今里

甲斐千尋 1LT01036T 樺木野恵子 1LT01041N 鐘ヶ江優子 1LT01040R

 お話を伺うことになっていた武田昭彦さんは、奥様が体調不良ということで、訪問は差し控えることにした。そこで武田さんの奥様に(武田昭彦さんは不在だったので)昔から今里で暮らしていらっしゃる、土地のことに詳しい方をお訪ねしたところ、3軒隣の鶴田さん(酒屋経営)を紹介してくださった。武田さん宅は下今里方面にあったので、中今里方面に来た道を戻り、鶴田さん宅を訪ねたところ、いくら呼びかけても応答がない。お店には猫がぽつんといるだけだ。困っていると、隣の納屋からおばあちゃんが出てこられたので、鶴田さんだと思い、自己紹介をした。「九州大学の学生ですが、今、田畑の昔の呼び方などについて調べています。よかったらお話をお伺いできないでしょうか?」とまだ言い終わらないうちに顔をしかめて向こうに行ってしまわれそうになった。しこ名について訪ねると、迷惑がられる場合もあると聞いていたので,「あぁ、これがそうか・・・どうしよう?」と焦っていると、そのおばあちゃんが、私は昔からここにおるわけじゃなかけんわからんとよ。私がにおる時は鶴田さんはここにはおらんと。精米所におるよ。」と教えてくださった。私たちはお礼を言って、中今里方面に何軒か先の精米所を訪ねた。しかし、おうちの方に不思議そうにされただけで、鶴田さんはいらっしゃらなかった。「やっぱりさっきのおばあちゃんが鶴田さんなのでは・・・??」と思い、再び鶴田酒店に向かうものの、先ほどの様子では、再び聞くことはできないだろうと判断し、私たちは行きづまってしまった。道端で途方に暮れていると、通りかかった乗用車に乗っていたご夫婦が引き返してきて、「どうしたの?」と声をかけてくださった。お二人は私たちが広げていた小字図を見て、大変驚いたらしく、しきりに声を上げていらっしゃった。どうやら地図に書かれた小字が懐かしかったらしい。「そうそう、昔はこんな風に呼びよったんよ。私らが住んどるのはこの辺よ。」と言って宮乃後を指さされた。現在地も教えてくださり、私たちが事情を話すと、そのご夫婦は深川ツルさん(大正6年生まれ)という方を紹介してくださった。「深川のおばあちゃんは昔から住どる人やけん、このあたりのことはよく知っとんしゃーよ。公民館の隣の家やけん、行ってみなさい。」とおっしゃって、二人は車に戻られた。このお二人のおかげで大変助かった。土地に詳しい方まで紹介していただいて、本当に感謝している。お二人のお名前を聞き忘れてしまったことが、大変心残りで残念である。さて、次に向かうべき場所も決まった私たちは、公民館を目指して、中今里方面に戻り始めた。5分弱歩いて、深川さん宅を発見。すると玄関に一人のおばあちゃんが座っていらっしゃった。またもや留守だったらどうしようと不安だった私たちは、その姿を見て喜んで近づいていった。「こんにちは?九州大学の学生ですが・・・」と言ったところで、様子がおかしいことに気がついた。深川さんの手からは血が流れていたのだ。草で切れてしまったらしい。驚いた私たちは、病院に行ったらどうかとすすめ、けがをなさっているのにお話を伺うわけにもいかない、と断念しようと思ったが、「大したことなか、よもぎで血ば止めよるけん、大丈夫。」とおっしゃったので、大変心配ではあったが、お言葉に甘えることにした。深川のおばあちゃんは突然の訪問に大変驚いた様子でいらっしゃったが、調査の趣旨を話すと、笑いながら快く引きうけてくださった。まず、「役場とかに登録されているものではなくて、この村の方たちだけで使っている、田の昔からの呼び名を教えてもらいたいのですが・・・」と切り出した。深川さんはしばらくの間、よくわからない、というようすでいらっしゃったが、小字図を広げてお見せすると、「あぁ、ここは私たちはこんな風には呼ばんとよ。」といって 次々にしこ名をあげてくださった。深川さんによると、以下の通りである。

太良町・今里の場合
   中今里のうちに ? マエダ(前田)・ナカグミ
       うまわたしのうちに ? ミヤウシロ(宮後)・オクボ

   今里口のうちに ? フナツ(船着)

