広江

1ec00036S 屋村 寛子  1ec00017M 井上 明子

 私達が「歩き・み・ふれる歴史学」という授業の中で、現地調査のため実際に行くことになったのが、今回訪れた佐賀県藤津郡太良町広江地区である。今回の調査の目的はしこ名、つまり地域の人々の間でしか使われない地名の聞き取り収集であった。しかし私達にとっては初めて訪れる土地なので、調査をうまく行うことができるのかはじめとても不安があった。そこでお話をうかがうべく地区の住人に、事前にお手紙を差し上げることになったのだが、なにしろあちらにとっては突然の依頼である。当然驚かれるであろう。もしかしたら断られるかもしれない、返事がないかもしれないなどと考えながら、手紙をポストに投函した。その後、私達は太良町広江地区についての情報を、調べられる範囲で調べてみることにした。地図で見ると太良町は有明海に面しており、長崎県との県境に近い位置にある。広江地区は大浦湾という湾に面した海沿いの地域であることが分かった。それから図書館に行って、「佐賀県の地名」という本の中から広江地区についての記述を探した。すると藤津郡の大浦村というところに、"広江"の文字があった。それによると大浦村付近は多良岳の舌状台地が有明海が迫っており、その起伏した谷間を利用して集落ができていて農漁民が多い、ということである。また広江地区には長崎鼻・宝前鼻と称される有明海への突出部一帯に古墳群があり、長崎鼻には現在も二基の古墳が残っているということも分かった。この情報は、遺跡見学好きな私の好奇心を駆り立てるものであった。

 そうして現地調査までの日にちを過ごしていたのだが、思わぬ誤算が起きてしまった。お話をうかがおうと思っていた方に断られてしまったのである。手紙があちらに着いたであろう頃を見計らってお電話をしたつもりであったのだが、どういうわけか手紙は届いておらず、私の突然の電話にあちらも警戒心を持たれたのか、私達の頼みの綱はあっさりとなくなってしまった。しばらく途方に暮れる私達であったが、行かないことには何も得ることはできないので、現地調査までの残りの日数をできる範囲での準備に費やすことにした。

 あっという間にその日はやってきた。梅雨のせいでぐずついた天気が続いていたにもかかわらず、その日の福岡市は朝からまぶしいくらいに太陽が照り付けていた。集合場所に到着すると、皆、手土産を片手にぶら下げている。この光景は、つてのない私達にとって見るに絶えないものであった。しかしそんな私達を知ってか知らずか、バスは予定時刻に今回の目的地である佐賀県藤津郡太良町を目指して出発した。道中、車酔いの激しい私はひたすら寝るに徹していた。だから気付いた時には、いつのまにかバスは高速を降り、佐賀の県道を走っているところであった。カーテンをあけると、田んぼが広がるのどかな風景が飛び込んできた。久しぶりに見るこのような景色に新鮮さと懐かしさを感じた。時計を見ると午前11時過ぎだった。ずっと眠っていたからだろうか、思ったよりも早く着いたような気がした。そうしているうちに一番先にバスを降りる人たちが準備をし始めた。先生の指示によると、私達は4番目ぐらいに降りることになっていた。もっと先だと思ってのんびりしていたので、焦りつつも準備を整えた。しかし心の準備のできぬままに、私達はバスから降ろされていた。

 福岡は晴天であったが、佐賀はどんよりと厚い雲が空を覆っていた。そんな空を見ながらあてのない私達は途方に暮れていた。バスを降りた地点から辺りをぐるりと見渡すと、事前に調べていたとおり、すぐそこに海があり、また振り返るとそこには山が迫っていた。その合間に広がる集落が、まさしく今回の目的地、広江地区であった。第一印象としては、寂しい感じがした。国道の交通量は決して少なくないのだが、ぱっと目に付く店や建物もなく、人影もあまりない。

