太良町広谷 1La01148P 中川 恵 1La01125R 竹原 亜紀 「こんにちはー、九州大学から来ましたー。」 ドキドキしながら、ガラッと玄関を開けると、「あー、どうぞー。」と奥さんらしき人 が笑顔で迎えてくれた。訪ねたのは、前もっての私たちの手紙に快い返事をくださった、区長の野中勲さん。「すいません。おじゃまします。」と言いながら、私たちは居間に通され、いらっしゃった野中さんと、隣のおじいさんに挨拶をした。とても歓迎してくださって、とりあえずホッと一息。なぜなら、バスを降りて、野中さん宅に着くまで、ちょっと迷ってしまったからだ。バスを降りて、広谷の方向に歩いていたのだが、どうも地図を見ると違うような気がして引き返しているうちに、やっと道が分かってきて・・・なんと野中さん宅はバスを降りたバス停の目の前だった。 私たちが、座布団に座ると、「今日は長老ば呼んどったけんねぇ。」と、野中さんが隣のおじいさんを紹介してくれた。おじいさんの名前は井崎修一さん。広谷地区で一番の年長者らしい。私たちはそれを聞いて、「そんなことまでしてくれたんだ・・・。」という思いで一杯になり本当に感動した。 早速、私たちは地図をテーブルの上に広げ、テープを録音し始めた。まず、何を話そう。とりあえず、これから何を聞くか、何を話して欲しいのか、主旨を理解してもらわなければならない。手紙では、ざっと説明しただけだ。そこで、「えーっとですね、昔のことをいろいろ聞きたいんですけどー・・・」と私たちが切り出すと、井崎さんに聞こえにくかったらしく、野中さんが「・・・もっとたこ言わな分からんよー。」と笑いながら注意してくださった。それで一気にその場はリラックス。私たちも「すいません。」と笑った。一息おいた後、私たちは改めて、「昔のことをいろいろ聞きたいんですけどー田んぼはお持ちですか?」と今度はなるべく大きい声で尋ねた。すると、「あるある。」と答えてくださったのは野中さん。そこで、早速、「田んなかに行く時の、田んなかの呼び方はありますか?」とお聞きした。すると、野中さんが、「あるよ。ハシマキ、イットマキ、ニトマキ、イシマキ・・・」と次々にしこ名をあげてくださった。私たちはすぐに「どの辺か分かりますか?」とできるだけ場所を教えてもらい、地図におとした。その際、住宅地図の方が、野中さんや井崎さんも分かりやすそうだったので、住宅地図を使った。しかしそのせいで、いくつかのしこ名がどの小字の中にあるのかよく分からなくなってしまった。小字と小字の境目にあったりするしこ名が意外とあったのだ。どっちの小字に属するのかちゃんと聞いておけばよかった、と今になって思う。 次に、しこ名の由来を尋ねた。まずは「イットマキ」。野中さんがおっしゃるには、昔は田植えは手作業で、種1斗をまいたらその田んぼが一杯になるので、そう呼んでいたらしい。「ニトマキ」も同じだ。また、井崎さんにがおっしゃるには、「イットゴシマキ」というのは田んぼ約一反(=20R)のことなのだそうだ。それから考えて、「ハシマキは狭かったったいね。」と野中さんがおっしゃっていた。これらのしこ名は、野中さんが所有していた田んぼの呼び名で、他にも各家の田んぼに個人個人の呼び名があったらしい。田んぼが丸かったら「マルゼマチ」、角ばっていたら「カクゼマチ」という風に。 次に登場したしこ名は、「シラゲンコチ」である。該当する範囲は言い表しにくい場所なので地図を参照。由来は野中さんも井崎さんも分からないという。このしこ名は今でも区の人の間では共通の呼び名であり、十分通用するそうだ。先ほどあげた「ハシマキ」や「イットマキ」の田んぼはシラゲンコチの中にあったもので、今ではみかん畑になっているらしい。 次にあがったしこ名は「マエダ」である。野中さんに由来を尋ねると、「前だから、マエダ。」だと言われ、全員がどっと笑った。