太良町平野 1LA01042 岡 香織 1LA01026 内川 由紀子
聞き取りをさせていただいた方 佐藤文吾さん:昭和14年1月12日生まれ
私たちは12時29分頃に平野につきました。バスから降りたあと、いよいよ調査が始まるのだと緊張していた私たちに地元の方が「何しよっと?どこからきたとね?」と声をかけてきたので、「九州大学からしこなの調査にきました。」というと、「ほー、大変やね。がんばってね。」と激励の言葉をもらってうれしかったです。そしてあたりを散策しながら12時半過ぎに佐藤文吾さんのお宅に電話をしました。前もって送っていた手紙には、午後一時ごろお伺いすると書いていたのですが、電話で「今から伺ってもよろしいでしょうか?」とたずねると、快く承諾してくれました。そして佐藤さんの家を見つけて、ドキドキしながら小気味よくチャイムを鳴らすと、やさしそうな奥さんが顔を覗かせ、快くわれわれを迎え入れてくれました。
文吾さんのお宅では朝の連続テレビ小説の「ちゅらさん」が放送されていて、私たちは、「あ!!ちゅらさんだ!!!」と思い、テーブルにつきました。
文吾さんは「母ちゃん、茶ばもってこんね」と奥さんに言った後、太良町誌をだしてくれました。私たちは、「あっ、すみません。」といって、テープのスイッチを入れました。そして、緊張しながらも、私たちは早速質問をはじめました。まず、地図を開いて、「どの田が湿田でどの田が乾田かわかりますかねえ。」とたずねると、文吾さんは、「平野は昔から、水の少ない地域やったけんねえ…。ここら辺は全部乾田やったねぇ。」と答えてくださいました。この時点で、佐賀の言葉がわかるかどうか不安だった私たちは、普通に通じてよかったと安心しました。そこで続いて「じゃあ湿田はなかったんですか?」ときくと、「うん、なかったねぇ。」とおっしゃいました。水不足の時には、よく井戸から水をくみ上げて水田に持っていったそうです。けれど、それも昭和30年くらいまでで、それまで新田だったところは全部みかん畑に切り替えられたとききました。ため池に水がたまらなかったためだそうです。水田の用水源は「ミヤノシタ」、と、下川家の「シモカワ」と呼ばれるため池だったと聞きました。昭和45年から、田古里川の上流、今の大浦ダムの上流から溝を作り、ネホゾ堤を作ったらしいです。だけど、昭和45年といったらそのころには大半がみかん畑に切り替わっていたのかもしれないなぁと私たちは思いました。また、井樋はなかったそうです。大きな川はなかったので、溝の周りに石を積み重ねて、細い水路をつくったそうです。本当に平野は水不足でいろいろ大変だったんだろうなぁ…と思いました。
次に田んぼに使う水は誰が使うことができたのか、についてお聞きしました。「その集落だけやったがなぁ。組合員だけたいね。組合員だけしか使われんやった。水に関しての争いは、ちいちゃい争いはあったね。旱魃の時に、自分のとこだけ水を入れて、人のとこにいかんごとしよったときとかにちいちゃいあらそいはあったね。」とおっしゃいました。旱魃のときなどには、時間給水をおこなったそうです。平野では時間給水のことを「回し水」、または「かわし水」とよんだそうです。さらに昔、いつどこで雨乞いをしたのかについては、多良岳神社の頂上で村を上げて祈祷をしていたということです。しかしその効果については、「いやあ、効果っちゅう効果はなかったねえ」と、笑いながらおっしゃいました。要は気持ちの問題だったということだと思います。
では水害はあったのかというと、平野では大きな水害はなかったということですが、昭和37年8月、駅の前のごんげん山のあるところで死者が37、8人出たことがあったそうです。台風の被害については水稲が倒れて、収穫が例年より約50%減という大被害を被ったこともあるらしいです。民家では屋根が飛んだりもして大変だったといっていました。ここで、戦前化学肥料が入る前と後の米の収穫は反当何俵かきいてみると、戦前は一反当り4〜5俵、化学肥料が入った後では6〜7俵捕れるようになったそうです。戦前には潟(海の塩分の混ざった泥)を肥料にしていたそうですが、やはり化学肥料の威力はすごいんだなあと改めて知りました。 次に共同作業について聞くと、昔は稲の種子の消毒作業を共同でやっていたということがわかりました。昔の消毒方法は、指導員さんを呼んで指導してもらいながらお風呂につけたりしていたそうです。 あぜに大豆や小豆を植えることはあったのか、またなぜなくなったのかという質問には、昔は植えていたけど、今は買ったほうが安いので作らないということでした。 農薬のない時代、新田には灯油などをたらして、棒でたたいて油に落として殺していたらしいです。