 時計は正午の少し前を指していた。これから昼食という時なので、どう考えても、見ず知らずの人間がいきなり、お話を聞かせてくださいと訪ねられる時間ではない。そこで私達は歩いて広江地区を探索することにした。とりあえず海の方向に行ってみることにしたのだが、ふと足元を見ると小さなカニがいた。しかも一匹ではなく数匹である。すぐ側には車が走っているのにこんなところにいて大丈夫かなと思ったけれど、海辺の地域ならではの光景で私達にはものめずらしかった。いよいよ集落の中に入ることになったのだが、今日の目的は、やはり現地の人の協力無しにはやり遂げられないので、誰か協力してくれそうな人はいないものかと探しながら行くことにした。しかし、やはり時間が悪かったのであろうか人影はまばらで、しかもいざとなるといきなり知らない人に話しかけるというのに躊躇してしまうことがわかった。このままではせっかくここまで来た意味がない、ではどうすればよいのかと話し合いながらも、答えの見つからないまま私達は道端に腰を下ろした。するとそこは坂道の途中の見晴らしの言い地点だったので広江地区を見下ろすことができた。港にむかって時折トラックがやってきては出て行く。港もよくみると普通の港ではない。漁港ではないようだ。沖のほうには、小さな灯台がやっと建っているぐらいの面積の島があった。また私達の座っているすぐ下を線路が走っていたのだが、線路ぎりぎりのところにまで宅地が迫っていて、その真横を特急が通っていくのが見ていて怖かった。そうしているうちに私達もお腹がすいてきた。そこでどこか食事のできるところを探すことにした。コンビニはないようである。バスから降りた国道沿いに食事処ふうののぼりが立ったお店があったことを思い出したので、そこを目指そうということになった。のんきにご飯を食べてる場合ではないということはわかっていたが、そこに座っていてもどうしようもないことはわかっていたので私達は歩き出した。バスを降りた地点から随分歩いた気がしていたのだが、来た道を帰っていくとすぐに国道に出ることができ、不思議な感じがした。私達が目指している建物もすぐに見えてきた。のぼりには'かに'の文字が踊っている。空腹の私達は、お店目指して一目散に駆け出したい気分であった。

 店内に入ると立派ないけすがあり、落ち着いた雰囲気が漂っていた。お店の名前は「沖見亭」といって、その名の通り窓辺の席から、さっき見ていた灯台や港を望むことができた。 おばあさんがひとりでお店の中を忙しそうに働きまわっていた。私達はカニ釜飯とカニ雑炊をそれぞれ注文し、今後の作戦を練ることにした。時計を見ると午後1時を過ぎた頃であった。といってもすぐには良い考えが浮かばず、仕方ないので地図を広げてみたりしていた。しかし思い浮かぶのは、一緒にバスに乗って調査に来たほかのメンバーは今ごろどんな状況なのだろうかというようなことばかりであった。そのうち料理が運ばれてきたのだが、とてもおいしそうなので私達はいたく感動し、早速食べ始めた。料理はさらに私達を感動させてくれ、失いかけていたやる気まで取り戻させてくれた。周りを見ると私達よりも先に来た客が帰り始めていた。そこで私達はある考えに達した。これは今になって考えてみれば、かなりあつかましい提案なのだが、お店のピークが一段落したところでおばあさんにお話をうかがおうというものである。途方に暮れていた私達にとって、その時おばあさんはまさに救世主であった。食事を終え、時計を見ると午後2時。帰りのバスが迎えに来るのが午後4時20分の予定である。もし快く引き受けてもらえれば、お話を聞かせていただく時間は十分にある。しかしあちらはお仕事の最中なので、なるべく手短にすませなければならない。そうこう話し合ってるうちに、いつのまにかお店の中にいる客は私達だけになっていた。今がチャンスと思い、おばあさんを探したのだが姿が見えなくなっていた。ピークを過ぎて休憩でもしていらっしゃるのであろうか、出てきてくれるのを待っていたのだが出てこられる気配がない。せっかく希望の光を見出したばかりの私達であったが、早速不安におそわれていた。すると、ちょうど板前さんらしきおじさんが出てこられた。私達はすぐさまお話をうかがえるかどうかお願いしてみることにした。私達の調査の主旨を伝えると、突然の依頼に少々驚かれた様子であったが、私達の質問に親切に答えてくださった。そのうち、おばあさんも現れたので事情を説明すると、おばあさんもいろいろお話してくださることになった。途中、おばあさんは確か太良町の歴史について書かれた本がどこかにあったはず、とわざわざ探しに行ってくれたりもした。私達は沖見亭の方々の親切な対応によって、無事調査を行うことができるようになったのである。以下はその調査内容をまとめたものである。

