青木平

1LA01033S 江口若奈   1LA01044R 緒方枝里

調査に協力していただいた方々:副島俊一さん夫妻 内田弘さん夫妻
                    岩永一枝さん 鬼石マサさん

 まず、手紙を出させていただいた副島俊一さんのお宅に伺った。インターホンを鳴らすと、俊一さんと奥さんが出ていらして、「うちじゃあ、あんまりわからんけん、この村で一番の年寄んとこに連れて行くけん」と言って車を出してくださった。車に乗り込んだ私たちは、車内で副島さんにこの調査の詳細を説明した。「村の中や家の中だけで通用する田の呼び名を集めて、それを地図に記入していくんですよ」「青木平には田んぼはなかよー」「あっ、みかん畑の呼び名でもいいんで」「ふーん、そうねぇ」とあれこれ言っているうちに、車は内田弘さん宅に到着。副島さんも一緒についてきてくださって、ついに本格的調査開始である。内田さんご夫婦と副島さんを前にして地図を広げた。「まずは、青木平の範囲はどこからどこまでかを教えてください」と言うと3人で「モリノシタは入るかね」「カシワギは入らん」などと言いつつ地図を指差して下さった。次にしこ名を聞くことにした。なんと内田さんは田んぼも持っていらっしゃるという。青木平の範囲ではないが、ぜひ教えていただくことにする。次にみかん畑のしこ名である。内田さんの畑の分と副島さんの畑のしこ名を入手した。小字の名前がそのまましこ名になっているものや、家の裏(イエンウラ)など目印になるものを基準にしたものなどがあった。途中で内田さん宅の若奥さんがお茶を出してくださった。ありがたい。青木平という部落は昭和34年位から山を切り開いて作った開拓地だそうだ。まだまだ新しく歴史は浅いらしい。内田さんの田んぼは裏作もできる乾田ではあるが、裏作はしていないという。今、農家は農業だけでは生活できないほど苦しい状況にあるようだ。私たちに偉くなって状況を改善してくれとおっしゃっていた。

 次に水田にかかる水はどこから引いているのかを尋ねた。水田の水はやはり村の南を流れる田古里川から引いているそうだ。用水は町水や各自の家のボーリングでまかなっているという。川から水を取り入れる井堰について聞こうと思ったが、読み方がわからず困ってしまったので、漢字を見てもらった。すると「こりゃぁ‘いでせき’たい」と教えてくださった。いくつかある井堰の場所とその呼び方を地図に書き込んだ。井堰の呼び方はだいたいその場所の小字と一致しているようだ。井堰のところに仕掛けを置いておくと、カニがとれると教えてくださった。しかも毛ガ二だ。9月くらいがよく取れる時期だから、そのころにまたおいでとおっしゃった。ぜひ行きたいと思う。

 次に場所によって米やみかんのでき方に差があるのかを聞いてみた。青木平周辺の水田では7〜8俵、重さにして420〜480sくらい米がとれるのに対し、佐賀平野の水田では9〜10俵とれるそうだ。そうたいした差はないが、やはり山地よりも平野のほうがいいらしい。

 次に、7年前の大旱魃のときの水対策について教えていただいた。内田さんは川にポンプを取り付けて水田に水を入れていたそうだ。川から離れたところの水田ではタンクに水を組みにいって大変だったそうだ。みかん畑のスプリンクラーも止まってしまって、副島さんはあちこちでボーリングをしたとおっしゃった。昭和42年にも大旱魃があったと教えていただいたのでその時の様子についても尋ねた。青木平は新しい地域なので、伝統的な雨乞いなどはないそうだ。その代わりに太良町全域では多良岳に登って雨乞いをするということを教えてくださった。

 逆に、水害についてもお聞きした。昭和37年の7月にあったという。内田さんの奥さんは7日だとおっしゃったが、2人は8日だとおっしゃる。多数決で7月8日だったということで落ち着いた。20〜30人くらいの死亡者も出たらしい。大浦小学校裏の権現山で土砂崩れが起こったそうだ。内田さん宅の前の道も水があふれていたという。当時は堤防もなく、この水害を教訓にして堤防が作られたそうだ。

