、私たちはいささか緊張していたが、宮川さんが「よう来たねぇ、大変じゃったろ。ゆっくりして行きなさい。」と手厚くもてなしてくれたので、その緊張も解けていった。宮川さん夫婦はすてきな方だった。言葉使いもやさしくていねいで、私たちにお茶やケーキを出してくれたり、初めにいろいろ話しかけてくれたり、とても良くしてくれた。太良町は諌早(長崎県)に近いため、方言(イントネーションやアクセント)は佐賀よりも長崎に近いのだそうだ。 「先輩に連絡しちょったけん。」とおっしゃって、松野義純さん(大正14年生まれ)を呼んでくださった。私たちは、そのお気遣いに大変感謝した。私たちは互いに自己紹介をして目的の話題に入ることにした。 まずは小字の話から。「小字は戸籍帳には載ってないの。亀の浦とは通称であって、正式にはなかとよ。」全ては甲、乙、丙、丁、に分けられている。それも松尾さん、宮川さんが生まれる前、昭和29年に多良町が太良町に合併するよりも以前からだそうだ。「あんた達が私にラブレター書くときにね、正式には‘大字大浦丙○番地’と書くとさ。亀の浦は正式な地名じゃなかもんねぇ。」と冗談まじりに分かりやすく説明してくださった。 次に、地図を広げ、しこ名の話に移った。 救ノ内(スクイノウチ) 榎道 (エノキドウ) 上野崎(カミノザキ) 野内 (ノウチ) 社 (ヤシロ) 亀の浦(カメノウラ) 名切原(ナキワラ) 舟津 (フナツ) 日当平(ヒアテビラ)−サガリ、カミ 権現谷(ゴンゲンダニ) 辰石 (タツイシ) 郷敷 (ゴウシキ) 沖の祭(オキノマツリ) 名切原に関して、松野さんの話; ここら辺では私も含めてこれをナキワラと呼ぶんじゃが、ある時他から来た人が地図で地名を見てこれをナキリハラ(ナキリバラ)って呼んださ、これを聞いた時私は、ああそうか、そうかもしれない、って思ったさ。それはなぜかと言うとね、この名切原はちょうど上と下のお墓にはさまれておるじゃろ(地図を参照)、だからここで人はこの世での俗名を捨てて、つまりは名を切って、法名を得るんじゃなかとかって考えたとさ。それが名切原で、もしこの考えが正しかったとすれば本当だったらこれはナキリハラ、若しくはナキリバラって読むのが正解じゃろうなぁ。 集落について; 昔は一つ一つの家は麦わらで造られていた。それも小麦が、丈が高く、茎が細く、雨にも強くて丈夫だったそうである。その造りは白川郷のようだったと話してくれた。その頃の集落の立地条件としてはそのような麦わらの家が風(台風のこと)で飛ばされないような所、あと一つ重要だったのが、水のある所であった。そのような集落の立地場所としては、舟津、辻、名切原、日当、越が挙げられる。 話が進むにつれ、話題は昭和37年7月8日に起こった大水害へと移った。この大水害は一昼夜の降水量800mmを越える局地的集中豪雨により、太良町内各地で崖崩れ、地滑りが相次ぎ、大小河川は氾濫を起こした。特に、亀ノ浦の権現山の地滑りにより一瞬の間に31名が生き埋めとなり、大浦小学校校舎2棟及び大浦郵便局全壊、大浦公民館、役場大浦支所半壊、民家の全壊半壊は多数にのぼったという大惨状であったため、松尾さん、宮川さんの話にも力が入る。「ありゃひどかったもんなぁ。」地元ではその土砂災害を、方言で‘山津波(ヤマツナミ)’とか‘山潮(ヤマシオ)’とかいうふうに呼ぶそうだ。 「本当は、昔あそこは棚田やった。大雨続きでその水田に水がたまって、山が崩れる時にそん水が滑り台の潤滑油の役割ばはたして土砂が川の反対側まで流れて埋まってしもた。」この水害で線路は3か月ほど不通になり、小学校においては1棟目は全壊、2棟目まで崩れたそうだ。3棟目、校庭まで土砂で埋まってしまった。「しかし不幸中の幸いなことに、その日が日曜日でね、生徒がいなかった。あれだけは幸せだった。それだけが救い。」