   下今里のうちに ? ヒランタ

   古里のうちに ? ウエンハタケ

上記の事項に解説を加えると、マエダ(前田)は家の前にある田だからそう呼ぶらしい。また、ミヤウシロ(宮後)は浅間神社の裏にあるため、ウエンハタケは家の上方の古里にあるため、そう呼ぶという。フナツ(船津)は、県境を指しており、海に船が着くためについた名で、今里だけに限らず、いろんな地方でみられるしこ名だそうだ。

次に、目印になるような山や谷、山道、岩、大きな木などにつけられた名前はないかお尋ねした。最初は「そんな大きな岩とか、そがんとはなかよ。」とおっしゃっていたが、思い出したように、「ウトウ山って正式には呼ぶごたんけど、私らはハッテンサンって呼ぶ山のあるよ。」とおっしゃった。詳しくお伺いすると、サザンカ高原へと続くその山は、正式には『ウトウ山』というが、ハッテン神社がまつられているため、地元の人は『ハッテンサン』と呼んでいるらしい。そのほかにもいくつかの質問をさせていただいた。その質問と、深川さんから教えていただいた返答の内容を次に上げておく。

≪質問≫
@ 村をいくつかに分けて付けられている名前について。
A 水田にかかる水は、どこから引水されているか。
B 1994年の大干魃の時は、どうやって水をまかなったのか。また、時間給水はあったのか、その呼び名は何か。
C 雨乞いをしたことがあるか、またその仕方や場所、効果のほどはどうであったのか。
D 村の範囲はどこからどこまでなのか、その境界は。
E 乾田と湿田はあったのか。
F 化学肥料が入る前は、何を肥料としていたのか。
G ゆい(共同作業)は、どのようなものだったのか。
H 農薬のない時代は、どうしていたのか。
I 共同田植えは、いつまであったのか。
J 稲刈りの後は、何をするのか。
K 電気・プロパンガスは、いつ来たのか、またその前はどのような生活だったのか。
L 家族で食べる飯米は、なんといったか。
M どうやって米を保存したか。
N 牛は各家に何頭いたか。


このうち深川さんから回答を得られたのは、@ A D F G H M Nであり、残りの質問の幾つかは、後にお会いする大島さんにお答えいただくことになる。時間の関係上、また、私たちの力不足のために、回答を得られなかった事項もあり、非常に心残りであった。

≪回答≫
@ 今里の中でも、下の方(今里口・下今里)はヒランタと呼び、上の方 はオクボと呼ぶらしい。オクボとは宮の上の方の呼び名ということなので、うまわたしを指すことになる。また、下に住む人々のことをシモの人上に住む人のことをカミの人と呼ぶそうで、「私はいつも『シモのおばちゃん、シモのおばちゃん』って呼ばれてるとよ。」と笑っていらした。

A 自然にイデ(水路)を通ってくる山からの水を使用するらしい。そのため、伐採 は引水にも影響するらしい。また、水路の掃除のことをイデサラエと言うらしい。

D 今里は海から山までの長い部落で、上はウトウ山から下はフナツ(船着)までに渡るらしい。

F 深川さんが若い頃から、ずっと化学肥料を使っているという。牛の堆肥も使用したが、効き過ぎるため、使用頻度は少なかったらしい。

H 農薬を使用する前は、真夏に毎日手作業で草を取って歩いたと言う。大変過酷な作業であっただろうということは想像に難くない。夏休みには、子供も一緒に草取りをさせられていたという。ちなみに、農薬は天気のいい日にしか蒔けないのだそうだ。

M 昔は、収穫した米を強制的に出さなければならず、自分たちが食べる分はなくなってしまうこともしばしばだったという。今は出す出さないは自由で、今里の部落では、お米を出す家は2、3件だと言うことだった。保存方法についてだが、昔はカマス、カンカンと呼ばれる容器に入れて保存しており、今は出し入れがしやすいため、30Kgずつの袋に入れて保存しているらしい。

