「歩き、見、ふれる歴史学」 調査レポート ―佐賀県多良町・船倉(ふなぐら)
調査者 1LT01127W堀田 亮 
1LT01154Y 山崎 一穂
1LT01120G 藤澤 真次

協力者 糸山 幸男 (イトヤマ ユキオ) 氏(船倉区区長) 昭和12年3月24日生
佐藤 梅次郎 (サトウ ウメジロウ)氏(船倉区住民)昭和9年3月1日生
永田 司 (ナガタ マモル)氏(黒金区区長)    昭和6年4月1日生

@地名の調査結果

1. 字

船倉は戦後入植によって作られた地域なので、江戸時代から伝わる古い字はないそうである。それでも幾つかは教えてもらうことができたので記しておく。
 船倉     小字  ナシノキダイ (梨の木台)
            ミヨシガワ  (三好川)
            ウーダニ   (大谷)
            ゴンネン

2. 水路

 小字のところに「ミヨシガワ」とあるが、現在は川はかれてしまっている。他には水路はないそうなので、この地域では水を使った農業を行ってはいないそうである。

Aお話の内容

1. はじめに

 私たちは船倉について調査すると決まったとき、区長さんである糸山さんに手紙を差し上げることにした。その後、糸山さんからの返事では「私はこの地域の土着の人間ではないので詳しい人を紹介します」ということであった。実際に糸山さんのお宅に到着すると糸山さんと佐藤さん、永田さんがお待ちになられていた。私たちは遅れてきたにもかかわらず、糸山さんたちは笑顔で迎えてくれた。

2. 地名のことについて

 糸山さんは多良町の町史のようなものを用意して待ってくれていた。しかし糸山さんよりも何年か早くこの多良町にやってきたという永田さんに主にお話を聞くこととなった。しかし前述のとおり、戦後の入植によってできたので、昔から続く地名はないそうである。ただし永田さんは非常に興味深いこのようなことをおっしゃっていた。「お茶畑があるんですよね、今のお茶畑の様にですね、きれーにしてあるんとですね。山の中にあったんですよ、荒れてしまってね。おそらくですね、100以上、200年位前にですね、人間がすんどったのですね。私の勘ですよ。」このお話は船倉のことではなく、広谷や、風配についてのことであったが、もし永田さんの推測が正しければ、きっとこの地域にも集落があったのだろう。そうなれば、糸山さんたちが入植される前にも集落があったことになるので、いろいろな地名の呼び方が残っていたのかもしれない。
 水路のことであるが、この地域には川は通ってないので水路はないそうである。湧き水はあるらしいのだが、農業に使えるほどのものではないそうだ。「私は、細かい(小さい、幼いの意味だろうか)とき山いもば掘りよったわけよ、それでね、水筒なんか持たんもんだから、水のあるとこばしっとかないかんもんね。のどが渇いてから水飲んではむけいる(疲れる、という意味だろうか)わけよ。だから、水に行き当たったときに水飲むわけよ。私はあらゆるところの水を知ってるわけよ。」と、永田さんはおっしゃった。このことから、この辺の地域では、水は農業に使用するものではなく、渇きを癒すもの、疲れを取るものであるという意識がうかがえる。何十sもの山芋を担いで山道を歩くには、湧き水での水分補給は必要不可欠なものであったのであろう。
 船倉という地域には直接関係はないのだが、永田さんは多良町の他の地域に伝わる話もしてくれた。別の区に「大町」というのがあるが、その地域は昔は栄えていたそうだ。「私のばあさんは百(歳)で死なしたけどね、その人の言わすことですよ、『盆、正月には竹崎から買い物に来よったと、ここに。』そげんいわしたですよ。『この辺(大町あたり)に店があって、盆正月には竹崎武士が下からよ、買い物に来よらしたんだ』やけん町やったんでしょうね。しかし、あのー、開拓にはいったときに、あの真ん中に一軒ばかり店があったもんね。店はしまっとったけど、型になって竹やぶだったけどさ、笹山やったけどね」ということだ。ちなみに永田さんのおばあさんは、明治23年生まれだそうだ。大町付近に関連して、足型についての面白いお話も聞かせてもらった。今はまったく見えなかったのだが、大町あたりの水田だったところにつま先を諫早のほうに向けた右足だけの足型があったそうだ。因みに左足のことだが、さらに面白いことに島原には左足だけの足型があるそうだ。
 もうひとつ、「これは伝説ですけどね」とおっしゃって教えてくれたのは、「オ月岩」についてのことだ。これも船倉以外の地域のことなのだが、三日月が彫ってある大きな岩があるそうだ。「その伝説はね、オチョウズ(御手水)部落が、平家の落人部落というわけよ。財宝をですね、埋めて、埋めたとこをお月さんの下に書いてあるんだと。しかし、お月さんのしたからね、ぶらーっと帰っとうわけよ。そしたら何か書いとうかも知らんけどわからんわけよね、もうね。そこの下に燈籠があってね、そこの下に俺たちはびっくりしたんだよね。」その燈籠は黒船の来航の記念で立てられたそうなので、その燈籠自体はもっと前の時代のものと考えられる。大正や昭和の初めには財宝を探すためにたくさんの人たちがやってきそうだ。