実は、この広谷地区には以前大水害(昭和37年7月8日。野中さんたちは「ヒチハチ災害」と呼ばれていた。)があり、その時まで家が並んでいた「マエダ」は流されてしまったらしい。今、広谷入り口のバス停から登って行った所に並んでいる家はその後移った方たちの家なのだそうだ。 次のしこ名は「コスイバチ」。井崎さんに由来を尋ねると「ここは昔からコスイバチ。いつだっが言うたことやら分からん。」とのことだ。 次は「チャバタケ(茶畑)」。この呼び名は昔、芋畑や麦畑の中にしきりの役目としてお茶を植えていたことからきているそうだ。今では、そこは本当にお茶畑になっていて、井崎さんが「広谷茶ってゆうて有名かつよ。」と教えてくださった。 次に出てきたのは「カマフタ」。由来を尋ねたが、井崎さんも分からないそうだ。 次のしこ名は「ヤクションタニ」である。井崎さんが「ここは昔刑務所のあったつよ。昔で言う監獄たいね。」と教えてくださり、野中さんが、「今は石のいっちょ残っとるねー。えらか人の石の上にのって、朝礼ばしよらしたとこっの。」と説明してくださった。証拠として掘ったら手錠が出てきたそうである。また、昔、鹿島と諫早を結ぶ「トノサンミチ(殿さん道)」という道があって、名前の通り、殿様が通っていたそうだが、この関係で広谷には役所が置かれたのだそうだ。それが「ヤクションタニ」の由来だと井崎さんがおっしゃった。この時、「牛のとさずり場もあったつよ。山ん中に。掘ったら牛の骨の出てくっとよ。」と教えてくださったのだが、「どの辺にあったんですか?」と尋ねると、「ちょっと眼鏡で見な分からん。」との返事だった。これは後で気づいたのだが、この時は井崎さんの眼鏡はなかったのに、途中から眼鏡があった。たぶん野中さんの奥さんが取ってきてくれたのだろうと思う。その時は別に何も気づかず、お礼を言い損ねてしまった。本当にどうもありがとうございました。 次に「ボウガヤシ」というしこ名があがった。井崎さんが、「そこにね、ずっと昔ね、よかぼんさんのおらしたとよ。今でも屋敷の跡のあっと。」と由来を教えてくださった。これは野中さんもご存知なかった様子で、「あーぼんさんの跡ね、ボウガヤシは。」と驚かれていた。私たちも、「へー。」と思わず声に出してしまった。 「コシワラ」といったしこ名もあがった。これはおそらく小石がいっぱいあったことから「こいしわら(小石原)」が「コシワラ」になったのだろうと井崎さんも野中さんもおっしゃっていた。 そろそろしこ名も全部かなと思い、私たちは道の呼び名をお聞きしてみた。すると、井崎さんが、「道の名前はあんまなかごた。御手水さ行く時は、御手水さ行くて言うしね。」と答えてくださった。目印となった石や木について尋ねると「チャガマイシ」という石が広谷生活センターの下のカーブにあるそうだ。由来は聞かなかった。 次に私たちは、昔の生活について尋ねることにした。昔は、1年のうち、田んぼの仕事(時期)が終わると、冬は炭焼きをしていたそうだ。「昭和の40年ごろまで炭を焼きよったとよ。」と井崎さんが話してくださった。昔は炭を売っていろいろなものに換えていたらしい。「電気はいつ頃きたんですか?」とお聞きすると、大町や黒金に人がたくさん入ってきて、人口が増えてからやっと、昭和31年に電気がきたそうだ。それまでは、石油を燃料にしたランプを使っていて、けむりで真っ黒になったランプを磨くのは子供の役目だったらしい。「学校から帰ったら、ランプの掃除ばしとけー!て言うて、磨かなんかった。」と井崎さんが懐かしそうに話してくださった。「あんたたちゃ、ランプは知りみゃー。」と井崎さんに言われ、野中さんの奥さんが、「何年生まれ?」と私たちに尋ねられた。「昭和57年です。」と答えると、「うわぁー。」と野中さんご夫婦も井崎さんも笑っておられた。