N 昔、牛は各家に一頭いたそうだ。機械に変わる前は、牛は田を耕す手段として飼われていたらしい。雄が多かったと言うことだった。

G ゆい(共同作業)は、昔は村総出でいもの収穫をしていたが、山を開いてミカン畑が作られてからは,ミカンの収穫に変わったという。しかし、近年農家の方々の老齢化が進行し、ミカンの収穫のような重労働が難しくなってきた。だんな様が亡くなってからは、ミカンの木を切ってしまい、ミカンの栽培をやめてしまう方が大変多いという。ここまでお話になってから、深川さんは一瞬言葉を止め、ぽつりとおっしゃった。「後を継ぐ人がおらんのよ。」今までにこにこと、ときには冗談をまじえながらお話ししてくださっていた深川さんの顔に、かげりが見えた。「後継がおっても、お嫁さんに来る人がおらんの。農家には。すぐ年寄りになるしお嫁さんは来んし、もうミカン畑をする人がおらんのよ。」と悲しそうに続けられた。「じゃあ、昔はミカン畑をする人が多かったんですか?」と尋ねると、「昔は全然なかったとにね、もう私らが小さいときには、ミカンだの一本もなかったとにさ、さぁ、ミカン、ていうてザァ−ッとミカンになってしもうたわけ。みんな山も開いて、どこでもミカン畑になってしもうたの。ところが、年をとって、しいきらんごとなる、子供にお嫁さんは来ん、年寄りだけではミカンもしいきらんっていってやめて、荒れてしまいよっと。」とおっしゃった。たとえ、お嫁さんが来て孫が生まれたとしても、ちょうど私たちくらいの年代になると、都心に出てしまうのだという。ミカンの値段は安いときはとことん安く、それだけで生活していくことができない。消毒をするのも大変な重労働な上、費用がかかる。その割に収穫はあがらない。従って、なかなか嫁いでくる人がいないのだという。また、収穫時には、人を雇って手伝ってもらうが、その人件費を払えば、ミカンを売った収入はほとんどなくなってしまうらしい。「だけん、ちぎらんでいっちょったがマシっちゅうて、荒れてしまいよると。収穫がいっぱいあったら、お嫁さんだって楽しくやっていけろうけど、実際はミカンだけじゃ生活していけんとよ。私たちは言葉を失ってしまった。何と言っていいのかわからなかった。農家の暮らしは大変だとよく聞くけれど、実際にこうして直接農家の方の口からお話を聞くと、重さが違った。考えさせられると同時に、そういった事情も全く知らず、調査にのぞんだ自分たちの浅はかさを恥ずかしいと思った。

 私たちが考え込んでしまったためか、深川さんは笑って「今からまた下に行きんさっと?」とおっしゃって話を逸らされた。きっと、私たちの重い表情を察してくださっての配慮だったのだろう。そう思うとなんだか切なくなってしまう。私たちは、今から来た道を戻り、福岡に帰る旨を伝えた。すると、深川さんは、「さっきあんたたちが来んさったときに、私は裏の畑に行こうとしよったと。そいで、そこんにきに一本草の出とったけん、刈ろうとしたら、ザク−ッといってから。血のダラ−ッと出てきてね、ここに座っとったとよ。もうすぐいいお嬢さんたちの来んしゃるけん、そこに待っとけ−って、神様の言いんしゃったんかもしれんね。」そういって笑う深川さんをみて、私たちは胸が熱くなってしまった。深川さんの息子さんにも、お嫁さんが見つからず、家事は深川さんがこなしているという。農業という厳しいお仕事をしながら、お子さんを育て上げ、今も将来への不安を抱えたまま生活される苦労は、大変なものであろう。深川さんは、最後に「あんたたちは、よかところにお嫁に言って、幸せになりなさいよ。」と笑っておっしゃった。本当に、何と返事したらいいのかわからなかった。胸が苦しくなり、涙が出そうになってしまった。こういうとき、気の利いた言葉を言えない自分がとても悔しかった。今回、深川さんにお会いし、貴重なお話をしていただいたことは私たちにとって、本当によい経験であったと同時に、これからよりよい社会を築いていくための、1つの課題を得たような気がする。突然来訪し、たくさんの質問をし、きっと驚かれたに違いない。それにもかかわらず、一つ一つ丁寧に答えてくださった深川さんには本当に感謝している。私たちに対して気を遣わせてしまったことも、大変申し訳ない。帰り際に、写真を撮らせていただいたので、今回の調査で作成した資料と一緒に同封し、改めてお礼の手紙を出そうと思う。