3.その他の話について

 永田さんからはこの付近の地名の話以外にも、永田さんの幼少のころの話や、それよりもさらに古い時代の話を伺うことができた  まず税金についてのお話であった。この付近に税務署があったらしくそれに因んで「ジェーダニ(税谷)」と呼ばれる地名があったそうだ。税務署があるということはやはりこの付近の税の取立ては厳しかったのだろう、永田さんのお宅の付近には隠し畑があったそうだ。その様子を「入植地で、開墾地だから、や(家の意味だろう)がないで立ち木の分けてですよ、まず屋敷をつくらんばいけんけん、大方私はここがよかろうと(立ち木を)払ったらですね、そこはですね、ほんの昔畑やったんでしょうね、きれーに畑の形をしとってですねそれは荒れてるわけです。で、ばあさんが『ああ、ここはねぇ、昔あの税金逃れの隠し畑だ』と。隠し畑があるくらいだから、やっぱり税金の厳しかったんでしょうね。」と語ってくださった。
 おばあさんの話が出たので、永田さんがおばあさんからお聞きになった、おばあさんのお話をしてくださった。貧しい家は子供が10歳を過ぎると奉公に出すそうだ。おばあさんはもちろん女性なので、子守りなどをなさったそうだ。奉公先は、地主さんなどの裕福な家庭だそうだ。このお話をされるときまず、「あんたたちわかるかな?」と聞かれて、この話の最後に永田さん自身の経験として、「『しぇいしぇき(成績)が悪ければ、丁稚奉公に出すぞ』って言われよったよ。」とおしゃっていたが、やはり私たちにはこのような奉公というような話は、「話の中の世界」であって想像するのは難しいものである。
 「ばってん、正直かった」永田さんはそのころ時代と今を比べてそうおっしゃった。「人がいじめたり、殺すとかなかったもん。だから昔は天国やったとよ」と昔を振り返りながらお話してくださった。その中でも象徴的だったのが、おしどりの話だ。ある人の水田の中におしどりがいたそうだ。しかしその人は自分の水田の中に米を食べてしまうおしどりがいるというのに「あー、おしどりがいるねー、困ったねー」と言うだけで何もしなかったそうだ。当時の人は、永田さんがいうように本当におおらかであったと言うことがこの話からよく窺える。
 次は長崎と佐賀を結ぶ伝達方法としての狼煙について、狼煙台の話を伺った。昭和20年か21年ぐらいとおっしゃっていたので、戦後まもなくのころだったのであろうか、松を燃やして、松炭を作っていたそうだ。その際に、2間平方くらいの台が少し高くなったところにあったそうだ。それが何であるか気になった永田さんが尋ねたところ、「これは狼煙台だ」と言う返事が返ってきたそうだ。昼は煙、夜は光で見通しがきくところを選んで連絡をとっていたそうだ。しかもその連絡員は、老人が多かったそうだ。なぜなら、いつ何時連絡がくるかわからないので、連絡員は常駐でなければならない。若者はくるかこないかわからないような仕事に縛られるわけにはいかない、したがって老人が多くなる。さらには常駐となれば、人件費、つまり報酬もかさんでしまうが、老人ならもともと仕事がないので、少ない報酬で雇うことができる、というわけだ。
 永田さんは「ありゃ、病気やろうね」とおっしゃったが、キツネ憑きというものもあったそうだ。「あっ、あっちいった、こっちいった」と言う感じで人から人へ移るそうだ。しかし、当事の永田さんは幼かったせいなのか、移ったのがわからなかったそうだ。ある日、キツネがついてしまった知り合いの方にそうとは気付かずに、「おーい」と声をかけてしまった。すると、その方の母親から理由もわからずに、ものすごい剣幕で怒られてしまったそうなのだ。別の例では「おがひきさん」(おそらくきこりのような人)がキツネに憑かれてしまった例を教えてくださった。このように相当力の強い人が憑かれてしまうと大変だったそうだ。仕方がないので新しい縄で縛ってしまった。しかし、おがひきさんの力も相当なものでその新しい縄ですら切れてしまったそうだ。このおがひきさんのことはないのだろうが参考までに「力が強い人」の例を教えてくださった。「やあ、なんば下げよっとか?」「叺(かます)たい」「米んととやろー」「うんー」「どがしよとっとー」「二斗」二斗といえば大体30キログラムぐらいだ。そんなものを片手で振りながら歩いていたそうだ。そんな人がもし暴れ出したら…。想像するのも恐ろしい話である。
 あと、この辺には消防隊と言うのがあったのですよ。でもですよ、この辺(船倉周辺)には消防隊に入らなくていいという特権のようなものがあったのですよ。おそらく、山の中だから大変ちゅうことでしょうね。つまりみんなで助け合って生きてたと言うことでしょうね。