私たちは笑いながら、改めて、私たちがまだ未熟であることと、年長者の方の知識や経験の深さにただ驚いた。また、燃料の石油のことを尋ねると、町に牛車で行って炭を売って買ってきていたのだろう、とのことだ。大町が名前の通り大きな町で、そこに日用品などを買いに行っていたそうである。 この時、野中さんの奥さんが私たちにようかんを出してくださった。麦茶もあるのに気づいて、私たちはお礼を言った。嬉しかった。 次に、昔の田んぼの仕事について尋ねると、一軒に一頭は牛がいて、あぜの草からほとんど牛のえさだったそうだ。その残りを肥料として切って田んぼに入れていたらしい。他には牛の糞なども。虫取りには、菜種油を使ったのかなと思ったら、井崎さんがおっしゃるには違うらしい。「そこにかんざきていう神さんのおらすとこのあっとよ。湧き水の今でも出よっと。そこの水ば汲んでかけよった。」そうである。野中さんが「それで虫の死によったんね。」と井崎さんに確認すると、「死によった。」らしい。「ほんとねー?」と野中さんも笑って、疑い気味だった。私たちも「えぇー?!ほんとですか?」とびっくり。しかし井崎さんは「しらごつんごたっけどほんな話ばい。」と笑っておられた。菜種油を使い始めたのは、そのずっと後らしい。また井崎さんがおっしゃるには牛を移動させるとき、「とう」と言うと牛が左へ行き、「ケシ」と言うと右へ行っていたらしい。「ほんとかなー?」と思ったけれど、そうおっしゃるのだから、本当なのだろう。牛も気性のおとなしい人の言うことはよく聞き、野中さんは「牛の方が人間よか正直だけんね。」と笑っておられた。田んぼの作業は、井崎さんの青年の頃までは馬を使って、そして牛になって、今の機械になったそうだ。昔は道が狭くて、牛がよく転んだため、「ウシコロバシ」と呼ばれる所もあり、下の方まで転んで、ガスがたまり牛がよく死んでいたらしい。 また、途中でお聞きしたのだが、もともと広谷は御手水の人の土地で、広谷の人は加持子を払って土地を借りていたのだそうだ。だから今は農協に出しているお米は、昔は御手水の地主さんに持って行っていたそうだ。「よか米はみんな持って行って、食ぶっとはほんなカスたいね。」と野中さんはおっしゃっていた。「片山内閣てできたろが。あの人のえらかとはね、農地改革ばさしたつよ。そんまでは小作ばかっだったったい。その片山さんのおかげでね、今は我が田んなかになったったいね。」と井崎さんもおっしゃった。ちなみに「広谷」という地名はまだ歴史が浅いらしく、昔は「舟倉」や「黒磯」といっていたそうだ。「広谷」という名前になったのは明治の時らしい。 次に水利について尋ねた。田んぼへの水は、ダムの下あたりからひいていたそうだ。7年前の大旱魃の時のことを尋ねると、この地区はなんとかもてたということだ。今は減反でだいぶ田んぼが減ったため、極端な水不足はないのだという。しかし、昔は雨が降らない時もあって、雨乞いをしていたそうだ。私たちが「どうやって雨乞いしてたんですか?」と尋ねると、「多良岳にみんなで登りよった。」と野中さん。すると井崎さんが「登れば誰かそこで小便すっじゃろがね。」と一言。一気にみんな大爆笑した。すると野中さんが、「そしたら汚かけん、多良岳の神さんがはらかいて雨ば降らしてくるっと。」と。ちゃんと理由があるんだなぁと思った。 ここで一つ怖い話を聞いた。今のダムに広谷から水を引こうと穴を掘っていたら、女の声で「掘るな。」という声がして、工事が中止になったそうなのだ。たとえ豪傑が掘っても、声はやまなかったという。背筋がぞっとした私たちに、井崎さんが、「こら伝説じゃなかつよ。この人(野中さん)のお父さんの頃から言いよっとだけん。」とますますあおった。本気で怖かった・・・。また、広谷の話ではないが、御手水の滝の水はどんなに雨が降らなくても枯れないらしく、「あそこん神さんは権現さんて言うてね、えらかと。」