 「この辺は台風の被害は大きいのですか」と尋ねると「平成3年はひどかったよ」とおっしゃった。風除けの方法としては屋根の上に土をつける、雨戸をつける、窓に板を打ち付けるなどがあるらしいが、これも平成3年の教訓を元にそれ以後行われるようになったことだそうだ。

 「村の中をいくつかに分けて『古賀』とか『小路』とか呼んでいると聞いたのですが」と言うと、青木平の部落そのものは14戸しかないし、そういう呼び方はないとおっしゃったが「みかんとかなんとかでなら班とかはある」そうだ。古くからある部落にはそういうものが多く残っているのに、新しい部落である青木平の担当になるなんて運が悪かったなあと3人は少し申し訳なさそうだ。いえいえ、そんなことはありません。貴重なお話をたくさんしていただいて、私たちは十分満足です。ということで、気を取り直して質問に戻ることにした。山や谷、沢の名前、山道や岩や大木など目印になるものにつけられた名前は何かあるかどうか尋ねた。青木平にはカンザン(寒山)と呼ばれる山がある。カンザンの木を切ると火事になるという言い伝えがあったが、内田さんはバンバン切っていたと笑っておられる。さすが大物だ。そのカンザンの場所を地図に示していただいた。

 次に、草切り場や焼き畑はあったかどうかを尋ねた。内田さんは「遅くきたけんそがんとこはなかったもん」とおっしゃった。代わりに副島さんが佐賀平野にいたときのことを話してくださった。最初は誰でも草を切ってよかった所があとからは1軒1軒に幅1mずつに分けられてしまって、それが10〜20mくらいつながっていたそうだ。場所はなんとくじ引きで決めるという。そこの草切り場は部落を囲んだ堤防のところにあって、いろんな草が生えていたそうだ。ここで青木平のことに話を戻すと、牛のえさにする草はみかん畑、道の脇、山、水田のあぜに生えているものを使ったそうである。

 共同作業「ゆい」(結)について聞くと。手間返しとかゆいひと言うと教えてくださった。今日はあんたが田んぼという風にだんだんまわっていくそうだ。これは現在でも行われているのだという。

 あぜに大豆や小豆を植えていたことについて尋ねると、あぜがもったいない、田ん中の面積が少ないから食料の足しになるという点でかなりの有効利用になっていたらしい。また、大豆や小豆は出来がよかったそうだ。

 農薬のない時代に、どうやって虫除けをしていたのかという質問に対しては、水田には廃油か灯油を使っていたということだ。水面に油の膜が張るので、そこに竹を使って虫を落とすと虫は動けなくなるという原理なのだそうだ。みかん畑は「いっちょいっちょシートでかぶせていた」そうだ。

 塩や魚など海で取れるものはてんびんをかついだ魚屋が売りに来ていたそうだ。魚屋は親子だったそうだ。時代が新しくなると小さなトラックに乗ってきていたらしい。1玉12円で卵を売りにくる人もいたそうだ。塩は専売で買ったり、鉄板に海水をのせて、海岸で炊いて作ったりしたそうだ。鉄板の大きさは1uの深さ20cmだという。海水をつぎたしながら1日炊くと1つの鉄板に1斗くらいとれていたという。そのあとはにがりを使って豆腐も作っていたという。

 電気やガスのない時代はどうしていたのかと尋ねると、馬はおらず、牛が2,3匹ほど1軒あたりにいたという。農業以外の現金収入のための乳牛と、農耕に使う和牛がいた。それらの牛は「ばくりゅう」(馬喰)と呼ばれていた口のうまい家畜商から買っていたそうだ。プリントには馬洗い川はあるのに牛洗い川がないのはなぜかと書いてあったが、水害で川が三面コンクリートで固められる前は、牛洗い川もあったと教えてくださった。田古里川で洗っていたという。

 村の神様をまつる祭りなどは1年を通じてどんなものがあるのかを尋ねてみると、青木平は新しい部落なので、そういう祭りはないとおっしゃった。ここで録音テープが止まっていることに気づく。慌てて裏面にセットしなおした。