1、しこ名について
 広江地区を実際に歩いてみるとわかるのだが、田んぼがほとんど見当たらない。太良町の特産物はみかんであり、広江には町のみかんの撰果場があるくらいである。しかし今回の調査の一番の課題であるので、とりあえず真っ先に聞いてみたのだが、残念ながらそういった名前はないとのことだった。

2、地区の移り変わりについて
 広江地区の移り変わりについて尋ねるとすぐに帰って来た答えが、埋め立てである。広江地区の海岸線はほとんどと言っていいほど、埋め立てられていた。そこにはヨットハーバーと人工の海水浴場が作られ、地区の観光の活性化に一役買っているようである。しかし海水浴場は潮が満ちてくるとなくなってしまうらしい。その日は残念ながら実際に見ることはできなかったが、お店にあった写真で見るととてもきれいな海水浴場であった。
 地区の住人についても尋ねてみた。広江地区は多少町のほうに出ていった人もいるが、大半は昔からこの地区に住んでいる人達が今も生活しているとのことだった。小学生や中学生も何人か見かけたので、お年寄りばかりというわけでもないようである。

3、線路について
 広江地区を走る線路は単線で、しかも宅地ぎりぎりのところをはしっている。もともと線路に沿っての土地は、JRが線路を複線にするときのための土地として所有していたらしいのだが、新幹線が通る計画が持ちあがりそこを複線にする目処がなくなってしまったので、住民に売りに出したということであった。そこに住民が家を建てて引っ越したので、宅地と線路が同じように並んでいるというわけである。

4、亀の瀬
 亀の瀬とは、広江地区の沖に浮かぶ小さな島のことである。地図には亀の瀬と記載されているが、もしかしたらしこ名のような地域ならではの呼び方があるのではないかと思い尋ねてみたが、記載の通り、亀の瀬灯台と呼ばれているとのことだった。

5、港について
 前にも述べたが、広江地区の港は普通の漁港には見えない。大きなクレーンを積んだような船が停泊しており、港からは大きなトラックが出たり入ったりしている。お話によると、港は石を運んでくるためのものであり、昔は小さな船で石を運んできていたらしい。漁港として栄えているのは亀の浦地区の方であるらしい。

6、遺跡について
 お話の途中でおばあさんがわざわざ探しに行ってくださった本を見ると、太良町の遺跡や伝統的な祭りについて多くを知ることができた。中でも広江地区についての記載を探してみると、宝前鼻古墳群についてのものがあった。それによるとこの古墳群により、弥生時代から古墳時代にかけて、海岸沿いに人々がたくさん住んでいたことがわかる。古墳は竪穴式から横穴式に移行する過度期のものと推定され、直刀や土器の破片が出土しているそうだ。

 こうして無事調査を終えることができたのだが、これも本当に沖見亭のみなさんの協力おかげである。お忙しい中お時間をとらせていただき申し訳なかったのにもかかわらず、遠くから来た私達を気遣って下さり、私達は感謝の気持ちでいっぱいである。

 調査内容に関しては、短時間であったにもかかわらず、地区について多く知ることがで きた。しこ名を聞くことができなかったのは残念だったが、あとで他の地区をまわった人達に聞いてみると同じような結果が多かった。    はじめバスを降りたばかりのときの、広江地区の寂しげな印象も、帰る頃にはすっかり一転し、暖かなものに変わっていた。この調査を通して私達は調査結果以外に、改めて学んだことも多かったように思う。これを今後の大学生活のさまざまな面で役に立てるように、一層努力したい。