「油で飛びきらんから」と、佐藤さんは笑っていいました。私たちは「なるほど〜」と感心してしまいました。共同田植えは対象15年〜16年ごろまであったのだそうです。農作業については、収穫が多ければ儲けていたし、楽しかったとおっしゃっていました。また田植えの後の早苗振では、ぼた餅などのご馳走を食べて、集落全体の田植えが終わったら平野神社で宮司さんを呼んで、田祈祷をしたということです。そして稲刈りのあとは裏作として、牛を使って麦作りを12月ごろまでしていたらしいです。農作業のほかにどんな楽しみがあったかと聞くと、鹿島市のほうまで出かけて映画を見たり、そのあと食堂でちゃんぽんやうどんを食べることが楽しみだったとお話してくれました。逆に苦痛はというと、やはり昔は機械がなかったので農作業は重労働できつかったとおっしゃっていました。今は機械で簡単にできるけど、昔は一回ずつ手で植えていかなきゃいけないから、かなり大変な作業だったんだろうなあと思いました。 そして、クロガネ山が入り合い山(村の共有の山)だったそうです。クロガネ山は整備前は「5しょうじ」、つまり5ヘクタールだったそうです。私たちは「5しょうじ」という言い方もあるんだなあと初めて知りました。
また、草きり場について聞いてみると、「それはなかったですね、この近くは草がなかったから、昔から。そいけんその水田のあぜとか何とかっていうとことかの草をきって食わせよったたいね。牛は家庭に一頭おったけんね。それがぁ今の耕運機の代わりですから。」と教えてくださいました。やっぱり牛は大事だったのだということがわかり、牛の餌についても聞いてみました。「餌はほとんど草やったと。そのー、野っぱらとか、そのー水田のあぜですとか何とか。あぜに生えとう草をあげよったかな。道に生えとう草とかね。それと米をついたときに出る、さくずっていうか、米つくん…精米したら出るでしょうが。」私たちは「さくず」とか、「米つくん」よいう言葉をはじめて聞いたので「さくず、さくず…」と繰り返していると、文吾さんが、「あー、そりゃあ米ぬかっていうんかな」とすかさずいってくださいました。それを草と混ぜて牛のえさにしていたそうです。それが一番の栄養源だったそうです。
牛はオスと雌のどちらを飼っていたかを聞くと、それは各人の好みで飼っていて、雌は子供ができたらお金になっていたそうですが、だいたい耕耘機の代わりに使っていたので力の強い雄を飼っていた人が多かったということです。また、オスの去勢はされていなかったそうです。今度は博労についてきいてみると、「おんさった、おんさった。おおかたそのばくりゅうさんのところで牛の入れ替えをしよった。」とおっしゃったので、私たちは、博労さんには口のうまい人が多かったというのは本当かどうかたずねました。すると、やはり口のうまい人が多かったということでした。馬洗い場と馬捨て場があったのか、という質問に対しては、「馬川っちゅうてね、ちっちゃいかわを深く掘って、それにこう、入れて洗いよったと。牛洗い川も馬洗い川といっしょたい。捨てるところはちょっとなかごとあるねえ。」と答えてくださいました。
焼畑はなかったそうです。次に、炭は焼いていたかについても尋ねました。「あー、やきよったねぇ。炭は貴重品やったもんねえ、あのころは。うーん…収入はよかった、わりよかった。そいけん、そのころは、炭は今の油の代わりじゃったけんのう。」ということでした。そこで、村に電気がいつきたか、についてたずねました。「うーん…生まれたころにはあったけん、昭和14年頃にはあったねぇ。プロパンガスはぁ、はよーあらしたばってんね、あらー誰もが買いきらんやったもんね、ちょっと。三十代のとき、そいけん三十年前くらいにはおおかたどこの家にもはいったじゃろう。その前は全部ほら、薪だけじゃったけんさい、ご飯炊きもお風呂も全部山からとってきて…。」と、炭を焼いていたことについては懐かしそうに話してくださいました。また農協に出荷する前の時代は、米を、いつ、誰に、渡したり売ったりしていたか、についてきいてみると、「農協に出す前は、ほらー、あのー、地主さんっておって、その方に、そのー、やらないけんかったけん。小作料んごとして借り賃として…。やけん農協が扱うごとなってから、農協に…そんころは(地主さんに出していたころは)質はあんまいいよらんかったんじゃなかとね。うーん…まあ量さえ出しよったらよかったね。そのころは検査制度はなかったけんね。今は、ほら、等級つけんしゃあばってんが。ほら、現在はね…」と詳しく話してくださいました。青田売りについてもきいてみると、「いやー、私がしっとう範囲ではそれはなかったごとあるけどね。こっちは水田はそんなよけいなかったけん。」とおっしゃっていました。家族で食べる飯米は、「保有米」とよんでいて、米の保存方法は円筒形のトタンでできた米缶に入れており、約十俵入りだったそうです。また、次年度の作付けに必要な種籾は、ねずみに食べられないようにカマスやかめに中にスギの穂などと一緒に入れて保存したそうです。スギの穂はチカチカするのでねずみがこないらしいです。次に50年前の食事における米、麦のわりあいについて聞くと、佐藤さんは「麦が多かったろうね、白米のご飯は正月くらいの門じゃなか。」とわらっていました。稗や泡、芋のような雑穀を主食にすることはなく、捕食としてたべていたそうです。