 次に、昔の若者の姿について聞くことにした。夜は独身の男たちは公民館(クラブと呼んでいた)に寝泊りしていたそうだ。女の人と知り合うのは映画とか芝居に行くことがきっかけになっていたそうだ。昭和30年くらいまで映画や芝居は行われていたという。内田さんは長崎まで夜這いに行っていたというプライベートなことまで話してくださった。

 ここで今後の農業についてのご意見を伺った。輸入自由化によって、農業だけで食べていくことはかなり難しくなっているという。食糧危機の時代がくればいいのにとおっしゃっていた。また、諫早湾干拓については税金の無駄遣いだと考えていらっしゃるようだった。加えて、諫早湾干拓事業が実行されるまでの漁業者の人たちの反対運動などについても話してくださった。今では魚のとれなくなった海で、たくさんの魚を捕まえていたことや、うなぎをとる仕掛けなどについても、興味深い話をうかがった。話を聞けば聞くほど、昔の生活はなんて心にゆとりのあるものなんだろうとうらやましく思った。自然に囲まれ人は今よりずっと人らしかったのかもしれない。

 最後に農業の良さについてのお話をうかがった。時間に制限されないことがやはり最大の利点らしい。時期が時期だったので、梅雨についての意見をお聞きしたところ「嫌だけど、雨の降らんなら困るしねぇ」とおっしゃった。収穫といえば喜ばしいことだろうと予想していたが意外にも農業をしていて1番きついことだった。その理由はせっかく収穫していても値段が安いとわかっていると何倍もきつく感じるからだという。生活がかかっている切実さをひしひしと感じた。

 質問を一通り終え、少し世間話をしてから内田さん宅をあとにした。本当に貴重な時間をさいていただいてありがとうございました。

 目的はほとんど果たしたのだが、しこ名があまり集まっていない。副島さんに相談すると、車で近所の家まで送っていただけるという。ご好意に甘えて三原さん宅に向かった。しかし、いちご畑にいらっしゃるはずが姿が見えない。外出中だったようだ。あきらめて次は岩永さん宅に向かった。副島さんがお家の方におばあちゃんの居場所を尋ねていらっしゃると、家の横でおばあちゃんが仕事をしていらっしゃった。早速、調査の趣旨を説明してしこ名を尋ねた。気さくなかたでしこ名のつけ方もかなりおもしろかった。もっと違う話もしたいところだが、時間がないということでお礼を言って岩永さん宅をあとにした。

 またまた副島さんに甘えてしまって、いろいろな家を回ってみたがどの家も仕事中だったのだろう、残念ながらいらっしゃらなかった。

 私たちは副島さん宅へ戻った。本当に本当にお世話になりました。お礼を言って副島さん宅をあとにした。なんて優しい方だろう。別れ際に歩いていける距離にある鬼石さん宅によってみることを勧められ、私たちは鬼石さん宅に向かってみた。

 着いたはいいが、人影がない。あきらめかけたが、一応「こんにちは、誰かいらっしゃいませんか」と声をかけてみた。すると奥から鬼石さんとお嫁さんとお孫さんがいらっしゃった。また急いで趣旨を説明して、しこ名を尋ねた。少しいぶかしげだったが、鬼石さんは場所を指で指し示しながら教えてくださった。

 時計を見るともうそろそろバスの時間。私たちは心やさしい人の宝庫、青木平をあとにし、大浦小学校前に向かって坂を下った。人の優しさに触れたいい旅だった。

  調査の結果、しこ名の範囲は以上のようになった。

デグチのなかに・・・ゴウシキ(郷敷) デグチ
クズハラのなかに・・・イエンウラ  イエンマエ
アオキビラ(青木平)のなかに・・・イエノグルリ トンシャノグルリ ミヤザキバタケ
モリノシタのなかに・・・ナガセマチ

青木平は戸数も少なく新しい部落のため、得られたしこ名は少なかった。なお、調査に協力していただいた方で調査範囲外に田ん中を持っていらっしゃる方がいたのでその範囲は地図に示した。