4.質問

 これまでは、永田さんがお話してくださったのだが、こちらとしても聞きたいことが幾つかあったので、糸山さんのお口添えもあり質問をさせていただくこととなった。


○ 屋根を葺いたり、牛の餌にするのに「芝草山」というのを作ったりしなかったのですか? →茅を切ってくるんです。若いうちは牛の餌、十分育てば茅葺き屋根用の茅にしていました。特定の山と言うのは使いませんでした。ただ、防火線というものが多良町との間にありました。そこは山火事が広がらないように十間ばかり木を植えてないんですよ。そこに草がはえるもんだから、その草なんかを、使っていましたね。

○ ここに電気、ガス、電話などが来たのはいつ頃ですか?
→これは町史のような物に詳しく書いてあったのでそれを引用させてもらいます。まず、電気は昭和31(1956)年の夏にきたそうです。電話は、昭和33年(1958)年に地区中が有線電話でつながるようになり、昭和40年代にはその有線電話が一般の電話に接続され、部落の中から外部に接続できるようになったそうです。ガスについては掲載されていなかったので不明ですが、現在もプロパンガスを使用しているそうです。

○ それ以前はどのようにしていたのですか?
→電気については、以前はランプを使った生活をしていました。それよりも以前、ランプが買えないころには、「コトボシ」というものを使用していました。それはブリキ製で、芯を立てて、それに火をつけるものです。火は大きくなくて明るくはないですけれど、真っ暗よりかはだいぶましですよ。その代わり火が小さいので油はそれほど使わなくてすみます。開拓者は、それほど裕福ではないのでランプを買う余裕はないんです。

○ 米は作っていらしたのですか?
→船倉は米を作らない地域でした。佐藤さんは作ってたんですけど、それは長崎県でした。水田はなかったから「陸稲(のりね)」というものを作っていました。でも今では誰も作っていません。ダムの上流に湧き水があるんです。それで大体6反ほどの田がありました。しかしやめてしまいました。なぜやめてしまったかと聞きますと、「もともと小作人だったんだけど、地主さんが賃金を上げてくれない」ということを言ってましたよ。このあたりにも棚田もあったのですよ。棚田はものすごいきれいですよ。でも今は荒れてしまってます。誰も耕さないんですよね。生計が立てられないんですよ。あと10年たてば「百姓」と名の付くとは5人といなくなるんじゃないでしょうか?部落的にもやっぱり続かないんですよ。若いもんはみんな出て行ってしまうでしょ?「儲かる」と言っても、続けるのは無理です。ここ(糸山さん)も豚で儲けてるんですよ。これも今から無理ですよ。公害問題とかありますからね。豚は生きてるから糞もする、尿もする。それが臭いのもハエがくるのも当たり前なんですよ。これはどうしようもないんです。何億円かけても完全に取り除くことはできないのですよ。おそらく農家は生き残れないですね。食糧不足になるのは目に見えた事実なのですよ。