と井崎さんも野中さんもおっしゃっていた。 ゆいや入会山などについて尋ねると、親戚などと共同で田植えをすることがあったそうだ。また、入会山などから焚き物を取るのは主に女の人がしていたらしい。竹もよく使われていて、雨の日はよく竹細工をしていたそうである。草履やほうき、いろいろ作ったそうだ。公民館は青年宿と呼ばれていて、雨の降る時などは、青年が、わらじや牛や竹細工の勉強をしていたという。竹細工で生計を立てていた人もいるのだそうだ。今は、竹細工を作れるのは井崎さんくらいで、他の人はほとんどしないし、またその必要もないらしい。「作りみちは知っとっばってん作りはきらんね。」と野中さん。「もう私で終わりじゃろ。」と井崎さんもおっしゃっていた。それを聞いてちょっとさみしい気持ちがした。 次に、昔の食生活について尋ねた。お米の他にも、麦や芋や、野菜を食べたそうだ。各家の家の下には、「いもがま」という、芋を保存するための入れ物があって、「昭和24,25年頃まで、イノシシのこの辺まで出てきよってね、芋ばつくじっよったっよ。」と井崎さんがおっしゃった。「その対策はしたんですか?」と尋ねると、竹の棒などを周りに立てたそうだが、「鼻の利いてばいー、よう知っとるとさー。」と井崎さんは笑っておられた。「今は、みかんとかをイノシシに食べられませんか?」と尋ねると、野中さんが、「みかんはー、サルとタヌキとカラス。タヌキはきれーにみかん食べるよ。もー人間は負けるよ。」とおっしゃり、私たちは笑った。「夜はだーんもおらんけん、ゆっくりと座って食べられるけんねー。」と野中さんも井崎さんも大笑いされていた。しかし、野中さんが、「タヌキは今だけん笑い話になるばってん、昔はえすかったけんねぇ。山ばっかっだったけん、タヌキからだまされて事故にあったーとかね。」と教えてくださった。 また、魚を食べたりすることはあったのかなと思い、聞いてみた。すると、「魚はたまーに自転車で売りに来よらしたね。長崎から鯨売りも。」と野中さんがおっしゃるので、私たちは、「鯨?!」とびっくりした。塩もみされた鯨の肉を野菜と交換していたそうである。肉といえば鯨の肉や鶏肉で、「イノシシは?」と聞くと、猟師があまりいなかったらしい。「芋と鯨の肉を山んごとたいて食ぶっとがごちそうだったけんね。」と野中さんは懐かしそうに話してくださった。「黄なみのいっぱいあっけん、かぼちゃが卵。」と井崎さんと笑っておられた。鶏の卵はお客さん用だったという。 次に昔の若者の生活について尋ねると、野中さんが「わっかもんはいらんこつばっかしよった。」ときっぱり一言。私たちが笑って、「えっ・・・もっと詳しく」と言うと、「あんたたちには言われんことばっか。」と大笑いされていた。蔵に入れていたお米を売ったり、干していたモミの中味がからになっていたり、すいか泥棒もあったそうだ。しかし、こんなことばかりではなく、後で「うちん地区は青年の多かったけん、ダムのほんな上流のとこっでお客さんを呼んでキャンプをしたり、芝居や浪曲をしたり、相撲大会ばしよった。」と話してくださった。電気が来てからは映画もしていたそうだ。若い女の人の仕事について尋ねると、男の人と一緒に山に薪を取りに行っていたりしていたそうだ。「だけんヨバイがはやったとよ。一緒に仕事をするけんが、今夜来ていいかーとかね、話し合いができるけん。」と、野中さんが説明してくださって、私たちは「あーなるほど。」と笑った。また、ヨバイの時は、先輩がヨバイに行くのに下駄持ちがいて、それは、親御さんに見つかった時、すぐ逃げられるようにしていたのだと笑いながら教えてくださった。普段は、若い男の人はお金を稼ぐために土方や、ヒノキのしたばり(ヒノキが成長するまでその下の雑草などを抜くこと)などの仕事を主にしていたそうだ。そして冬には炭焼きも。「隣の村の若者が来る時、ケンカとかなかったんですか?」