佐賀県太良町日の辻 1EC00027P 江崎 みお 1EC00015K 井手 未央 手紙を出した光武信行さんは入院中のため、息子の茂さんと信行さんの奥さん(茂さんは昭和37年生まれ) そして昔から日の辻にお住まいの堀口さんに話を伺った。 Q:この地域に地元の人が使うしこなは何かありますか? A:いやないねぇ。終戦後の食糧難の時代に政府がこの地域は管理しており芋などを作っていたが、山地のためにこの地域は昭和30年初めに当時山だった日の辻を現在みかん作りをしている人たちが年賦償還で土地を買ったのだ。 行政のバックアップもあって開墾され出した。それまでは道も狭く人もそれほど住んでいなかったが、みかん作りに力が入り出してから他の場所から移り住む人が増えて、現在の日の辻になった。 だから村の人は行政上使われる字をそのまま使っている。たとえば今回尋ねた光武さんはカミニタ(上似田)と呼んでいるが、本当に地元の人でしか字では呼ばない。ちなみに光武さんもこの時に別の場所から移ってきてみかん栽培をし始めた。(奥さんは有明町の出身)現在の半分くらいの人が昭和30年の初めに移ってきた。ちなみに光武信行さんは昭和七年生まれで27歳の時に日の辻に移ってきてみかん栽培を始めた Q:みかん栽培のための水はどのように引いているのか? A:日の辻には川はないため、現在は大浦ダムからパイプで引いているが大浦ダムは昭和42年の大干ばつの後昭和45年から造られ始め、送水は昭和53年から。総工費は62億円でダム自体にかかった金額は24億円。(記憶があいまいだったためわざわざ近所の人に電話して聞いていただいた)ダムの水は現在でも飲み水には使わず、みかん作りの農業用水になっている。以前は井戸水を生活用水に使っていたが現在はゴンゲンダニあたりから出る水を使っている。ダムができる前は水源がなかったため水槽を造って雨水を貯めて使って、足りない分を井戸水でまかなっていた。役所はスプリンクラーを立てるのにも資金援助してくれたらしい Q:若い頃はどんなことをして遊ばれていましたか? A:仕事が忙しくてあまり遊んではいない。遊ぶといえばたまに鹿島町か諫早に映画を見に行くくらいだった。そしてその頃はかにや魚が良く取れていたし毎日仕事に出て良かったので毎日仕事をしていた。(ちなみに堀田さんはみかん作りをする前は漁師だった。)当時もっともかにが取れたときは一つの籠に19枚も取れたことがある。(大体1キロで三枚)この辺で捕れるかには『黒いダイヤ』と呼ばれている。現在では養殖もしている。 Q:みかんは潮風が当たっても大丈夫なのか? A:むしろ少しあたった方がいいんじゃないかねぇ。愛媛や和歌山も海の近くにみかん畑はあるし。愛媛や和歌山も海の側では雪が積もることはないようだ。 Q:現在も若い人はみかんを作ったり、漁をしているんですか? A:いや、最近は出稼ぎで港湾工事に携わっている人が多いね。海に潜って潜水工事を全国を回ってやっている人が多いね。なぜこういう仕事に就く人が多いかというと、昔はタイラギ(貝柱のようなもの)を捕っていたが、今は海も汚れて取れなくなってしまったから出稼ぎに出る人が増えたね。諫早湾は特にのり作りが盛んになるに連れてのり作りのために海中に立てる竹のせいもあってか、潮流も変わってタイラギなど採れなくなった。それで瀬戸内海などに出稼ぎに行って潜って採るわけだが、数年前にフカ(サメ)に襲われて亡くなったのは、この日の辻の人だった。 昔はタイラギを一秒間に一個採れるくらいたくさん採れていたが、今は海の汚れのせいで大きく育つ前に貝が死んでしまっている。昔は潮の満ち干によって海に潜っていても濁ってきたり、澄んできたりするのが分かっていたが 今では常にぼんやりと濁った状態になっている。 Q:日の辻に中学校はいつ頃で来ましたか? A:自分が中学校に入るとき現在の大浦中学校に当たる青年学校ができたが戦争の時期は勉強をできる状況ではなく、空襲が続いていた。それか学校には行かずに遊びまわっていた。 Q:戦時中の生活について教えてください A:戦時中はこの辺(日の辻)は川がないため米を作れないので、土地のランク的には下のほうで、丙(甲乙丙の丙)と呼ばれていた。この辺では芋類を造って国から指定された量を出荷していた。 Q:昔のこの辺はどんな感じでしたか? A,夜は外套もないので本当に真っ暗で外を出歩くことはあまりなかった。現在はみかん栽培のおかげで市や県のバックアップを得ることができた 子供の頃は竹などを使って遊び道具を自分達で作っていた 太良町日の辻は30年前にみかん農園として作られた集落で、比較的新しい。 光武さん一家も30年前に移り住んできたそうだ。あまり昔の事はご存知ないとのことで、近所に昔から住んでいらっしゃる堀口さんを呼んでいただき貴重なお話を伺うことができました。ありがとうございました。 日の辻に調査に行った感想 今回行った日の辻はこの調査で知った土地で、あるきみふれる歴史学の授業を受講していなかったらもしかしたら一生行くことのないところだったかもしれない。そう考えると今回の調査は一番の目的である小字を調べるということ以上に貴重な体験になったと思う。 日の辻に行く前に事前にはがきで話しを聞かせて下さいとお願いしていたが、本当に全く面識のない私たちを受け入れてもらえるのか、とても不安だった。しかも私たちは日の辻に行く道を間違えてしまい調査の時間内に今回お伺いする予定の 光武さんのおたくにたどり着くことができるかさえ、分からないほど不安になっていった。しかし日の辻に行こうとする途中、全く知らない小学一年生くらいの男の子二人が地図を片手に道に迷っている私たちに声をかけてくれたのだ。 ―どこに行きたいと?― この一言のおかげで私たちは無事に光武さんにお会いすることもできたのだ。とはいうものの光武さんの御自宅までは彼らにあったところから結構あったのでゆっくり歩いていくことにした。日の辻は山全体で一つの集落と言う感じなのでかなり坂道が続いていた。しかしそこでもまた日の辻の方に助けられたのだ。車を運転していた女性が声をかけてくださり、光武さんの家まで乗せていってくれたのだ。 日の辻はみかん畑が広がり、山になっているので有明海が見渡せる眺めの良い場所だった。光武さんのお宅を尋ねるとすぐに家に上げていただき、日の辻に関する資料を探してくださったり、光武さんも日の辻には移住してきたということで昔から日の辻にお住まいという地元の話しに詳しい方まで呼んでいただいたのだ。三時間くらい話していたが、私が印象に残ったのは昔の有明海での漁の生活についてだった。昔はきれいだった有明海がのりの養殖によって潮流が変わり水がだんだんと濁って来たということだった。やはり漁に関する話しの時が一番生き生きと様々なことを話していただいたように思う。しかし、昔は黒いダイヤと呼ばれていたタイラギなどが、諫早湾の干拓問題などのあおりをますます受けて小さくなってしまったお話をされる堀口さんの悲しそうな顔を思い出す。 今回の調査は光武さんを初めとする日の辻のかたがたの協力がなければここまで調べることができていないと思う。小字を調べるということだけでなく、自分達とは環境が全く違う生活に触れ、見知らぬ地でたくさんの人に親切にして貰いとても嬉しかった。日の辻の方の温かさにふれることができた今回の調査は目的以上に大切なことを学んだ気がした。 光武さんを初めとする調査に協力していただいた皆さん、本当にありがとうございました。 |