○ 旱魃などの災害はあったのですか。
→旱魃はよくありますよ。今年もそうなのではないでしょうか。昔はですね、だいたい6月11日に梅雨に入って、7月2日、3日に必ず明けよったんですよ、あげ雨っていうのが降ってね。今年はとうとう雨が降らんでさ、出水が枯れてしまってね。ここはね川がなかけん、湧き水を利用しているわけよ。なけりゃどうもならんとですね。災害といえば、(昭和)32年の諫早の水害ですね。このときはすごかったね。諫早湾に船がどっさりあってね、自衛艦がきよるわけですよね。そのときはまだ余裕がなくてね、新聞もとらんでしょ、ラジオもない。それで、船がどっさりきて、自衛艦がきてる、だから水害になったとですね、そんな感じですよ。その5年後にあったのが、ゴンネン山水害よ。このとき普通の満潮時の水域が干潮の水域だったのですよ。この下の広谷というところはね、普通はこまーか、川がちょろちょろちょろって流れてるんですよ。それがね、「てたたき水(鉄砲水)」っていうのになって、ワーッとくるわけよ。それで家が流されるんですよ。それを近所の人が気付くんですよ。この辺は水害のひどかですよ。ほんとにわっとするほどひどかですよ。旱魃もひどかしね。風の害もひどかし。だいたい水のなかとこやしね。

○ 雨乞いと言うのはされたのですか?
→昔はしよったよ。私たちも上ったことあるもん。町でね、町役場に言ってさ、そこからバスに乗ってね、中山部落まで行ってね、そこから頂上の多良岳神社に登ってお参りをするのですよ。そこで大騒ぎをして火をたいた。それで煙を出すのがよからしかね。今年は満州とか関東とかは今年は、どうもされんかったらしいもんね。それで中国軍が放射砲を撃ったってね、雨乞いに。

○ 台風の害についてですけど、防風林とかは作らなかったのですか?
→ここは知らんけど、うち(黒金区)はね、西の方に黒金山という太か山があります。高さは何もなかけどね。そこのところにね、防風林はきちっと植えてます。でも、だいたい この辺はヒノキが生えてるので、天然の防風林になってますよ。防風林があるというのが古か屋敷の目印になっとうのですね。で、防風林がないところが新しい屋敷だということですよね。10年前の台風19号のときはひどかったもんね。あの時は真南から来たもんね。「天草から勢いつけてうちにきた」といいよりましたからね。瓦が全部立ちましたからね。元に戻るんだけど。台風は中心がちょっとでも東にそれてくれれば嬉しいと。台風の西側に入れば大丈夫だから、熊本から佐賀に入ってくれれば嬉しいと言うわけよ。できればね、鹿児島から宮崎のほうへ行ってくれればなお嬉しいと。(他の)人のことは知ったことじゃないや。それで、雨だけこっちきてくれればね。それでね、台風で雨がほしかね。百姓はね、風はしょうがないと、風は我慢しましょうと、雨をもってきてくれって言うよ。百姓は神様当ての商売なんだと。神様のご機嫌が悪ければどうもならないと。予言なんか信じない、信じるのは自分の感覚だけだ。

○ 田んぼは昔の湿田か乾田か、どちらだったのですか?
→もう湿田なんか作ってるのはおらんよ。湿田と言うのはね、開拓ですから、よか田んぼば小作させてもらえないんですね。だから湿田なのよ、手でこねてね、それで耕してね。足で踏んでどろどろにしてさ、ここまで練ってね。まあ日照りが続けば湿田がよかわけよね、雨が降れば困るけど。もうそがんとはいっちょんないですね、まずつくっとらんですね。もう湿田と言うのは忘れてしまったのと一緒でしょ。機械を使わないで手でこねるんですけど腰のいたかよ。でももう湿田ばしよるのはいないでしょ。