と尋ねると、「向こうの青年が文句は言いよったばってんが、こっちんもんがいろいろと力関係が強かったけん。」と野中さんが笑っておられた。 昔の結婚について尋ねると、井崎さんから、「見合い結婚というかー、同情結婚というかー。」という言葉が飛び出し、私たちは大笑いした。親の命令が半分だが、「家主さんの娘がおってすっじゃろがー、一人、二人、三人・・・てもらわれて一人残った。ウロウロしよらすとねー。あれば俺がもらおかーて、同情結婚たいねー。」という井崎さんの例え話もあり、もう大爆笑だった。 ここで、ずっと出されたままのようかんを、奥さんが「食べんね。」とおっしゃってくれて、お言葉に甘えて、少し休憩することにした。野中さんも井崎さんも、こんなにたくさん話を聞かれて、しかもずっと座ったままで疲れていらっしゃっただろう。本当に心からお礼を言いたい。 次は交通手段。これは、歩きが主で、だから井崎さんは今も山道に詳しい。野中さんは、小学校の時は4キロ先の学校まで歩いて登下校していたそうで、長距離競争では負けたことがなかったとおっしゃっていた。今の子供たちは全員送り迎えなのだそうだ。「バスはいつ頃来たんですか?」と尋ねると、昭和41年ではなかったか、ということだった。バスは、現在亀の浦からここまで運賃が230円で、井崎さんが、「会社は赤字でー、町がこの線に限って年に30万出しよっと。だけん通いよっと。」とおっしゃっていた。「バスが出来て呼び名が出来たったいね。そっから上のバス停まで10円運賃のあがるけん、そこの坂は10円坂ていうもんね。」と野中さんが笑って教えてくださった。 野中さんの小さい頃は、ビー玉やペチャ(めんこ)をしたり、山でチャンバラをしたり、炭木を切る時に余った木を使って大人に簡単な車を作ってもらったりして遊んでいたそうだ。山にはグミやイチゴなど食べ物もいっぱいあったと話しておられた。そして、「昔のもんは強かったけんねぇ。」と井崎さん。 また、お昼ご飯の時など、「飯ぞー!!」と家から離れた畑まで叫んで知らせていたそうで、野中さんがおっしゃるには、「だけんこっちの人は声のたっかと。今でもマイクはいらん。」ということだ。これにはその場の全員が笑った。「世の中が騒がしくなかったけんが、車の音もせず、めじろの声が聞こえるくらいでさ、聞こえるわけよ。」という野中さんの言葉に、少し自分の家が恋しくなってしまった。今住んでいる福岡では「無音」というのはとても考えられない。 次に、お祭りや行事のことについて尋ねた。まず出てきたのは七夕の「せんとうろう」。昔は青年が主催で、芝居などがあっていたらしい。夏祭りのことで、灯篭をたくさんさげていたことから、そう呼ぶのではないかということだ。また、12月1日は公民館で住民の人がみんな寄ってごちそうを食べるそうだ。この二つの行事は今でもやっているらしい。「昔でいえば何も娯楽もなかったから酒でも飲んでゆっくりしよったつよ。」とおっしゃっていた。 また、祭りではないが、田植えが終わったら、住民が集まって、食べたり飲んだりする「チャマエシキ」というものがあるそうだ。3日くらい仕事を休んで、お茶を摘む忙しい時期の前に奉公人を休ませる目的もあったと、井崎さんがおっしゃっていた。そこから、「チャマエシキ(茶前しき)」と呼ぶのだと教えられ、野中さんもご存知なかったようで、「あー、茶、前、しき、ねー!」と驚かれていた。「今年もしたんですか?」と野中さんに尋ねると、「したよー。男ばかっで。」ということだ。今年は前半、雨が少なかったため、田植えが遅れ、チャマエシキも遅れたとおっしゃっていた。稲刈りの後についても尋ねてみたが、井崎さんがおっしゃるには、「稲刈りの後は麦まきじゃろがねぇー。そがんことするには忙しかったもん。」ということだった。 