 深川さん宅を出て、バスを降りた場所へ戻ろうとウマワタシ方面へ歩いていると、中今里のあたりで1人のおばあちゃんが、私たちを見て、興味深そうに近づいていらっしゃった。予想外の出来事ではあったが、まだ時間もあったし、今回の調査は最初から予測できないことの連続だったので、とくに驚きもせず、お話を伺うことにした。このおばあちゃんの名前は、大島チヨさん(大正9年生まれ)。とてもフレンドリ−な優しい方だった。大島さんによると、以前にも、学生が来村し、話を聞いていったという。その際には、まだ村一番の古老がご存命で、その方がお話をしてくださったらしい。その方も今はもう亡くなり、昔のことを伝えることができる方は、どんどん減ってしまっているのだと、大島さんは残念そうにしていらっしゃった。「私の知っとることでよかなら・・・」とおっしゃって、わざわざ作業をやめて、私たちの質問に答えてくださった。その回答は以下の通りである。

≪回答≫
B 1994年の干魃のことはあまり話してくださらなかったのだが、昭和12年に起きた干ばつの際の様子を教えてくださった。その時はボウリングをして地下から水をくみ上げてのりきったらしい。また、時間給水は、カワシミズ(交わし水)と呼んでいたという。

C 雨乞いは、毎年1回5月1日に、ウシオロ(牛尾呂)に登り、神様に祈る形をとるらしい。

J 田植えがすべて終わった後、毎年タキトウ(昔はフエフキと呼んでいた)と呼ばれる祭りが行われるという。日にちは決まっておらず、今年は7月1日に行なわれるそうだ。私たちが今里を訪れたのは、6月30日であったので、1日違いでその祭りを見ることができなかったことになる。ぜひ実際に見てみたかった。残念だ。また、8月14日にはお祭りが、12月1日には、神主さんが家々をまわる行事もあるという。

 上記以外にも、今里で目印になる木などがないか、大島さんにも聞いてみた。すると、「あぁ、それなら一本木があるよ。」とおっしゃった。いかにも目印になりそうな名前の木だ。大島さんは毎日、だんな様と一緒に一本木まで散歩をするらしい。思いがけない情報を聞いて、「一本木?」と私たちが目を輝かせたからであろうか、大島さんはにっこり笑って「姉が近くに住んどって、そこまで行くついでに、一本木もみにいきましょうか」と申し出てくださった。私たちは、いつものペースで歩いてしまわないよう気をつけながら、大島さんの歩調にあわせて、ゆっくりと一本木へ向かった。バスを降りてからその時まで、お伺いする方が不在だったり、地図がよく読めなかったり、と、精神的に張りつめていたせいか、周りの様子などに目をとめることがなかった。大方の調査を終え、精神的に余裕を持ってのんびり歩いていると、今里の自然の豊かさに気がついた。青々とした田の苗が風にそよいで、微妙に色を変えていく様子は、とてもさわやかで美しかったし、ホトトギスも鳴いていた。強かった日差しも幾分弱まり、汗ばんだ肌に、風が心地よかった。2,3分歩いて、浅間神社の手前まで来ると、「ほら、あれが一本木よ。」と大島さんが指さされた方向には、スラリと背の高い大きな木が一本そびえ立っていた。横の斜面には、牛が数頭草をはんでいる。まだ、小さくしか見えなかったので、さらに少しだけ歩いて浅間神社に着くと、大島さんは腰を下ろされた。「あの木はね、私らは『一本木、一本木』って呼びよるばってん、本当は『オガタマ』の木っていうらしかよ。」と教えてくださった。昔の遊びについて聞くと、「昔はね、公民館のことを『クラブ』っちゅうて、青年団の男女が集まりよったと。今んごといろいろ遊びのある時代じゃなかったばってん、それなりに楽しかったよ。」となつかしそうにおっしゃった。そして、『今じゃこの辺も、昔とすっかり変わってしもうたもんねぇ。この浅間神社だって、こんな風じゃなかったとよ。」と続けられた。浅間神社も工事などで変わってしまったらしい。大島さんのお兄さんが描かれた、昔の神社の絵を神社に飾っていた時期もあったのだが、台風で飛ばされ、今は残っていないということだった。しばらく休んで、ふと時計を見ると、もうあまり時間がないことに気がついた。そこで、私たちは大島さんのお姉さまの家の近くまで一緒に行き、そこで別れた。大島さんにも貴重な情報をいただき、本当にお世話になった。

 十分な資料を収集できたとは言い難いが、今回の調査は、私たちにとって大変貴重な経験となった。住民の皆様の協力がなければ、調査は決して成り立たなかった。協力してくださった皆様に心からお礼を言いたい。本当にありがとうございました。