○ 肥料はどのようなものを昔は農業に使っていたのですか
→肥料はね、まず堆肥。私は昭和20年に来てさ、あのころは何も化学肥料のなかったわけよ。どこのうちでも牛を飼ってたから、堆肥を積みよったわけよ。昔はね私の知る限り、広谷の話ですけどね、畑のですね、堆肥ばっかだとですね、やっぱ中性になってるんですね。pH6か7になってるんですよ。私はpHといえば石灰とばっか思ってたんですよ。でも堆肥でもいいんだと。昭和32、3年ごろかね牛、豚を飼いよったわけよ、金儲けと言う意味じゃなくてね。堆肥とるために飼いよったわけよ。1匹からはじめてね、32,3匹になったかな?あとは、木灰を使ってましたよ。

○ 豚や牛を飼う際にはオスかメスのどちらだったのですか?
→そりゃー、メスですよ。オスですと去勢せんと臭くてかなわんのですよ。去勢ですよ、わかりますか?去勢にも二つの方法があるんですよ。「ワリギン」と「シメギン」ちゅうんですけどね。そりゃーシメギンってかわいそうですよ。陰部をロープで絞めるんですよ、それで腐って落ちるまでほっとくんですよ。わかるでしょ?ワリギンはナイフで切り落とすんです。こっちのほうがまだいくらかましでしょ。とにかくみてていたそうだった、だから雌を飼ってましたね。

○ この船倉には村の祭りのようなものはなかったのですか?
→この地域は開拓なので、祭はありません。ただ、広谷には昔から伝わる村祭もありますし、村社もあるんですよ。「シェンタロウ(千燈籠)」って言うんです。3人当番の人がいるんですけど、一人がホンツウ、二人がヨリツウって呼ばれとるんですよ。それでまんじゅうさこしらえてみんなに配るんですよ。もう今は姑さんがいるところしかやってないみたいなんですけどね。他には「ホンゲンギョウ」があります。1月6日ごろやるんですけどね、1月6日頃から村の青年たちが準備をはじめるのですよ。「オネビ(ブ)」っちゅう竹でできたものを田ん中で燃やすんですよ。でね、そん時にもちを焼くんですよ。六日市っていうのがあるんですけどね、これと重なるからいかなかったー。あとあったのは、4月26日の弘法さん相撲ね。これは勝ったら、もちが貰えてね、でもあまりにたくさんもらえるもんだからみんな配りよった。だから相撲取ればもちがもらえよったよ。でもね、東京相撲から帰ってきたのがおってね、びくとも動かなかったんですよ。やっぱ、ほんばのお相撲さんはつよかーっと思ったのですよ。祭とかは今はどこもしよらんじゃなかですかね。あとお祭ではないんですけどね、4月3日に節句、ちゅって米を植える前に休みよったんですよ。あとお茶を植える前には「チャマエシキ(茶前仕切)」ってやっぱり休みよったのですよ。でも、今はなかとですよ。田植え自体しませんからね。チャマエシキのほうも今はもうとりよらんじゃなかとですかね。

○ 若者の集まる場所とかはあったのですか?
→昔はね、「公民館」というところがありましたよ。ここでは村の青年が集まりよったとですよ。そこにはまず、麦の束が4斗分置いてあったんですよ。それは一人では編めんもんですからね、公民館においてあって、5,6人で「えいっ、えいっ」って編んで叺にするんですよ。そこで編み方がゆるいと、よー怒られた。監視しよるひとがいるんですよ。そこは遊ぶとこではなかったですね。わかもんの義務じゃーなかったですかね。わかもんの義務と言えば、病人を運ぶのも義務でしたね。もちろん夜、真っ暗な夜ですよ、病人さ背負って、何十キロも山道走るんですよ。もー、マラソンで「坂道に強い」なんて言ってたんだけど、絶対俺のほうが早かったもん。

○ その「公民館」というのは義務だとおっしゃいましたが、若者の遊びと言うのはどういうものだったのですか?
→遊びねぇ、村に芝居がきよったときは、芝居をみよったねぇ。あと映画が小学校にきよったね。それも見よったね。あと私はよう本を読みよったよ。でも裕福じゃなくて買うことはできなかったんですよ。それで借りよったのですよ。貸し本屋とかじゃないですよ、よう本を持っている友達がいてですね、その人から借りてたのですよ。