12月20日には祐徳神社で「オヒタキサン(お火たきさん)」と呼ばれる、お守りなどを燃やす行事があるそうだが、この辺りではもう以前からしていたらしい。青年が主催になって、一晩中燃やし続ける。また、1月7日には、「鬼火」と呼ばれる正月のしめなわなどを燃やしたり、もちを焼いたりする行事もあっていたが、子供が少なくなったため、なくなったそうだ。大人が木を切って中学生に運ばせて、組んで燃やしていたらしい。 そして、「もぐらたたき」という行事も教えていただいた。今はしていないそうだが、野中さんの子供の頃までやっていたらしい。「もぐらー出るな。子をもつな。」と言って一軒一軒まわるのだそうだ。佐賀県で今もやっているのは一箇所か二箇所ではないかと野中さんはおっしゃっていた。もぐらの話が出たので、ねずみ対策の話も聞いてみた。すると、昔は家は開けっぴろげで、ネコもヘビも入ってきていて、薪を燃やすので、ねずみの被害には困らなかったのだそうだ。 そして、井崎さんから広谷の歴史について教えていただいた。この辺りは明治以前はかなりひらけていたという。大町もあり、役所もあったのが何よりの証拠であろう。しかし、明治維新の佐賀の乱で、「ヤクションタニ」にいた侍はすべて戦争に行き、それまで多くの人の出入があったこの地域は静かになってしまったそうだ。しかし、「そこにね、鍋島の殿さんがね、広谷ていうとこはよかとこだけんが、お前たち行って百姓しろって言うてね、広谷に人が入ったと。」と井崎さんはおっしゃる。その入ってきた人たちというのが、野中さんの先祖にあたるらしい。 こんな伝説も聞いた。大浦ダムの上の方に「オツキワさん」という水の神様を祭ってある所があり、平家の落ち人が埋めたと言われる何百両の軍資金がどこかに埋まっているそうだ。そんな井崎さんの話に私たちは、「へぇー。」と目を丸くした。「あんたたちも行ってみて軍資金ば見つけてみんしゃい。」と言われ、笑った。 最後に、今後の広谷について野中さんと井崎さんにお聞きした。すると、井崎さんが、「歴史は繰り返す。」という言葉をおっしゃった。明治以前栄えて、佐賀の乱で静まり、その後またにぎやかになり、今、後継者不足で再び静まろうとしている、広谷の様子だ。後継者のことについて詳しくお聞きすると、3、4軒くらいしかいないそうだ。野中さんにも井崎さんにもいらっしゃらないという。「私の考えだけんばーまぁ30年たったら、この地区はナシになんねー。」と井崎さんがきっぱりとおっしゃった。さみしそうというよりも、仕方ないねぇといった表情に私たちは余計さみしくなった。野中さんは、「地区のみんなでどうするか話し合ってね、これから先んこつは。」とおっしゃっていた。若い人は出て行き、家族をつくるともう帰ってこないそうだ。農業はきつい仕事だから、「後を継げ。」と簡単には言えないと苦笑いされていた。諫早湾の干拓についてお聞きすると、「有明海は自然のままが一番よかと。干拓自体なかとが。昔は何でん取れよった。」と野中さんはおっしゃった。 テープを止めて、時刻は3時50分。あっという間だった。本当に長々とおじゃましてしまった。「それじゃあ、本当にありがとうございました。」と頭を下げ、「レポートが出来たらお送りします。」と言って外に出た。野中さんが外まで出てきて、「気をつけてね。」と見送ってくださった。そして、私たちはバスに乗り込み、帰路についた この現地調査で、私たちはいろいろな話を聞くことが出来た。それは、野中さんご夫婦と、井崎さんのご協力があったからこそだ。本当に心からお礼を言いたい。そして、何よりも、時間を忘れるほど、楽しかった。本当にありがとうございました。 ご協力をいただいた方 野中勲さん(昭和18年生まれ)、井崎修一さん(明治45年生まれ) 太良町広谷 しこ名一覧
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