「あの災害でここら辺の風景も生活も一変したさぁ。」と二人は口をそろえて言う。そのあと田んぼだったところが埋まって、いくつも家がたったり畑になったりしたそうだ。 この災害後、問題となったのは飲料水の確保である。もともと丘陵地帯の多い大浦地区は飲料水に恵まれず、湧水に頼っていた。当時の太良町長であった西村さんはこの不便を解消するため、昭和36年から亀の浦に水源探索のボーリング調査に取りかかっていた。約半年くらいボーリング調査を続けたが、37年の権現山の地滑りで調査箇所が埋没してしまった。その後、災害復旧と並行して、水源探索を続けた結果、昭和39年、有望な水源を権現山の下に掘り当てて、ここに水源地を建設して、大浦地区の簡易水道が実現した。「ありゃ水害のおみやげかもしれんねぇ。それからみんなに水が行き渡るようになってあちこちに家ができるようになったとさ。」その地下水は、夏は冷たく冬は暖かい。 亀の浦の住民は大喜びであった。それから、コンクリートで舗装のための三面工事が行われた。「でも旱魃の時は困ったでしょう?」と尋ねると、「本当三面工事した下にもまだ水が流れよって、足りん時はそこを割って、そこからポンプで水をくみ上げよったさね。」と松野さん、宮川さんは答えてくださった。 おしまさん伝説; 碑銘「沖髪大明神・享保10歳(1725)在乙巳5月吉祥日」 有明海の沖の島に鎮座する沖髪(おんがみ)大明神の分霊を奉ったもので、雨乞い祈願に霊験のある神として崇敬されている。島には「オシマサン」の悲話も伝えられている。 昔、「おしま」と言う娘が老人と二人で暮らしていた。ある年、非常な旱魃で農民が困っていた。これを見たおしまは神に雨乞いの願をかけ、有明海に身を投げた。しばらくしておしまは死体となって沖の島に流れ着いた。雨乞いの願いがかなって慈雨が降り、豊作となったので、おしまをこの島に奉り、沖の島を「おしまさん」と呼ぶようになったという。 太良町のみかん栽培について、宮川さんに関連して; 太良町にみかんが導入されたのは昭和7年(1932)頃であった。その頃太良町にみかん園経営のきざしが現れたが、時代は戦時体制へ推移し、農家は食料増産一本に追い込まれ、みかん園も経営困難となり、甘藷畑に切り替えざるを得なかった。現在、その当時のみかん園が残っているのは僅かである。 終戦直後から、みかん園経営を希望する農家がぼつぼつ現れ、果樹研究会を結成し、それがだんだんと大きくなってきて、現在ではみかん園の大いに造成された。そして佐賀県のみかんの銘柄を確立するため、昭和40年(1965)度から全国に先駆けて「うまい佐賀みかんつくり運動」を展開してきた。 今日では「大浦早生」という品種で日本一の極早生みかんの産地として「太良みかん」の名声を確立している。 宮川さんのみかん畑はいくつかに分けられていてそれぞれに名前がある。それはそのそれぞれの畑に関わりのあるもので、宮川さんたちとその周りでしか通じないそうだ。例えば杉田畑(以前の持ち主の名前) 太良町の茶栽培について、松野さんに関連して; 太良町において、茶の栽培が始まったのは不明であるが、戦後、昭和21年(1946)からの開拓入植により、茶の栽培が本格的に始まった。昭和57年以来、低温降霜による被害を受けた。その後も度々霜による被害を受けたので、防霜ファン設置等の防霜対策に努めた。私たちは松野さん、宮川さんに亀の浦のまわりを案内していただいた際に松野さんにこの防霜ファンを見せてもらった。 ここにもみかん畑同様、名前がある。安夫畑、卯さん畑、谷畑など。 帰りには宮川さんの奥さんが長崎カステラをお土産にくださった。これほどに気を使っていただいて本当に悪い気がしたが、とても嬉しかった。11月にはみかん狩りにおいでと誘ってくださり、私たちはお言葉に甘えて必ずまた来ることを約束して帰った。 |