○ よばいとかの習慣はなかったのですか?
→あった、あった。よーしよったもん。娘さんのほうから誘うこともあったんですよ。でも、私ももともと都会(佐世保)出身だから体力がなかったとですよ。昼は一生懸命働きよったのですよ。そしたら、誘われても、もう疲れて疲れて、夜露に濡れて眠らないと回復しないのですよ。そしたら、「誘ってもこん」っていわれてね。二度と誘われなかったんですよ。あと、これは聞いた話ですよ、ある人が夜這いに行ったそうです、そうしたら疲れて寝過ごしてしまったと。仕事に行く時間を過ぎてしまって、出るに出られないわけですよ。それでやっぱり娘さんの部屋に閉じこもっているわけです。そうすると、そこの家(娘さんの家)のお父さんが「ノミも一緒に出てこーい」というわけですね。わかりますか?つまり男をノミ扱いしてるんですよね、でもこれはお父さんがいい人の場合ですけどね。女の子の方も受け入れてたもんね。親のほうも野放しでしたね。あと、これはうちのばあさんから聞いたはなしですよ。明治時代の話ですけど、「カタメウメゴ」っちゅってね、3,4人で娘さんをさらってくるのですよ。その後で、その3,4人でバリケードを作って見えないようにするんですよ。ひどか話でしょ?でもその後ずっと一緒におったっちゅうことはやっぱり受け入れてたんでしょうね。

○ 永田さんはこの辺の地域のことを「部落」とおっしゃっていましたが、いわゆる「被差別部落」とは関係はないのですか?また、糸山さんと永田さんは「区長」さんということなのですが、それはどういうものなのですか?
→それは関係なかですよ。私たちが「部落」と呼んでいるのはいわゆる集落のことですよ。区長というもののことですが、まず、多良町には55の部落があるんですよ、その中に一人ずつ区長ちゅうのがおるんですよ。区長って言うのは役場からの連絡や配布物をそん部落の人に渡したりするという仕事をしているのですよ、まぁ、簡単に言うと連絡役みたないものですよ。

5.おわりに

  今回私たちの調査にあたり主にお話していただいたのは、永田さんだったのだが、永田さんは先にも触れたが、今回の話には直接関係のないが、貴重なお話も聞かせていただいた。そのなかでも、特に印象に残ったのは昔と最近とを比べると、というお話だ。まず、永田さんの学生時代というのが、戦時中であったそうなのだ。やはり戦時中ということで周りの人がどんどん出征して行くそうだ。それを見た永田さんたちは、「死ぬときはみんないっしょたい」と皆さんでおっしゃっていたそうだ。「だからいじめとかはありませんでした」そうお話になられた。たとえば、年上の人に喧嘩をけしかけられたときもクラスの60人くらいで全員でかかっていくそうです。それほどクラスで団結した状況で育った永田さんは、現在の小中学生に多く見られるいじめや、さらにひどいものも理解できないそうである。「何で仲間のことなんかいじめるのかなぁ」とおっしゃった。昔の地名や、昔の状況を教えていただいたことはもちろん貴重なことだが、このような話をしていただくことも貴重であると思った。

B付属提出物の説明

1. 地図

  船倉は開拓でできた地域であり、歴史が浅く、また基本的に、水田はないそうなので、今回探したしこ名のようなものはないそうだ。それでもいくつかの小字という地図に乗っていなかったものがあったので書き込んである。

2. MD

  1番には永田さんにお話いただいた部分、2番には私たちの質問に答えてもらった部分が録音されている。ただし、かなり長い間お話していただいたので、残念ながらすべては録音し切れていない。今回のレポートはできるだけ永田さんのお話を引用しようとしたのだが、録音し切れていない部分のレポートは私自身の記憶をたどって書いたものになってしまっている。

3.写真

永田さんたちに許可を取り、実際にお話をしていただいているところを写真に収めた。また、最後に時間になったときに、永田さんに送ってもらった。その際に、実際にどのあたりが小字の部分にあたるかを教えてもらった。
@ お話していただいている永田さん
A 協力していただいた御三人 右から永田さん、佐藤さん、糸山さん。
B Cミヨシガワ 周辺の風景
D Eナシノキダイ 周辺の風景