昔の隣町に行く道についても聞いてみました。「国道と山道があったくらいじゃろうねえ」
それでは塩や魚はどうしていたんだろうと思い、聞いてみました。「魚は行商さんがたまに来よったね。塩はずっと配給のごたあった。」 また、峠を越えてくる動物がいたかどうかについても尋ねてみました。「ここは特にそれは…。この集落では特別にそれはなかごとあっですね。あんま大きい山もありませんから。…はい。」 そして、若者たちが夕飯の後特に集まる場所はあったのかを尋ねてみました。」青年宿というクラブに集まって、朝まで泊まっていたそうです。私たちは、今もクラブってあるよなあ…と思ってちょっとびっくりしました。
また、規律は厳しかったそうです。特に目上の人に対しては厳しかったということでした。よその村の人が遊びにくることもあったそうです。「若かったけんねえ…」と、またまた懐かしそうに話してくださいました。 それとは逆に、よそ者を村に立ち入らせないように妨害したりすることもあったのかと尋ねると、やはりそれもあったようでした。しかし、それは村の選挙があるときには選挙運動には立ち入らせないようにしていたという一時的なものであったようです。 このように文吾さんは、どんな質問にもスラスラと答えてくださったので、最初は聞きにくいかなぁと思っていた、「恋愛に自由はあったのか」という質問もしてみることにしました。すると、「うーん、自由やったねぇ。今んごたぁなかったけど、かくれてね…」と。どうやら今の若者たちのように街中で堂々と…ということはなかったようですが、恋愛そのものは自由だったようです。
ここで年中行事についてたずねました。「うーん、都合のできる人なかったけん、もー、晩には隣とかにあそびにいったり、きたりしやったばってん、いまはそげんなか。」とちょっとさみしそうにはなしてくださいました。
年中行事は廃止になった田祈祷も合わせると、全部で5つあります。
1.花炒り 2月15日
2.春祭り(春籠) 4月21日 平野神社にて
3.田祈祷 平野神社にて
4.千灯籠 8月4日 山王社で灯籠をあげ、のど自慢大会をしたり花火をしたりする
5.夏祭り 8月5日 無病息災と家内安全を祈り、その後集まって宴会を開く
祭りの当番は班別だったそうです。その班は、「谷班」・「西班」・「クズハラ班」の3つだったと聞きました。
大体聞くべきことは聞き終わったかなぁと思っていると、佐藤さんに、社会科か何かを専攻しているのかと聞かれたので、私たちは「いえ、法学部なんですけど1年生なので一般教養なんですよ。その中で歴史学の講義を取っているんです。」というと、「ほー、法学部かね。私は社会科かなんかをしよんかと思った。それじゃあ大変やねぇ。」と笑いながらおっしゃいました。
質問も終わったので、私たちはヒラノを写真に収めようと思い、佐藤さんに、「平野で写真に撮っていたほうがいい!!っていうとこはありますかね?」ときくと、佐藤さんは奥さんに私たちを山王社のあるところまで連れて行ってくれるようにいってくれました。長時間お話を聞かせてもらった上、山王社まで送ってもらえるなんて、本当に感激の嵐でした。そうして佐藤さんにお礼とお別れを告げたあと、私たちはひらのを歩きまわりました。
本当に佐藤さんはどんな質問にも快く答えてくれて、私たちにちゃんとできるだろうかと不安だった調査もスムーズに進めることができました。佐藤さんには感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。
しこな
ヒラノ(平野)、 ニシヒラノ(西平野)、 ヘントウ(返塔)、 イマヒラ(今平)、
モリノシタ(森の下)、 クズハラ(葛原)
佐藤さんによると、「西平野の田んなかに行ってくる」などと行き来を告げたりしていたそうです。ユアナ(湯穴)―由来は、昔そこから湯が出たらしいということから。
水源−宮下、下の川
また、返答の上のほうに神社があったらしく、そこに行く道を、ヘントウ道と呼んでいたそうです。
あと、山王社の上のほうにある大木は「サブローのき」と呼ばれている。今もある。